We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: FAIR(公心)か? FEAR(恐れ)か?



マインドは問い続けなければ墜落してしまう

だから「問い」を作り続ける

「生き残る手段」としてのマインドそのものが生き残る為に
問題を再生産し続ける・・・・・



私たちは何かをし続けないと不安になる、イライラする
かといって、「マインドはもうウンザリだ!」となると
子犬が自分の尻尾を追いかけ回してクルクル回転するようなことになる

なんとしてでも立ち止まらない口実を作り続けている・・・

誰が?

それは私たち自身じゃ無い、マインドというシステムの暴走に過ぎない
何でシステムがあたかも生き物のように、自己の存在価値を主張するのか?
と言えば、その根底に不安があるからだ、そしてその不安は
短絡的な比較から発生する

短絡的な比較をするならば、確かにそこには優劣がある

「さっき」と「今」との比較、商品の値段の比較、テストの成績の比較、
身長や体重の比較・・・  ありとあらゆる比較は、パラメーターが
限定されれば可能だ・・・・  

しかし、
総合的な存在事物同士を比較した場合
あらゆる存在はあらゆるパラメーター、あらゆる側面があるために
単純な比較、短絡的な比較は意味を成さない

オモチャのアヒル一つと銀河系一つとだって比べることは出来ない

もちろん人間同士だって、人間と昆虫とだって、比較できない

あくまでもわたしは人間のひとりだから、ゴキブリ一匹よりも
ひとりの人命の方が大事だと即答するのに過ぎない・・・

じゃあ、それならば、
「宇宙の果てはどうか?」とか
「人間はどこから来てどこへ行くのか?」とか・・・

   ・・・果たして回答可能だろうか?

       「これぞ絶対の真理だ!」

       っと自信満々に喧伝している人達には
                理解出来ない話だろう・・・・

何か特定のスケール、何か特定のパラメーターに限定するなら
確かに明確に回答が出るだろう

何か実用的な方法論を探るなら、ベストなひとつに絞れるかも知れない

しかしそういった限定だらけの特定の価値感を「絶対の真理」と
言い張ることが出来る人というのは、本質的に鈍感なのじゃ無いだろうか?

何か一つでも「寄って立つ前提」あっての真理とは、絶対的なものではない
その〝前提〟という庭から一歩出てしまえば、消滅するホログラフだ

だから、
生きる意義を問うならば、「いまここ」から一歩たりとも踏み出してしまうと
わたしたちは迷子になる

つまり、
「生きる」「味わう」「感じる」ということは「今ここ」でのみ可能だが
「生きながらえる」「生き残る」という方法論、手段に一歩踏み出して
流されてしまうと、わたしたちは特定の価値体系と競争意識に捕まり、
特定の「~ねばならない」に溺れて、強迫観念の虜になってしまうのだ

もし、お時間があれば、ちょっとイメージしてみて下さい

5分間だけでイイです

3分、いや、時間がなければ1分でもイイです


「全宇宙の質量、全宇宙のベクトル、全宇宙の責任を
あなたがひとりだけで背負ってみる」というものです。

まあ、つまりアティーシャの瞑想の簡易版ですね!

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(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)
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これは、はじめる上では勇気が必要です

だって全宇宙の重みですよ???   むりっしょ?wwww JK(常識的に考えて)

自分自身の事でさえ、普段は精一杯!!

女房、子供がいれば、パパとしてだけでも、もちろん大変!!

自分の親族、自分の家の回りの地域社会、自分が住む国家、
さらに拡げれば、この全地球の重み・・・

いやいや!、この太陽系、この銀河系、この宇宙全体の重み・・・

考えてみれば、多分かなり手前でペッチャンコになりそうな重みです!!


でも、イメージだけですから(笑)思い切ってやってみましょう・・・

すると気が付くはずです

中途半端が一番キツイって!!

「全宇宙の重み」まで行っちゃえれば、もうシメたモンです!

つまり、完全にホールドアップになるはずですよね?

なにせ、私たち地球人はまだ、惑星感の交流さえして始まっていないのだから
そんな宇宙の果ての、未知の世界までの重みなんて、背負えるわけないでしょ?

