TVドラマ「この世の果て」で、
鈴木保奈美演じるヒロイン:砂田まりあは
三上博演じる孤独な天才ピアニスト:高村士郎との関係を問い詰められて
以下の様にうっとりと答える
「愛だなんて陳腐なものじゃないわ!」
「彼は私を『必要だ』っと言ってくれたの・・・」
なぜ〝愛〟より〝必要性〟の方が
砂田まりあのこころを揺さぶったのだろうか?
・・・ここに「孤独の正体とは何か?」という手がかりがある
人は自らの「無価値さ」「無力さ」と直面することに
堪らなく孤独を感じるからなのだ
人に「必要とされる」時、自分には存在価値がある! っと確信できるからだ
「愛される」ということよりも、それは大きい
なぜなら人が与えてくれる愛とは、次の瞬間、その人の気まぐれで
引き揚げられてしまう可能性があるからだ
私たちの心は、もっと永続的な確かな絆が欲しい・・・
・・・それが、「必要とされる」ことだ
例えばアフリカの餓えた人々・・・、
例えば捨てられて死にかかっている子猫・・・・
そういった存在が、命がけであなたの救いを求めてきたとき
あなたは立ち去り難くなる・・・
胸が締め付けられ、目にいっぱい涙が溢れる
可能であれば、救いの手をさしのべたいと思うだろう・・・
あなたは「優しい人」だから?
・・・ 少なくとも「砂田まりあ」は〝優しい女〟としては描かれていなかった
彼女は、幼いときに親の愛を確かめたくて自宅を放火し、
妹を失明させてしまうという大きな心の傷を負っている女だった
高村士郎の、
自分の存在意義そのものをまるごと疑っている姿と
砂田まりあ自身の
自責のトラウマが重なり、
その中で救いを求める士郎に心が揺さぶられたからなのだ
・・・自分の存在価値を疑うこと程、深い孤独の闇は無い
その「深い孤独の闇」に震える二人が出会い、求め合ったが故の
二人の絆だったのだ
砂田まりあにとって、高村士郎から「必要とされる」こととは
捨て猫に必要とされることとは違っていたのだ
あなただけの流した血 投稿者 maneel-katal
まりあにとっては、士郎の〝求め〟は、
自分の魂の分身の慟哭の様に感じたのでは無いだろうか?
xxxxxxxx
でもしかし、
「必要とされる」ことが、それ程までに神聖なことなのだろうか?
確かに「強い絆」ではあろう・・・「救世主と信者」「羊飼いと羊」のように・・・
・・・・たしかに〝動機〟がハッキリしている
・・・・たしかにその必要性は命がけだ
でも敢えて言うならば、
この憐れな必要性のシリアスさは「餓え」ゆえである
(※ なぜ、日本人は不純な動機で結婚してしまうのか?)
それが、「お金や食べ物」であるなら砂田まりあでなくても良かった
それだったら、豊川悦司演じる、神山財閥の御曹司がいくらでも代役出来る
彼女はこれ程は高村士郎に関わらなかっただろう
実際このドラマ終盤では、落ちぶれた高村士郎が神山を強請(ゆす)りに行くシーンがある
士郎の「餓え」は高名なピアニストでもあった自分の
全実存をなげうった全身全霊の求めであったが故に、
まりあは離れることが出来なかったのだ
しかし、それでも敢えて言えば、全身全霊なものであるにせよ、それは〝餓え〟だった
残酷な言い方をするなら、士郎も、まりあも、互いに〝乞食〟だったのだ
しかしそれは、「〝魂からの〟餓え」であったが故に、〝崇高な愛〟に見える・・・
ここに、この物語の悲劇性のエッセンスがある様に思える
このドラマに限らず、現実の人生でも
魂からの慟哭がそこにある以上、
わたしたちは狂おしい程に〝生〟にしがみつくだろう
どれ程自分を投げ捨てようとしても、否定しようとしても、
そこでは自意識が慟哭し続けるだろう、
そして、地獄の様な孤独に苛まれ続けるだろう
その、自己否定感には狂おしい反作用が起きるに違いない
「死の覚悟」は、その何十倍の「生への執着の業火」となって、
自分と周囲の人間をも巻き込んで苦しめ続ける
一回の人生で足りなければ、何度でも・・・
私は男に生まれているので、女性はどうなのか? ・・・分からないが
少なくとも男性の多くは、孤独感が性欲へと転向する
しかも健全な性欲では無く、ただれて、倒錯した性欲として噴出する
わたしの精神世界への入り口は、ノーシスという性エネルギー昇華を
目的とした秘教団体だった
セックスのエネルギー、クンダリーニの昇華が如何に重要か?
