We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: OSHOネオタロット


58.Work/Worship
   ワーク/ワーシップ(仕事/礼拝)
 自分の責任を回避してはいけません! 自分がやるワークのなかでは
強烈に生きていきましょう。そして、人間として可能なことなら何でも
やりつづけましょう。それでいて同時に、どのような緊張も創らずに、
欲求不満にならずに、結果にこだわることなく、自分のやっていること
を信頼して祈りにならしめましょう。


 あるマスターが弟子のひとりと旅をしていた。その弟子にはラクダの
面倒を見る役目があった。彼らは夜になって、疲れて隊商宿に着いた。
ラクダを繋ぐのはその弟子の義務だった。彼はそのことを気にせずに、
ラクダを外に放しておいた。

彼はただ神に、「ラクダの面倒を見てください」と祈った。
そして彼は眠り込んだ。


 朝になって、ラクダはいなくなっていた--盗まれたか、さ迷い出たか、
 起こるべきことが起こった。マスターはたずねた。

    「ラクダはどこにいる?」

 すると弟子は言った。
 
   「私は知りません。神に聞いてください。私は
    アラーにラクダの面倒を見てくれるように伝えました。
    私はとても疲れたいたのです。ですから、私はどうなった
    のか知りません。それに、私には責任もありません。
    私はアラーにはっきりと伝えたのですから!それにあなたは、
    『アラーを信頼しなさい』と教えつづけています。
    だから私は信頼しました」

 マスターは言った。
 
   「アラーを信頼するがいい。だが、まず自分のラクダを
    先に繋ぎなさい- アラーはお前の手以外に手をもって
    いないからだ」



 もし神がラクダを繋ぎたければ、誰かの手を使わなければならない-
ほかに神の手はない。

それに、それはあなたのラクダだ!

 いちばんいい、
 もっとも簡単な、
 もっとも手短な方法は、自分の手を使うことだ。

ラクダを繋いで、それからアラーを信頼するがいい。
あなたは自分にできることをなんでもやればいい。
それは、結果を確実にするものではない。保証はない。
だから、あなたは自分にできることをなんでもやるがいい。
その後は、なにが起ころうとも、それを受け容れることだ。

 これがラクダを繋ぐ意味だ。
 自分にできることをなんでもやるがいい。

自分の責任を回避してはいけない。その後は、なにも起こらなくても、
あるいは、なにがうまくゆかなくても、アラーを借頼することだ……。

 アラーを信頼して、怠けていることは、非常に簡単だ。
 アラーを信頼せずに、やり手でいることは、非常に簡単だ。
 人間の三番目のタイプ--
 アラーを信頼して、しかもやり手のままでいることは、むずかしい。

 だが、いまではあなたは楽器にすぎない。神がほんとうのやり手だ。
 あなたは神が手にしている楽器にすぎない。

 人間として可能なことならなんでもやりつづけるが、そのことで
緊張を創らない人が宗教的な人だ。
そのときには、行為はある種の折りだ。
結果はこうあるべきだという欲望はない。
      そうなったら欲求不満はない。

信頼が、あなたが欲求不満にならずにいるのを助けてくれる。
そして、ラクダを繋ぐことが、あなたが活き活きと生きるのを、
強烈に活き活きと在るのを助けてくれる。



        THE WISDOM OF THE SANDS,Vol.1,pp.70-72


54・Single-Pointedness
   一点に集中すること
 学識のある人は、生命力にあふれている人のところに行かなければな
りません。プラスチック製のものは、〈真実なるもの〉 のところに行か
なければなりません。

サラハは仏陀より
およそ2世紀後に生まれた。
彼は枝分かれした一方の枝の直系だった。
ひとつの枝は、
マハーカーシャッパから
ボーディダルマへと伝わり、
禅が誕生した。
その枝はいまも花に満ちている。