だから、もうグルジェフのストップ瞑想じゃないけれど、完全に凍り付いてしまうでしょう!!

も~~開き直るしかないんです(爆)


誰かが、あなたに突っ込んでくるかも知れません

「なんだって?お前さんがすべてのすべての、すべて~~の責任者だって?」

「じゃあ、このあいだ買ったばかりの新車が誰かに落書きされたんだけれど
それもおまえのせいなんだな?」

「おいこら!弁償しろ!!」


でも、あなたは開き直ってるので平然と答えることが出来るハズです

「ボクは全宇宙の責任者なんです」

「だから、あなたの車に落書きされた原因についても、わたしには責任があるのでしょう」

「でも、わたしには全宇宙の責任があるのだから、あなた一人に起きたことが
どうすれば、責任がとれるのか?私には解らないんです」

「果たしてあなたにわたしが新車を弁償することが、本当に全宇宙のトータルバランスに
とって、“良い”ことなんでしょうか?」

「それはあなたは近視眼的に見れば不当な仕打ちを受けたと思っているかも知れない」

「でも、あなたがどこかで行った不当な行為で傷つけたカルマが、
        あなたに返ってきただけかも知れないじゃないですか?」


全宇宙的責任というのは、あなたが瞬間瞬間いまここにいることなのだ

そこが、全宇宙のニュートラルポイント、グラウンドゼロなのだ

つまり、あなたは宇宙の中心にいるのだ。

もし、あなたが一瞬でも間違えたなら、その僅かな片寄りは
あなたの全細胞を木っ端みじんにするだろうから

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「真実はひとつか?」


野球やサッカーのようなスポーツのゲーム

囲碁将棋のような知的なゲーム

コンピューターゲームや社会秩序の維持に関わる法律

なにかの基盤、なにかの前提の上での話なら、
解答はひとつ、判定はまよわずに、これだといい切れる事は多いだろう。

実際、それを前提で社会は動いている


でも、やや抽象的な意味で、「真実とは?」
と問うたとき、それはひとつに限定できないように思う。


真実という言葉は、ひとがそれに殉じることが出来ることを
指し示していると思う。 

  そこにのめり込んでいる人にとっては
  「ひとつに限定出来ない」と私が言ったら
   私の胸ぐらを掴みたくなるかも知れないが・・・

その怒りの背景にはある種の価値観や美意識への
愛情、愛着、敬意が見られる

つまり、「真実」というのは個々人の主観的な問題なのだ。

客観的な事実なのか・・・・? 
主観的な真実なのか・・・・?

事実認識が共有されているのにもかかわらず
意見がぶつかり合う場合の多くは、
 本当に問題(焦点)になっているのは
         大概、めいめいが前提とした価値基準のように思う。

つまり、言い争いや、あるいは一個人の思索の中での葛藤は
複数の価値観が、その優位な座を奪い合っていると言う風にいえるだろう。

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「神:その拾った財布、交番に届けなさい!」
「悪魔:いやだ!」

単なる事実認識の問題ならば割合、
事務的に究明できる、特定できる場合が多いと思う。

あるいは、事実に対する目撃等の資料が不足している場合
「結局事実は判りませんね」ということが唯一残された事実
なのかも知れない。

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そこにはそれほど、固執すべき議論は起きない。
データーに基づいた客観的事実は共有可能だからだ。

でも、人同士が言い争う場合は、
違った価値観に基づいた違った真実の感触
という問題が関与しているから、
ややこしくなったり、微妙な結末になったりする。

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ひとりのひとが、ある事象に対して、ひとつの真実を感じた場合、
それはそのひとの「(良かれ悪しかれ)拘り」が存在していることを
意味していると思う。