というテーマと最初に向き合わせてくれたのはこの団体だった
いま思うなら、このテーマの選択そのものはとても的を得ていたと思う
これこそが、人生のアルファーで有りオメガとも言えるテーマだと思う
しかし、テーマの選択は正しくとも、これ程までに深い内面の旅を
必要とする〝秘教〟もまた、無いのだ!
ノーシス=ミゲル・ネリ氏が教えていたのは、あまりにも教条的な
方法論に囚われすぎた教えだった・・・
・・・・そしてその最終目標は「超人」の生成だった
・・・その後、「ノーシスの卒業生達の多くがオウムに走った」と風の噂で聞いた
かたや私は、バグワン・シュリ・ラジニーシの「セックスから超意識へ」という
本との出会いを果たした
今日ふりかえってつくづく思うのは、
「ハートを伴わないタントラは単なるカルトへの転落でしか無い」ことだ
それら転落の谷底とは、〝自己否定〟という奈落なのだ
私たちは皆、セックスから生まれてきた
両親の恍惚の光を通って、この世界に肉体を得て、
それが私たちの存在そのものなのだ
それゆえ、「自己存在の否定」とは、「光の否定」と同義なのだ
わたしたちは自分自身への愛を、死に物狂いで探し当てなければいけない
その上で、セックスの抑圧とは、探索の道の破壊そのものなのだ
いきなり「エゴとは錯覚だ!」と叫んで自意識を切り倒そうとしても無駄だ
睾丸を切り落とし、物理的な性欲を切り落とすことも馬鹿げている
それは、自然な成長のプロセスを経て、充分な熟成によって真っ赤な実に熟せば
自然の法則に従って自然にポトリと大地に還る
その成長のエネルギーこそがクンダリーニなのだ
つまり簡単に言えば、
「自己否定」によっては「無我の達成」は不可能なのだ!
言葉上は一見似てはいるが、正反対だった・・・!!
それが砂田まりあと高村士郎のシリアスな関係に
いっけん深い真実の愛がある様に見えて、
しかしこの物語が悲劇で幕を閉じたポイントなのだ
「性の超越」とは、「孤独の超越」と極めて近いところにある
そして、「宇宙への開花=エンライトメント」と不可分なテーマなのだ
私たちは「孤独」という闇に迷うなら、確実に性の底なし沼に引きずり込まれる
しかし、
だからといってセックスそのものの否定は
自分の唯一持つエネルギーの否定でもある・・・
ところがわたしたちは、
この自分自身の唯一のエネルギーとの格闘によって、力尽きてしまう
セックスとは底なし沼ではあるが、
これはブラックホールであると同時にホワイトホールでもある
「トンネルを抜けると、そこは雪国・・・」これはホワイトホールのことだ
しかし、この「トンネル(産道)をくぐる」ことは大きな苦痛が伴う
そしてその新しい雪国から新しい「生老病死」が始まる
でも、孤独の超越によって、
そんな苦しみを繰り返す必要など無くなるのだ・・・
その「性の泥沼」と格闘するのでは無く、それを自らの養分にしたとき
そこから蓮がスクスクとまっすぐ育ち、開花するだろう
これが、性エネルギーの昇華だ
泥沼=性というのは「穢(けが)れ」では無かったのだ!