もうひとつの枝は、
仏陀から
彼の息子であるラーフラバドラ、
ラーフラパドラからシュリーキールティ、
シュリーキールティからサラハ、
そしてサラハから
ナーガルジュナへと伝わっていった。
これがタントラの技だ。
それはいまも
チベットで実を結んでいる。

タントラはチベットを改宗させた。
そして、
ボーディダルマが
禅の祖師であるのと同じように、
サラハはタントラの祖師となった。
ボーディダルマは
中国、韓国、日本を征服した。
サラハはチベットは征服した。

サラハは
タントラ・ヴィジョンの祖師だ。
それはとほうもなく重要だ。
人類の歴史の上でも、
とりわけ現在という時点においては---。
なぜなら、
新しい人間が
生まれ出ようとして奮闘し、
新たな意識が
扉をたたいているからだ。
そして来るべき世界は
タントラのものになるだろう。
というのも、
もはや二元的な姿勢が
人の心をとらえることはできないからだ。

サラハの元の名前はラーフルという、
それは彼の父がつけた名だ。

彼がシュリ・キルティの許にいった時
シュリ・キルティが
サラハに伝えた最初のことは、
すべてヴェーダを、
自分の学識すべてを
落とすことだった。

それはサラハにとって
困難なことだった。

知識を放棄するのは
この世で一番難しいことなのだ。
まず、その一等初め
どうやってそれを放棄する?
それはあなたの内にある。

あなたはあなたの王国から
逃亡することもできる。
あなたはヒマラヤに行くこともできる。
あなたはあなたの富を
分配することもできる。

でもどうやって
あなたの知識を放棄する?
そして
そこから再び無知になることは
あまりに苦痛に満ちている。
それはありえる最上の堪え忍び

再び無知になること
再び子供のようにあどけなくなること

しかし
彼には準備ができていた。

幾年かが過ぎていき
少しづつ彼は
知ったすべてのことを
ぬぐい去っていった。
彼は偉大な瞑想者になった。

ちょうど偉大な学者として
たいそう有名になりはじめた時のように
今や偉大な瞑想者としての
彼の名声が拡がりはじめたのだった。

新芽のように
朝露のように
あどけなくなったこの青年を
ただひとめ見ようと
人々ははるばる遠方からやって来始めた。

ある日、
サラハが瞑想していると、
突然彼はヴィジョンを見た。

それは女性が市場にいて、
彼女が彼の本当の師になるという
ヴィジョンだった。

シュリ・キルティは
彼を道の上に押しやっただけなのだ。
ほんとうの教えが
ひとりの女性からやって来る。

彼はシュリ・キルティに伝えた。
「あなたは私に
 路を示してくださいました。
 あなたは私が習得したものを
 取り去ってくださいました。
 あなたは半分の仕事を
 やってくださいました。
 いま私は、
 自分のワークの
 残りの半分をやる用意が
 できています」。
笑うキルティの祝福を受けながら
彼は去って行った。

彼は市場にやってきた。
彼は驚いてしまった。
彼はヴィジョンの中で見たのと同じ女性を
本当に見つけだしたのだ。

彼女は矢を作っていた。
彼女は矢細工師だった。

矢作りの女は低いカーストの女だ。
そしてサラハは教養あるブラーミン、
王の宮廷に属していたブラーミンが、
矢細工師の女のところにいくというのは
象徴的だ。

教養のあるものが
活力ににあふれたものの許に
行かなければならない。
整形されたものが、
本物のところに
行かなければならないのだ。

彼は、
活き活きと生に輝き、
矢の柄を切りながら、
矢を作ることに
完全に飲み込まれているこの女性を、
この若い女性を見た。

彼はすぐさま彼女の現存に
尋常ならざるものを感じ取った。
彼が未だかつて出会ったことのない
何かを感じ取った。

彼女は自分の動きに
まったく飲み込まれていた。
サラハは注意して見守った。
矢が出来上がり、
その女性は片方の目を閉じ、
片方の目を開けながら、
目には見えない的を狙う仕草をした。