  そして、
  他者の持つ、別の真実の感触=タッチと、往々にして衝突する。

あらゆる議論が不毛だとは思わないが、議論というのは往々にして
対象となるテーマに対して複数の真実同士が衝突して埒が明かなくなってしまう。

どうしても相手の価値観を容認できない場合、相手の真実を
否定せざるを得ないというわけだ

ある人にとっては、
人間関係の和が重要で、多少の原則を無視することも
やむを得ないということが真実かも知れない

またある人は、
例えば神という超越的な存在を前提として、人間同士の
「まあまあ」なやり取りに憤然とするかも知れない

そしてある男は、
愛する女房子供を守り抜くことが、全てに優先する
正義であり、真実なのかも知れない。

たとえ唯ひとつの事象に対してであれ、
価値観の違いや、観察する視点の違いから
各人それぞれの真実が浮かび上がってくることもあるだろう。

そう、

たったひとつの事象を対象にしたとしても、
真実は多種多様=無量無辺、八百万(やおよろず)に有り得るのだ。


真実をひとつと断定したとき、それは一種の信条、一種の宗教と呼べる。

そしてそれは往々にして個人のレベルでも“宗教戦争”を勃発させる。

それは、かなり惨たらしいやり取りも起こり得るのだ。


往々にして、良かれ悪しかれ
ひとが何かそこに真実を感じるものがあり、その真実に打たれ、
客観的な事実や論理、社会的常識や良識を越えて、
突き動かされることだって大いにありえる

まあ、人から見れば彼はキチガイということになるだろうが・・・

でもそこで、
何かに神の啓示を感じて突き動かされるのであれ、
そんな人をキチガイだと笑い転げたり、石をぶつけるのであれ、
真実を唯ひとつとして拘る、限定して考えるのは、
それは視野狭窄であり、脅迫観念=FEARが関与していると思う


書きたかったことはひとつだ

  真実を問題にすると、そこには
  絶対的なルールブック(聖書や六法全書)は、
  存在し得ない(無底)ということだ。だから真実とは風や水の様に
  流動的で、ひとつのカタマリとして固定できないものなのだ

※たとえば聖書を絶対的なルールブックと見なして
  語ることが許されるのは、当然その絶対性を受け入れた
  人達の間だけだ、教会の中だけだ。

  それをでっかいマイクロフォンで道行く人にがなり立てるのは
  暴力というものだ

  たぶん、誰よりも神様こそが、耳を塞いで困り果てていることだろう

2009年の明治神宮、初詣にて
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自分が感じた真実を他者に無理矢理強要、布教しようとする動機とは、
ひとり在る事=Alonenessを保持する勇気、美しさ、栄光に対する
孤独、焦り、退屈さ、不安、劣等感・・・  によるものではないだろうか?


だから、真実に関する考察は、面倒であり、人は安易に避けて通る

釈迦が悟りを開いたとき、祕沈すべきかどうか迷って
帝釈天に担ぎ上げられたエピソードも、そういうことだからだろう。

  つまり真実を言語化するかどうか?
   っというのは、

悟りを開いた人でさえ
迷うような重大な問題

          なのだということに刮目するべきだ
(一般コミック) [中村光] 聖☆おにいさん 第01巻_無題009_

ああ、受け合ってもいい!

この問題さえなければ真実というのは、
とっくの昔にこの地球の隅々まで普及しているだろう

真実を示めそうと思った時、時としては人は鬼にならなければいけない


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真実は、本には書けない。活字に出来ない
だから口伝という心細い方法論が選ばれることもある

真実ってのは、
テレビショーや多数決の場に引っ張り出されるのは分が悪いのだ

真実ってのは、
ポエム=詩情とか、神話、官能の世界に属した要素が強いからだ
ところがそれが客観的事実とまたがっている要素もあるので
真実を観じた当人は、それが主観的な詩情であることに気がつかないのだ

「何故これが見えない?」「なぜこれが聞こえない?」と腹を立ててしまう。


真実というのはつまり
主観性を主体とした価値観であるのにもかかわらず
普遍的な要素を秘めてもいるので、人はそこに、
場合によっては命を捧げようと自らに誓うことさえ在るのだ。

  そこには、善悪を越えた美しさをたたえることもある。

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「天上天下唯我独尊っ!!」
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しかし
・・・多数の人々は誰かの中の真実の繊細さに眼を細め、耳をそばだてることに
  興味はないのだ。それよりは相手を論破する、相手をぶっ殺す方を選ぶ

