We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: 南無妙法蓮華経

榊 みや子
【届けぇぇぇ!!!オオォォォ(゚ロ゚*)(゚ロ゚*)(゚ロ゚*)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)ォォォオオ】

今でも、何かに挑戦する時は、
なぜだか頭の中をこの曲が流れる。

今、あなたに届けたいのはこれだ。

ずっと体の奥の方で、こんな音が鳴り響いている。
目覚めて。わたしの少年と少女。





少女は「何故走る?」のだろうか?

少年は「夢を追いかけて」走っている・・・これは鉄板だ
でも少女は「少年の夢を叶えるために走る」と、この唄の歌詞は言う

男の私には理解を超えた心情だ
私はたった一度でも「誰かの夢を叶えるために」走ったことがあっただろうか?

少女にはそれが出来る、そのことを私は単に「恋愛感情があるから」と解釈し
何の感想も抱かなかった・・・この歌を聴くまでは

地球少女アルジュナの場合はあきらかに
「トキオというボーイフレンドへの恋愛感情から」走っているのだが
このアニメ作品の中で、このふたりの関係は単純な「恋愛感情」だけでは語れない
もっと深い「一体感」が描かれていた

シリーズの進行の中で、ふたりははじめは「他愛の無い高校生カップル」なのだが
主人公樹奈の精神的な成長とともにBFトキオはだんだん疎外感を感じふてくされ
そして樹奈のクラスメートさゆりがだんだん「恋敵」としてトキオを略奪しはじめる
にもかかわらず樹奈の成長は止まらない、本人にも止められない
彼女のトキオへの想いは「恋」から「愛」へとシフトしてゆく
そして精神的に大きくなった樹奈の「愛」の前にトキオはたじろぎはじめる

この「少女のままで突き進め」歌詞の中に登場している「少女」も、
必ずしも単純な「少年への恋愛感情」で「少年のために走っている」様には感じない
きっとそれは「目覚めて。わたしの(内面の)少年と少女。」と彼女が独白しているように
作曲者:榊みや子、ひとりの中にいる少年と少女の物語だからなのだろう
ここでもやはり「少年と少女」は「恋を超えた一体感」のなかに描かれている

少年が走る時には、必ずおのれの〝夢〟〝理想〟〝目的〟や〝動機〟がある
たとえ「誰かのため」であってもそこには何か理由、意義やプライドがある
本質的にはあくまでも「自分自身のこだわり」が中心にある

しかし少女が走る時は、「ただただ少年の夢を叶える」という
他者のもつ動機の実現のために走ることが出来るのだ・・・完全に自分に中心が無い
その純粋さは、男に生まれ、しかもすでにオッサンのわたしには全く理解出来ない

スジャータ

あくまでも「自分自身に中心をもつ~スワミ(座身):男性原理」と
けっして「我が身の中に中心を持たない~マ(間、母):女性原理」・・・

「わたしは〝在る〟」「わたしは〝空〟」・・・どちらの両極も相補的な真実だ

なぜ「妙法」が「少女の法」なのか?なぜ「生命を〝生かす〟法則なのか?」
この榊みや子の唄で少し理解出来たような気がする 

男性原理とは「いまここ」の点(天)と、その点の運動ベクトル「直線」
これはゼロ次元と1次元のことで、ペニスの象徴でもある
実質的に「ゼロとイチ」だけでは、まだ次元界は始まらない
「ある」と「ない」との点滅、往復「往生」だけが存在する




「観点」から「観球」へとシフト(位置の交換)した時、はじめて〝次元〟がうまれる

ただただ、「ない」「ある」の状態から、
広がり(二次元)が生まれ、そして膨らみ(三次元)が可能になる

ある意味ではこの段階が「宇宙のビッグバン」が起きる段階だとも言える




だから二次元世界を象徴する「女教皇」こそが
「処女(知識で汚されないもの)の英知」・・・つまり「妙法」だ

食べる、という欲求、つまり食欲は、同じく生存の継続である性欲と連携している
食べるという欲求は「体積」への欲求であり、これは三次元を象徴する「女帝」だ
子宮や、乳房とは子供を三次元世界の住人へと成長させてゆく