そしてなにかが、
コミュニオンのようななにかが起こった。
彼はそれまで一度も
そういったものを感じたことはなかった。
その瞬間に、
彼女がやっていたことの
スピリチュアルな意義が、
サラハにわかりかけてきた。
左も右も見ることなく、
彼は彼女を見た……。

彼はそのことが言われるのを
何度も聞いていた。
そのことを読んだことがあった。
彼はそのことを熟考していた。
そのことをほかの人びとと
議論したことがあった。
真ん中に在ることが正しい、と。

彼女はあまりにも
完全に飲み込まれていた、
あまりにも全面的に
動きのなかにあった
それもまた仏教徒のメッセージだ。

動きに全面的に入っていることは、
動きから自由であることだ。
トータルでありなさい。そうすれば、
あなたは自由になる。

その女性の美、輝きは、
全面的に飲み込まれることから来ていた。
初めて彼は、
瞑想とはなにかを理解した。

特別な時間だけ坐って
マントラを繰り返すのではなく、
教会や寺院やモスクに行くのではなく、
生のなかにあることを.......。

些細なことをやりつづける.......
だが、
そのように飲み込まれることで、
あらゆる動きのなかに
深遠さが開示される。

彼は瞑想がなんであるかを
はじめて理解した。

彼は瞑想をし続けてきた。
彼はハードに戦い続けてきた。
しかしはじめて
瞑想がそこにあった。
彼はそれを感じることができた。
彼はそれに触れることができた。
それはほとんど
手に触れんばかりのものだった。

と 
その時彼は
片目をつぶり、
もう一方の目を開けるのは
シンボルであること
仏教徒のシンボルであることを
思い出した。

仏陀は言っている.......。

頭の半分は理性であり
頭の半分は直感だと言っている。

左側の半球は、
理性、論理、
とりとめもない思考、分析.....。

右側の半球は直感的で詩的だ。
インスピレーション、ヴィジョン、
先験的意識、先験的目覚め
議論するのではなく
あなたはただただ知る。

推理するのではなく
あなたはただただ了解する。
これが先験的目覚めの意味だ。
それは単純にそこにある。

真実は頭の右側で知られる。
真実は頭の左側で推理される。
推理はただの推理であって
経験じゃない。

突然
彼は女性が
片目をつぶったことを了解した。
彼女は理性の目を閉じる
シンボルとして
目をつぶっていたのだ。
彼女は愛、直感、目覚めの
シンボルとして
もう一方の目を開けていたのだ。

女性の行為を覗き
その真実を認知したので、
女性は彼を「サラハ」と呼んだ。

「サラハ」とは美しい言葉だ。
それは「矢を射し者」という意味だ。
「サラ」とは「矢」のことで、
「ハ(ン)」とは「射た」という意味だ。
「サラハ」とは
「矢を射し者」という意味になる。

彼がその女性の行為、
その象徴的なしぐさの意味を悟り、
その女性が与えようとしたもの、
示そうとしたものを
読み取って解き明かしたとき、
彼女はうれしそうだった。

彼女は踊りあがって
彼を「サラハ」と呼び、
そしてこう言った。
「さあ、
 今日からあなたは
 サラハと呼ばれることに
 なることでしょう。
 あなたは矢を射たわ。
 私の行為の意味を理解して、
 あなたは射ぬいたのよ」
「サラハ」は美しい言葉だ。
それは矢を射たものという意味だ。

 
サラハはまず、
すべてのヴェーダ、教典、知識を
置き去りにしなければならなかった。

いま、
彼は瞑想すらも置き去りにした。

いまでは歌うことが彼の瞑想であった。
いまでは踊ることが彼の瞑想であった。
いまでは祝祭が
彼のライフスタイルのすべてだった。
 
サラハと矢細工師の女は
火葬場に移っていっしょに住んだ。
火葬場に住みながら、祝っていた! 