〝必要性〟に取り憑かれている間は
〝超越〟も〝昇華〟もおぼつかない
そして、超越した〝フリ〟をすることで、何人かの信者は獲得できるかも知れないが
それは自分自身のためには、手枷足枷でしか無い
じゃあ、〝超越〟とは何か?っといえば、私たちはスーパーマンを連想する
セックスの超越ならば、「性欲を完全にコントロール出来る」こと
食の超越ならば「仙人の様に食べなくなる」様なイメージを持つ
でも実際、「食の超越」とは、「不食」なのではなく、
「自然な求めに応じて食べること」なのだ
拒食や過食に走るのでは無い・・・ 両極端に取り憑かれるのでは無い・・・・
むしろ不自然にコントロールしようとした結果こそが
「必要性に取り憑かれた餓鬼」を生みだしてしまうのだ
健やかな身体がそこにある以上〝必要性〟は、死ぬまで必ず生じる・・・
・・・しかし〝必要性〟に取り憑かれさえしなければ、
そこには ただ、ただ、自然な流れだけがある
それが、〝超越〟なのだ
それはセックスにも当てはまる
まったくセックスをしないことでも無い、
セックスを意のままにコントロールすることでも無い
それは、超人的な神話を好む男性達にとっては、ちょっとつまらない話だろう
男の子達は、小さいときからヒーロー物語が大好きだからだ
しかし、
その幼い憧れが・・・
超人的なヒーローを求める幼稚さが・・・
・・・救世主の物語を求め続け、作り続け、しがみつく心理的動機になっている
この「人類の幼年期」を続けられる時間は、もう尽きたのじゃないだろうか?
子供達のヒーロー伝説、英雄への憧れは、
その救済を求める多くの「迷える子羊」を必要とした・・・
・・・「救世主物語の成立」のために
もういい加減に
この様な物語をエンドレスで作り続けて
孤独を埋める愚かさに
・・・目覚めるときが来たのじゃ無いだろうか?
鈴木保奈美演じるヒロイン:砂田まりあは
三上博演じる孤独な天才ピアニスト:高村士郎との関係を問い詰められて
以下の様にうっとりと答える
「愛だなんて陳腐なものじゃないわ!」
「彼は私を『必要だ』っと言ってくれたの・・・」
なぜ〝愛〟より〝必要性〟の方が
砂田まりあのこころを揺さぶったのだろうか?
・・・ここに「孤独の正体とは何か?」という手がかりがある
人は自らの「無価値さ」「無力さ」と直面することに
堪らなく孤独を感じるからなのだ
人に「必要とされる」時、自分には存在価値がある! っと確信できるからだ
「愛される」ということよりも、それは大きい
なぜなら人が与えてくれる愛とは、次の瞬間、その人の気まぐれで
引き揚げられてしまう可能性があるからだ
私たちの心は、もっと永続的な確かな絆が欲しい・・・
・・・それが、「必要とされる」ことだ
例えばアフリカの餓えた人々・・・、
例えば捨てられて死にかかっている子猫・・・・
そういった存在が、命がけであなたの救いを求めてきたとき
あなたは立ち去り難くなる・・・
胸が締め付けられ、目にいっぱい涙が溢れる
可能であれば、救いの手をさしのべたいと思うだろう・・・
あなたは「優しい人」だから?
・・・ 少なくとも「砂田まりあ」は〝優しい女〟としては描かれていなかった
彼女は、幼いときに親の愛を確かめたくて自宅を放火し、
妹を失明させてしまうという大きな心の傷を負っている女だった
高村士郎の、
自分の存在意義そのものをまるごと疑っている姿と
砂田まりあ自身の
自責のトラウマが重なり、
その中で救いを求める士郎に心が揺さぶられたからなのだ
・・・自分の存在価値を疑うこと程、深い孤独の闇は無い
その「深い孤独の闇」に震える二人が出会い、求め合ったが故の
二人の絆だったのだ
砂田まりあにとって、高村士郎から「必要とされる」こととは
捨て猫に必要とされることとは違っていたのだ
あなただけの流した血 投稿者 maneel-katal
まりあにとっては、士郎の〝求め〟は、
自分の魂の分身の慟哭の様に感じたのでは無いだろうか?
xxxxxxxx
でもしかし、
「必要とされる」ことが、それ程までに神聖なことなのだろうか?
