マインドは問い続けなければ墜落してしまう
だから「問い」を作り続ける
「生き残る手段」としてのマインドそのものが生き残る為に
問題を再生産し続ける・・・・・
私たちは何かをし続けないと不安になる、イライラする
かといって、「マインドはもうウンザリだ!」となると
子犬が自分の尻尾を追いかけ回してクルクル回転するようなことになる
なんとしてでも立ち止まらない口実を作り続けている・・・
誰が?
それは私たち自身じゃ無い、マインドというシステムの暴走に過ぎない
何でシステムがあたかも生き物のように、自己の存在価値を主張するのか?
と言えば、その根底に不安があるからだ、そしてその不安は
短絡的な比較から発生する
短絡的な比較をするならば、確かにそこには優劣がある
「さっき」と「今」との比較、商品の値段の比較、テストの成績の比較、
身長や体重の比較・・・ ありとあらゆる比較は、パラメーターが
限定されれば可能だ・・・・
しかし、
総合的な存在事物同士を比較した場合
あらゆる存在はあらゆるパラメーター、あらゆる側面があるために
単純な比較、短絡的な比較は意味を成さない
オモチャのアヒル一つと銀河系一つとだって比べることは出来ない
もちろん人間同士だって、人間と昆虫とだって、比較できない
あくまでもわたしは人間のひとりだから、ゴキブリ一匹よりも
ひとりの人命の方が大事だと即答するのに過ぎない・・・
じゃあ、それならば、
「宇宙の果てはどうか?」とか
「人間はどこから来てどこへ行くのか?」とか・・・
・・・果たして回答可能だろうか?
「これぞ絶対の真理だ!」
っと自信満々に喧伝している人達には
理解出来ない話だろう・・・・
何か特定のスケール、何か特定のパラメーターに限定するなら
確かに明確に回答が出るだろう
何か実用的な方法論を探るなら、ベストなひとつに絞れるかも知れない
しかしそういった限定だらけの特定の価値感を「絶対の真理」と
言い張ることが出来る人というのは、本質的に鈍感なのじゃ無いだろうか?
何か一つでも「寄って立つ前提」あっての真理とは、絶対的なものではない
その〝前提〟という庭から一歩出てしまえば、消滅するホログラフだ
だから、
生きる意義を問うならば、「いまここ」から一歩たりとも踏み出してしまうと
わたしたちは迷子になる
つまり、
「生きる」「味わう」「感じる」ということは「今ここ」でのみ可能だが
「生きながらえる」「生き残る」という方法論、手段に一歩踏み出して
流されてしまうと、わたしたちは特定の価値体系と競争意識に捕まり、
特定の「~ねばならない」に溺れて、強迫観念の虜になってしまうのだ