死しか起こらないところに住みながら、
楽しく生きていた! 
もしそこで楽しむことができたら、
喜びがほんとうにあなたに起こったのだ。
いまではそれは無条件だ。
 
Osho - The Tantra Vision
              THE TANTRA VISION,Vol.1,Dp.5-20
     邦訳「タントラヴィジョン」 ユニオ・コーボレーション刊


35.Mastery of Moods
   ムードの習得
 幸せであろうと、不幸であろうと、
 「これもまた過ぎ去る」と覚えておきましょう。
 この鍵が、あなたをムードの犠牲者ではなく、
 自分のムードの支配者にしてくれます。


 多くの賢者たちを擁していた王が自分の富に不満を感じた。
しかも近くの国、彼の国よりも力の強い国が攻撃の準備をしていた。

王は死を、敗北、絶望、寄る年波を恐れていた。
そこで、彼は自分の賢者たちを呼んで言った。

「なぜだかはわからないが、
私はある指輪を捜さなければならない……

それは、不幸なときには私を楽しませてくれると同時に、
もし幸せなときに見たら、悲しませてくれるという指輪だ」


 彼は鍵を、ふたつの扉を開くことのできる鍵を求めていた
   幸福の扉と不幸の扉。
   
   彼はなにを求めていたのだろう? 
   
   彼は自分のムードの習得を求めていた。
   自分のムードの主人になりたいと言っていた
   彼はもはやそれらの犠牲者になるのを望んでいない。

 賢者たちは相談しあったが、どのような結論も見い出せなかった。
ついに彼らはスーフィー神秘家のところに言って助言を求めた。
スーフィーは自分の指から指輪を外し、それを彼らに与えて言った。

「ひとつ条件がある。
それを王に与えるがいい。だが、彼に伝えることだ。
すべてが失われ、混乱の極みに達して、苦悩の極みに達して、
まったく望みがなくなったときにしかその石の裏側を見てはならない。
さもなければ、彼はメッセージを逃す」

 王は従った。国は失われ、自分の命を救うただそれだけのために、
彼は王国から逃げ出した。
敵が迫っていた。彼は騎馬の音を聞くことができた…‥・。
しかも馬は死んでしまい、彼は自分の足で走った……
彼は窮地に陥った。底の知れない深淵しかなかった。

 最後の瞬間になって、彼は指輪を思い出した。
彼はそれを開けた。石の裏側を見ると、
そこにメッセージがあった。そこには

    --これもまた過ぎ去る--

               とあった。

王はその後、奇跡的に窮地を脱した。
そして味方の軍は脅威の逆転勝利を勝ち取り、王の手に国は戻った。

国中が沸き返る勝利の祝賀の中、王は再びあの指を思い出し、
ひとり席を立つと、そっとあの指輪を取り出し、あのメッセージを再び見た。

    --これもまた過ぎ去る-- 


そうして王は、浮き立つ心を静め、祝賀の席に戻っていった。



                  UNTIL YOUl DIE.pp.192-204


29.Gratefulness
   感謝

あなたのハートが感謝でいっぱいになっているときは、
閉じているように見えるどんな扉でも、
さらにもっと大きな祝福への開きロとなりえます。





 禅の究極を達成した女性たちはごくわずかしかいない。
    蓮月(れんげつ)はそうした女性たちのひとりだ。

 彼女は巡礼の旅をしていた。
日が暮れるころある村に着いたので、一夜の宿を求めた。
だが、村人たちは扉を手荒く締めた。彼らは町の伝統的な
仏教徒だったにちがいない。彼らはこの禅の女性がそこに
泊まるのを許さなかった。彼らは彼女を村から追い出した。

 寒い夜で、年老いた女性には泊まるところがなかった
 ……それに空腹でもあった。

彼女は野原に立っている一本の桜の樹を
 拠りどころにしなければならなかった。

ほんとうに寒くて、彼女はよく眠れなかった。
 それに危険でもあった。--野性の獣や、何もかもが、--

 彼女は真夜中に目が覚めた--とても寒かった。

 そして、春の夜空に、満開になった桜の花が、
 おぼろ月に向かって笑っているのを見た。
 その美しさに圧倒されて、彼女は起きあがり、
 村の方角に向かってお辞儀をした。

       私が泊まるのを断るという
           彼らの親切さゆえに
       私はこのおぼろ月の夜に
          花の下にいる自分に気がついた

非常に感謝して、彼女は自分の宿泊を断った人たちに礼を言った。
さもなければ、彼女は普通の屋根の下で寝ていて、

             この祝福を!