声のデカイいわゆる“真実”ってのに人々は扇動され、
限りなく残酷になれる事を歴史は証明している


  それを考えるなら「真実とは何か」という問いを、
  もうこれ以上は避けて通ることは出来ないのだ。

上記が、わたしなりの「真実とは何か」と言う問いへの考察だ

結論としては
The ONE and ONLY golden rule is there are NO golden rules
唯一の黄金律とは、「唯一絶対の黄金律なんて無い」ということだ)
                    で、済んでしまう話かも知れない。

でも、「真実とは?」という表題のホームページを開いてみて

「真実なんて無いよ~~」
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っと女の子がこっちを指さした画像が貼られていただけだった
読者はさぞかしムカつくだろうし、また、大変な誤解を招くだろう。

そのホームページのコンテンツが「まっさら」であるなら
それは真実を正確に伝えていると言える

でも、折角真実に対する興味がある読者に、
白紙を突きつけるのはちと不親切だろう。

WEB2.0の技術を使って、もう少し親切に説明するなら
「there are NO content」ではなく
そこには読者が自由に書き込めるホワイトボードを貼っておくべきだ。

この「ホワイトボード」こそが
「わたし」であり
「あなた」であり
「世界」であり、
そして  ・・・「真実」だ

しかし、これも真実に対して忠実な内容ではあるが
禅の公案の様に多くの人は首を傾げるだろう。

                   つまり神秘主義だ。


「無」のロジカルな定義に成功した私は、
以下の様に書き込むことにしよう

  「真実なんて無いよ~」というのは誤りだ!

  「真実(の中身=content)とは“無”である」
    (FFD=freedom from dimension)が正しい
エスケープ・フローム・ディメンション

  「真実なんて無いよ~」というのは相対主義、虚無主義だ

それに対して
  「真実とは“無”である」というのは不可知論だ

ここには無限の謙虚さと他者への尊重が要求される
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その違いは
「無い=nothing 非存在」と
「“無”=not thing 特定的"何か"ではない」との違いだ

その違いは
「空っぽ:エンプティー=emptyあるいはヌル=null」と
「空(くう):ヴォイド=void」との違いだ


単なる妥協、事なかれ主義として議論を避けるのではなく、
真実が人の数だけ、視点の数だけ無限にありえることを肝に銘ずるなら

そもそも
議論すべき事なのか? 
議論すべき点は何なのか?
議論すべき価値はどこにあるのかが、明晰に判るだろう

そしてわたしたちは
お互いの感じる真実を、(例え知的に理解出来なくても)
まごころから尊重しあえる=FAIRな社会を作れるだろう



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(2014/08/04)