確かに「強い絆」ではあろう・・・「救世主と信者」「羊飼いと羊」のように・・・
・・・・たしかに〝動機〟がハッキリしている
・・・・たしかにその必要性は命がけだ
でも敢えて言うならば、
この憐れな必要性のシリアスさは「餓え」ゆえである
(※ なぜ、日本人は不純な動機で結婚してしまうのか?)
それが、「お金や食べ物」であるなら砂田まりあでなくても良かった
それだったら、豊川悦司演じる、神山財閥の御曹司がいくらでも代役出来る
彼女はこれ程は高村士郎に関わらなかっただろう
実際このドラマ終盤では、落ちぶれた高村士郎が神山を強請(ゆす)りに行くシーンがある
士郎の「餓え」は高名なピアニストでもあった自分の
全実存をなげうった全身全霊の求めであったが故に、
まりあは離れることが出来なかったのだ
しかし、それでも敢えて言えば、全身全霊なものであるにせよ、それは〝餓え〟だった
残酷な言い方をするなら、士郎も、まりあも、互いに〝乞食〟だったのだ
しかしそれは、「〝魂からの〟餓え」であったが故に、〝崇高な愛〟に見える・・・
ここに、この物語の悲劇性のエッセンスがある様に思える
このドラマに限らず、現実の人生でも
魂からの慟哭がそこにある以上、
わたしたちは狂おしい程に〝生〟にしがみつくだろう
どれ程自分を投げ捨てようとしても、否定しようとしても、
そこでは自意識が慟哭し続けるだろう、
そして、地獄の様な孤独に苛まれ続けるだろう
その、自己否定感には狂おしい反作用が起きるに違いない
「死の覚悟」は、その何十倍の「生への執着の業火」となって、
自分と周囲の人間をも巻き込んで苦しめ続ける
一回の人生で足りなければ、何度でも・・・
私は男に生まれているので、女性はどうなのか? ・・・分からないが
少なくとも男性の多くは、孤独感が性欲へと転向する
しかも健全な性欲では無く、ただれて、倒錯した性欲として噴出する
わたしの精神世界への入り口は、ノーシスという性エネルギー昇華を
目的とした秘教団体だった
セックスのエネルギー、クンダリーニの昇華が如何に重要か?
というテーマと最初に向き合わせてくれたのはこの団体だった
いま思うなら、このテーマの選択そのものはとても的を得ていたと思う
これこそが、人生のアルファーで有りオメガとも言えるテーマだと思う
しかし、テーマの選択は正しくとも、これ程までに深い内面の旅を
必要とする〝秘教〟もまた、無いのだ!
ノーシス=ミゲル・ネリ氏が教えていたのは、あまりにも教条的な
方法論に囚われすぎた教えだった・・・
・・・・そしてその最終目標は「超人」の生成だった
・・・その後、「ノーシスの卒業生達の多くがオウムに走った」と風の噂で聞いた
かたや私は、バグワン・シュリ・ラジニーシの「セックスから超意識へ」という
本との出会いを果たした
今日ふりかえってつくづく思うのは、
「ハートを伴わないタントラは単なるカルトへの転落でしか無い」ことだ
それら転落の谷底とは、〝自己否定〟という奈落なのだ
私たちは皆、セックスから生まれてきた
両親の恍惚の光を通って、この世界に肉体を得て、
それが私たちの存在そのものなのだ
それゆえ、「自己存在の否定」とは、「光の否定」と同義なのだ
わたしたちは自分自身への愛を、死に物狂いで探し当てなければいけない
その上で、セックスの抑圧とは、探索の道の破壊そのものなのだ
いきなり「エゴとは錯覚だ!」と叫んで自意識を切り倒そうとしても無駄だ
睾丸を切り落とし、物理的な性欲を切り落とすことも馬鹿げている
それは、自然な成長のプロセスを経て、充分な熟成によって真っ赤な実に熟せば
自然の法則に従って自然にポトリと大地に還る
その成長のエネルギーこそがクンダリーニなのだ
つまり簡単に言えば、
「自己否定」によっては「無我の達成」は不可能なのだ!