--この桜の花、おぼろ月とのささやき合い、

    そして夜の沈黙、
   夜のこの完全な沈黙を逃していたことだろう。

   彼女は怒ってはいない。
     彼女はそれを受け容れる--

    それを受け容れるだけでなく、それを喜んで迎え入れる。
                      彼女は感謝する。



           生は途方もない。

そして毎瞬、毎瞬、
それはあなたへの千とひとつの贈りものをもってやってくる。

だがあなたは、欲しがっている。
自分のマインドで非常に忙しく、心を奪われているために、
自分の考えであまりにもいっぱいになっているために、
その贈りものをすべて拒絶する。

  神はやって来る--あなたは拒絶しつづけている。

    生がもたらす全てを感謝をもって受け容れる瞬間、
                人はひとりの覚者になる。



    ZEN:THE PATH OF PARADOX,Vol.3,Dp.179-180


32.Beyond the Small Family
   小さな家族を超えて

あなたは全体の一部です。存在に属しています。

部分への執着に、
より大きな全体へと入っていくのを妨げさせてはいけません。


Bhagwan Shree Rajneesh

 イエスに関する非常に神秘的な物語、
(愛情深い)イエスにしては、非常に厳しく見える物語がある。

 彼は群衆に語りかけていた。すると、誰かが言った。

 「イエス、あなたのおかあさんが
  外の方で待っていらっしゃいます。
  でも、人の集まりが大きすぎて、
  彼女はなかに入ってこれません。
  あなたに会いたがっておられます」

イエスは言った。「誰も私の母ではない」



 そしてあるとき、
イエスがまだ子どもだったころ、父母と共に毎年
恒例の祝祭でユダヤの偉大な寺院に来ていたが、
両親から離れてしまった。

両親は捜しに捜し回った。
そして夕方になり、彼らが心乱れ、ひどく心配に
なっていたところで、ようやくイエスが見つかった。

彼はある学者たちといっしょに坐っていた

--子どもにすぎないのに、
   彼は未知なるものについて
   彼らとなにごとか議論していた。--

父ヨセフは、彼のところに行って、こう言った。

 「イエス、ここでなにをしている?
  私たちは一日中お前のことを心配していたのだよ」

 イエスは言った。

  「私のことは心配しないでください。
   私は、私の父の仕事をしていたのです」

 ヨセフは言った。

 「私がお前の父親だ……それに、ここで
  どんな仕事をしているというのか?
   私は大工だ!」

 ところが、イエスが言った。

  「私の父は天にいます--
    --あなたは私の父ではありません」



 子どもがまさに
母の肉体を離れなければならないように、人もまた、
いつの日か、父母の子宮から精神的に出なければならない。

--肉体的にというだけではなく、精神的にも、
--精神的にというだけではなく、スピリチュアルな意味でも。

そして、子どもがスピリチュアルな意味で生まれるとき、
過去から完全に脱けるとき、過去との関係を究全に絶つとき、

そのとき初めて、その子は自己に、独立した現実になる。

それまでは、
母親、あるいは父親、あるいは家族の一部だったにすぎない。

        けっして自分自身ではなかったのだ。


            NO WATER,NO MOON,pp.173-179


 もしあなたが家族と恋に落ちたら、
 その愛を超えなければならない。

 さもなければ、
 その愛そのものが、
 その執着そのものが、
 もっと大きな全体へと入ってゆくのを許さない。


            COME FOLLOW ME.Vol.2,p.122

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