宮井陸郎 シャンタン
津留晃一さん

 総ての現実を、もう片側からだけ見るのを止めることです。

あなたの感じる感情はあなたサイドからわき起こってくるものです

反対サイドから見ればまた違った現実がそこにあります。

反対サイドに立ってみるには二極の間に立ちはだかる壁をよじ登る必要があります。

あなたが価値観を強く握っていると、この壁をよじ登る事はできません。

価値観の壁の高さを低くすることが先決です。

価値観の壁が低くなればなるほど容易に反対サイドに回り込むことが出来るようになります。

価値観の壁が低くなり最後には平らな平地となったとき、

一つの現実には無限の側面があり、その数だけの人間がいることがわかってきます。

 実はこの宇宙には今しか無く、あなたのまわりにいる人は

自分のパラレルワールドの中の自分自身に過ぎないのだとわかってきます。

あなたとはその肉体の中にあるものではなく、

あらゆる二極の間にあるもの、その間にあるものこそ自分である事がわかります。

あなたの思考の反射として相手の言葉が聞こえてきます。

今ここにいて、起きてくる現実に反応している自分を観察して下さい。

それこそがあなたのすることです。

それこそがあなたの役割です。

自分を救うこと、それが地球を救うこと。

そしてそれこそが宇宙維新であるようです。

反応しているところにあなたのまだ手放していない価値観があります。

もうどんな考え方も必要ではありません。

 次の挑戦は「瞬間」です。

「今」という時間の単位を「瞬間」に置き直して下さい。

瞬間たりとも「ムッ」としない。

ほんの瞬間にもイライラ感じない。

そんな挑戦です。

それには、感情が起きる以前の自分の反応を知る必要があります。

どう生きるかではなく、どうあるかです。

 もう人が創った世界に住みたくないのなら、あなたの
する事は、
今、あなたを救うことです。

自分を眺め続けて下さい。

反応している自分に気付き続けて下さい。

機械仕掛けのようにすぐに判断を開始する自我を見張って下さい。

あなたが反応する出来事は、無意識的に

機械仕掛けのように過去の価値観によって創られたものです。

つまり他人によって埋め込まれた観念に基づいて創り出しているものです

 あなたと神の間にあるもの、二極の間にあるものそれがあなたの想念です。

あなたの思考こそがこの宇宙の始まりであったことを思い出して下さい

もう人が創った世界に住みたくないのなら、あなたの
する事は、
今、あなたを救うことです。

この三次元世界には沢山の神がいる

あなたも、あなたも、あなたも、神だ

であるなら、全ての「君」は絶対的な尊重に値する

そしてそこで、「天上天下・唯我独尊」が浮上する

  日本が何故、もっとも神々の世界に近い国家なのかと言えば
  「おもてなしのこころのもっとも洗練された国」だからだ
  「仕事を愛する歓び」を知る人々が暮らす国だからだ

    「君が代」を国歌とする国、
     「常不軽菩薩(仏陀予備候補者)」だらけの国だからだ

それゆえにアセンション(集団エンライトメント)が起きるとすれば
日本をおいて他にはない
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この三次元空間というのは共同幻想であるが、
いままでの宇宙の中でもっとも・・・
     ・・・・限定だらけで、緻密で、精密で、故に「堅く、安定している」

そして私たちのこの肉体も“賞味期限付き”だ

だから、素晴らしいのだ!


ここは神同士が意見交換しえる、奇跡の孤島なのだ

あなたの目に映る「アナザー(他者)」はあなたの投影に過ぎない
実際はあなたは、別のバリエーションの自分とお話ししているだけだ

でも、だからといってこの世界はマーヤ(夢幻)なのではなく
今まで創世された世界で、もっとも強力なリアリティーを保持した
最高傑作だ

ここには分離がある、分離感こそがリアリティーだ

OSHO:
もし、あなたが神(である事)を忘れる事がなければ、
あなたは一体どうやって神を思い出す?

それゆえに、「タッチ(再会)」の巨大な感激を味わうことが可能なのだ

分離したが故に、忘れていたが故に、“死”が存在しているが故に・・・・


それゆえに八百万のバリエーションのサウザンド・オブ・ゴッドが
生まれ、共同生活している

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サウザンド・オブ・ゴッドが実在する世界を、ファンタジーに過ぎないと
鼻でせせら笑うことが許されるべきだろうか?

そこにこそジャスティス=正義という言葉の重みが浮かび上がるのだ

無数の神々を礼拝しつつ、でもその中心には自分=ワンネスがある

それが都留晃一氏が表現したいことではないのだろうか?

映画「ジャッジ・ドレッド」の中での
ドレッドとアンダーソンとの会話。

アンダーソン
「先輩、コイツが犯人です」

ドレッド
「確率は?」

アンダーソン
「99%」

ドレッド
「100%でなければ裁けない」

ジャッジ・ドレッドの中には12人の怒れる男が
いることが、このなにげないシーンに表現されている。



「無罪だと言ってるのじゃない、この人は確信がないと言った」
「それは勇気ある発言だ」

99%であろうが、たとえ、99.9%であろうが、質は同じだ
それは100%に幾ら近似値であっても
100%とは、次元が違う。

この一厘(0.1%)にこそ神が宿る

じゃあこの一厘の中身は何だろうか?

“確信”とはなんだろうか?

それは、
「状況証拠」「推論」と
「現行犯行の目撃」との違いだ。

そこには“タッチ”(接触=ダイレクト・ノウレッジ)の差がある。

人が確信が持てる体験とは、
人が癒される体験とは、  “タッチ” なのだ。


もちろんそれさえも、他人から見るなら疑わしい
本人の何かの事実誤認である可能性は、外側からでは
払拭出来ない。

ドレッドがアンダーソンに、なぜ問うたのか?