言葉上は一見似てはいるが、正反対だった・・・!!
それが砂田まりあと高村士郎のシリアスな関係に
いっけん深い真実の愛がある様に見えて、
しかしこの物語が悲劇で幕を閉じたポイントなのだ
「性の超越」とは、「孤独の超越」と極めて近いところにある
そして、「宇宙への開花=エンライトメント」と不可分なテーマなのだ
私たちは「孤独」という闇に迷うなら、確実に性の底なし沼に引きずり込まれる
しかし、
だからといってセックスそのものの否定は
自分の唯一持つエネルギーの否定でもある・・・
ところがわたしたちは、
この自分自身の唯一のエネルギーとの格闘によって、力尽きてしまう
セックスとは底なし沼ではあるが、
これはブラックホールであると同時にホワイトホールでもある
「トンネルを抜けると、そこは雪国・・・」これはホワイトホールのことだ
しかし、この「トンネル(産道)をくぐる」ことは大きな苦痛が伴う
そしてその新しい雪国から新しい「生老病死」が始まる
でも、孤独の超越によって、
そんな苦しみを繰り返す必要など無くなるのだ・・・
その「性の泥沼」と格闘するのでは無く、それを自らの養分にしたとき
そこから蓮がスクスクとまっすぐ育ち、開花するだろう
これが、性エネルギーの昇華だ
泥沼=性というのは「穢(けが)れ」では無かったのだ!
〝必要性〟に取り憑かれている間は
〝超越〟も〝昇華〟もおぼつかない
そして、超越した〝フリ〟をすることで、何人かの信者は獲得できるかも知れないが
それは自分自身のためには、手枷足枷でしか無い
じゃあ、〝超越〟とは何か?っといえば、私たちはスーパーマンを連想する
セックスの超越ならば、「性欲を完全にコントロール出来る」こと
食の超越ならば「仙人の様に食べなくなる」様なイメージを持つ
でも実際、「食の超越」とは、「不食」なのではなく、
「自然な求めに応じて食べること」なのだ
拒食や過食に走るのでは無い・・・ 両極端に取り憑かれるのでは無い・・・・
むしろ不自然にコントロールしようとした結果こそが
「必要性に取り憑かれた餓鬼」を生みだしてしまうのだ
健やかな身体がそこにある以上〝必要性〟は、死ぬまで必ず生じる・・・
・・・しかし〝必要性〟に取り憑かれさえしなければ、
そこには ただ、ただ、自然な流れだけがある
それが、〝超越〟なのだ
それはセックスにも当てはまる
まったくセックスをしないことでも無い、
セックスを意のままにコントロールすることでも無い
それは、超人的な神話を好む男性達にとっては、ちょっとつまらない話だろう
男の子達は、小さいときからヒーロー物語が大好きだからだ
しかし、
その幼い憧れが・・・
超人的なヒーローを求める幼稚さが・・・
・・・救世主の物語を求め続け、作り続け、しがみつく心理的動機になっている
この「人類の幼年期」を続けられる時間は、もう尽きたのじゃないだろうか?
子供達のヒーロー伝説、英雄への憧れは、
その救済を求める多くの「迷える子羊」を必要とした・・・
・・・「救世主物語の成立」のために
もういい加減に
この様な物語をエンドレスで作り続けて
孤独を埋める愚かさに
・・・目覚めるときが来たのじゃ無いだろうか?