つまり言い換えるなら、
彼女に「おまえがタッチした事実なのか?」と尋ねたわけだ

その彼女からの解答がどうであれ、ドレッドはそれを
尊重するつもりがあったから質問したのだ。

なぜなら、「タッチした確信」であるならば、たとえそれが
何かの間違いであったにせよ、その間違いを彼女は
“背負える”からなのだ。

そして修羅場での相棒というのは、運命共同体である。
ドレッド自身も、彼女の確信に運命を委ねざるを得ない。

つまりそこにはアローンネスの問題がある。

人は、タッチしたものになら確信が持てる。

人は、タッチした時に・・・・
   何か「絶対性」に触れたとき、
              アローン(=神)になる・・・・

そして、“それ”に触れたとき、人は“そこ”に殉じることが
出来るものなのだ。



わたしたちは死にものぐるいで、命がけで、
“タッチ”出来るものを探すべきだと思う。


でも、この情報社会では、タッチによって確認出来ないことは
氾濫している。

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わたしたちはもう、自分たちの目や耳の延長としてマスコミを
信頼することは出来ないと悟った。

情報は操作しうる。

宇宙戦艦ヤマトでは、波動砲発射の際には沖田艦長は
100%のエネルギー充填でも信用しない。

一発勝負、やり直しが利かない場合は、どうしても120%が
必要なのだ。  ・・・それでやっと、信用は99%なのだ。

つまり、エネルギー充填120%であれ、実際には100%に達しない。
波動砲だって、所詮は道具に過ぎない
ただし、【それでもダメだったなら、諦めは付く】

これが「信用」と「信頼」との違いだ。

この違いのなかにFAIR(公心)は存在する。

99.9%に騙される者達には、信仰心などと言うものはない
彼らにあるのは、FEAR(恐れ)だ
数学的な確率論があるだけだ。

信仰心があるなら、0.1%の絶望的なギャンブルが出来る。

なぜなら、信仰心とはもはや結果としての「のるか?そるか?」
とは無関係な確信=タッチがあるからだ。

その3   無知の自覚・・・  知覚の扉・・・

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山下和美 「不思議な少年」 第2巻 ソクラテス より
   /  /  /  /  

「不老不死になりたいかって?  ....そんなのはつまらん!」


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「キミが不老不死ならば、キミは死を知る事も出来ないし---」
「---わたしに不老不死を勧めても、わたしを説得することは出来ないよ」

              「知りもしないことを恐れても 仕方ないだろう?」
不思議な少年(2) [ 山下和美 ]


和尚ネオタロット:30.死/けっして死ぬことのないもの
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)

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OSHO

動物たちは天国にいる。かれらは常に天国の住民(無我)だ。

だがしかし、彼らにはそれ以外の選択肢がない・・・・・
  それゆえに彼らにはエンライトメントの可能性がないのだ。

わたしたち人間、人間だけが、この世を地獄だと錯覚出来る。
だが、それゆえに私たちにはエンライトメントの可能性があるのだ。

動物たちは「死」を知らない。  かれらは別に不老不死なのではないが
死とは何かを知らないが故に、恐れたり、悩んだりしない。

かれらは本能に従って肉体の危険を察知して、回避しようとしているだけだ。

かれらは老いとは何かも知らない

だから老犬がヨボヨボと歩いていても、老犬は「ああ、すっかりわしも年を取ったなあ」と
溜息をついたりはしない。  その姿を見て、わたしたち人間が勝手に同情しているだけだ。

...なぜ同情しているのかと言えば、
自分たち 自身の老いに対する恐れ投影している からだ。


物理的、肉体的には、  たしかに動物たちも痛みや不自由、恐怖を感じることはあるだろう。

でもそれらの苦痛と直面してもない時にまで、
   わざわざ思い出して引きずったり
    わざわざ思い煩ったりしない

  という意味で、

   動物たち (というか、人間以外の生き物) は、
    自ら余計な苦しみを作り出すような無駄をしていない

     ...彼らは常に、瞬間瞬間、直面した事実の中だけにいる。

         そういう意味 で、  動物たちは常に天国の住民 なのだ。




わたしたちも、実は....  「死」とはか?  知らない・・・

それとも、あなたは知っているのか???  「死」 ・・・を?



生と死とは、 二通りの見方がある


   ★  “ この世界 ” から、「わたし」 が退場する、 (あるいは消滅する) と言う
                                             (一般的な)見方

            そして

   ★ 「わたし」が、この 「 タテ ネコ ヨコ 高さ と 時間 」 の世界で暮らすための
                      ボディー・スーツを脱いで、未知へと旅立つという見方

ぬこ          
         
たとえば、
完全に太さのない直線や、面積のない点など、この世界には存在しない...

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では、
幾何学は?実在しないのか?
数学は?実在しないのか?

もし幾何学が実在してると言えるのなら

では
幾何学を見いだした人類 とは、
単なる肉体だけの存在なのだろうか?




       30.Death/That Which Never Dies
            死/けっして死ぬことのないもの

        このエピソードでゴーダマ・ブッダが指し示す「芥子種」とは、

         「タテヨコ高さ=体積・質量が
          -無い- と言えるほどの

              小さな 小さな (神一厘の)種子」のこと

   そこに「決して死なない永遠」への扉があることを示唆している。



      ※ あくまでも“ 余談 ”ですけど...
        肉体離脱って、肉体から 抜け出る んと、ちゃいまっせ!

        この 芥子種 の中に突入して、幾何学的な光の洪水の中に
                < 帰郷 > しちゃうことですぜ! ダンナ!


 昔、立花隆を原作とした「宇宙からの帰還」(1985)という映画があったが、

    【2500円以上送料無料】宇宙からの帰還/立花隆
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   本当のところ、わたしたちは

               宇宙 - から - 帰還 するのだろうか?

               それとも

                宇宙 - へ - 帰還 するのだろうか?

    【新品】【書籍・コミック 文庫活字】聖なる宇宙への帰還
【新品】【書籍・コミック 文庫活字】聖なる宇宙への帰還


あらあら不思議!!

この解答如何によって、生と死とは、ひっくり返って見えてしまうではないか?

こんなことにすら、わたしたち人間は明確に回答出来ず、首を傾げているとは!!
何とも、不思議ではないだろうか? ...あなたは、不思議を感じませんか?


 もし... 
あなた自身の正体がワンネスである可能性を、
ちょっとでも「ありえる」ことだと思うなら...

     いや、たとえ確信までは持たなくとも...
            その芥子種程の小さな可能性を認めるのだとしたならば...

       この世界の誰もが、  実は  ・・・「死」を知らないのだから

         その可能性を   誰が否定出来る?  誰が何を断言出来る?



     ・・・・あなたとは
                「ワンネスなのかもしれない」
                  
 という可能性に関して・・・

     ・・・・あなたとは
                「すっとぼけた神かもしれない」
                   という可能性に関して・・・


  もちろん、これは...  宇宙で最高に(FAIRな晴らしい!
                宇宙で最低に(FEARなヤバい!

                 可能性!  挑戦!

            
ゲーム参照:都留晃一の世界より  ではないか?

    ・・・   あなたが  実は すべてのすべて だなんて  ・・・・

     あなたの正体が 「I am  that I am」
             (吾、ありて在るもの) だなんて!!!

そんな可能性が、もし、ちょっとでもあるのなら、
いや、 その可能性を、だれひとりとして、  否定出来ないならば....

つまり、  それは  この可能性は、  
誰もが持っていることをも、また、意味する。

  あなたも、ワンネスであり   わたしも、ワンネスなのならば


あなた と わたし との違いは、      

 

        この 「アラワレの世界」 の違いに過ぎないことになる

リュウの道_05_329

   でもまたそれは、ひとりひとりが
           全宇宙の重みを背負っていることも意味している。




ほんのちょっとでも、
この人生で最も恐ろしい(FEAR)、
     最も素晴らしい(FAIR)可能性があることを、
否定しきれないならば、この可能性が残り続けるならば、、

「死」と同等なぐらい  「生」に関しても....

そして自分自身に関してすら....!!!

わたしたちは、   無知
そして       未知  と言うことなのだ....



「生」も、
「死」も、
「自分の正体すらも」わたしたちは知らない

わたしたちは、
だったら
いったい何を知っていると言えるんだろう?

  でも、   ならば・・・

わたしたちは、みな、この広大な宇宙で、

「無知」という「芥子種」のような極微の孤島の只中に、
投げ出されることになる・・・・
追い込まれることになる・・・・

無底の中に、
  天も地もない 混沌のただ中に、取り残されることになる。


それでも  その自覚を  あなたは引き受ける勇気を  保てますか?
慣れ親しんだすべての世界観が、 足元から、 崩れ去る
・・・・その恐怖に耐えられますか? 

マトリックス「よくあの店に」

ネオ  「すべての思い出が...」

    「うそっぱち(仮想現実)だったなんて...」

    「 俺は.... 」

トリニティー   「  ...何者か  ...分からない」




どこまでも、
暗く、冷たく、底知れず広大な宇宙(無知、未知)のただなかに
一糸まとわずたったひとりで投げ出されるかような恐怖....

それは確かに、はじめは体中の血液が凍り付くような恐怖だろう。

だが、この絶対的な闇に見えた世界にも、だんだん眼が慣れてくると、

       「これが、無限の可能性なのだ!」

        「ここには、無尽蔵の癒やしのパワーがある!」

         「これこそが、無条件の愛の、真の姿だったのだ!」と....


             .....あなたはやがて気付くだろう!!


 




前世が常不軽菩薩であったという釈尊は、
産まれてすぐに七歩歩いて

      天上天下、唯我独尊


                 っと言ったそうな....


天上天下


                ※ 「天上天下で、俺様が唯一偉いのだ」  
                                  ____???

              - ファッ! そんな解釈をしてしまっては、
                     前世が常不軽菩薩だったなんて言う
                     釈尊のエピソードは、繋がらないではないか
? 


「この天と地の間に産まれて、            
わたしは、ただただ、
いま、この瞬間この瞬間の....

  わたし という存在を、徹底的に尊重する!!」

「それ以上に、                      
人生に優先することなんてあるのかい?」 

「それ以上に、                      
私に、一体何が出来るというのだ!?」






前世で                         
- 他者への徹底的な尊重と礼拝 -

 を体現したからこそ

シッダルータの魂は、                            
その次のステップ
 からスタートを切ったと言うことではないだろうか?




彼、ゴーダマ・シッダルータは            
「世尊」と呼ばれる人生をはじめるにあたって、

自分自身を                 
   最大限に尊重
  するとは何か?」

っということを         
ボクはこの人生で、テーマに選んで産まれて来たんですよ~~♪

           .....と、語りかけているように思う。

だから、 彼はまず一国の王子様として     
       人生をはじめたのではないだろうか?

miner1_wands12

ダンサー付き

   「 私なんか、生前はロールスロイス10台だけで、
             結構ウルサク言われたンゴ...」

                    by OSHO

自分自身の
    究極的尊重....

自らに対する
     絶対的信頼....
 



それを避けて FAIR (公心、降神、交信...)なんて、実現、 出来ますか?

それを経ずに FAIR 「すべての存在への絶対的尊重」なんて、可能、でしょうか?


  それ以外の「無明」からの出口なんて、他にあるだろうか?

     「無明」とは....?  「無知」のこと.....???

 


  とんでもない!!



無知故にエンライトメント出来ないのだとしたら、
一体全体、オレ等はいつになれば悟れるというのだ!?

...FUCK!! ...冗談じゃね~ぜ!!

和尚ネオタロット:23.Prayer 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



わたしに言わせれば「無明」 とは                 
「無知」であることに対する 無 自 覚 のことだ!!

    無知 → 貧乏靴屋 ◎ GOOD!!

    無明 → モーゼ × チョベリバ !!
   「私は知っている、分かっている...」

という思い込みこそが

- あるいは -

  「理解していない事を、(ミンナでお題目を唱えて)誤魔化している」

という習慣への埋没こそが...
「無明」なのだ!!

マトリックス「これだ」



和尚ネオタロット:13.Dropping Knowledge
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)


























わたしたち人間は、動物と同じく、「死」を知らない、  だから「生」も知らない

           ただし、  たったいま、この瞬間にでも....

動物と違って、「知らない」ということを「自覚出来る」可能性がある。

 それが、・・・・
  それこそが   「無明」からの解脱なのではないか?っと思う。





クリシュナムルティ 「私は何も信じない」







クリシュナムルティ 「既知からの自由」

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