愚者は単純に「知らない」しその自覚が無い
まだ十牛図における「牛(大自然)」と分離していない・・・
魔術師は知的好奇心と工夫に富んでいて、何でも知ろうとする
女性の膣(奥の細道)を何度も往復するペニスである

女教皇は「無知の知」をマスターしている
無限遠点に広がる理解力のネットワークだ

どおやら、この処女(巫女)の賢者こそが妙法の象徴の様だ

彼女は決して全知全能なのでは無い
ただひたすら女性的なビビットさ~感受性によって物事を理解する、察する

彼女は魔術師(探求者)の知的好奇心の興奮を優しく向かい入れ、包み込むヴァギナだ
彼女はどこまでもソフトであり、敏感に感応するが故に、限界無く彼を向かい入れる
彼女は愛の化身だ

彼女は何の身構えも準備もしないが故に、探求者のすべてに応答できる
彼女がもし、知識や信念から対応したなら、
それは生きていない、それは感応とは言えない、そこに官能性エロティズムはない 
彼女はその場その場の違った求めに感応するからこそ、探求者の全てに応じられる

やがて探求者が「果てる」瞬間が必ず来る、彼は射精し、爆発する
その時、彼の「死の歓び」を受け止める子宮が女帝であり、女教皇が変容した姿だ

そしてマジシャンは死に、皇帝(スワミ~座った身)へと変容する

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「 聖と性と生」 – トリニティ&フルトリニティ&ボディラブトリニティ公式サイト
(前略)

・・・そうです!
キリストの真の一番弟子とは最愛の女性でもあった「マグダラのマリア」でした。

だから、そうやって葬られた彼女の存在が
ついにちゃんと世の中で受け入れられるようになることは
女性性の抑圧の歴史を終わらせて「無条件の愛の子宮」を
目覚めさせる転機であり象徴になるのです。

もはやそれは「ダヴインチコード」の中だけの話ではなく、
なんと当のバチカン自体が今年の6月には
「マグダラのマリアを12使徒と同格の聖人とみなす」(本当は同格以上だけど!)
という決定を下したぐらいに現実の世界を動かしている流れなんです。

でも、さらにマグダラのマリアが成し遂げた本当の偉業があります。
それは未来永劫バチカンは認めないようなことです。

それはキリストとマグダラのマリアが肉体で交わり愛し合ったという
キリスト教最大のタブーです。

わたしは以前の記事(「南無妙法蓮華径」)で以下の様なことを書いた

〝妙法〟というのは〝少女の法〟と字割り出来る・・・

すると、妙法が何故〝仏法〟よりもプライオリティーが高いと言われているのか?
・・・その謎が解明出来る

つまり〝少女〟とは悟った直後のゴーダマ・ブッダの命を救った
スジャータのことを暗示しているのだ・・・

この私の仮説を先日、「まほろば創生」のわたなべさんと嶋田さんと言う人に話した後
「これってキリスト教ではマリア信仰だよなぁ~」などと、ひとりで思いに耽っていたら、
ちょうど昨日、この冒頭の記事をフェイスブックで見かけた

「処女懐妊」と「娼婦」・・・ イエスの生涯におけるこの一件正反対の状況の二人の女性が
両方「マリア」という名前で通じているのは、わたしには到底偶然に思えない

・・・瀕死のゴーダマを救ったのがスジャータであるならば
ナザレのイエスに
  生を与えたのは母マリアであり、
   性の契りを交わしたのがマグダラのマリア・・・?

「生」の経験にせよ、「性」の経験にせよ、 ・・・それは汚らわしいものではなく、
〝聖〟なるものへと昇華出来る  ・・・それを二人のマリアの存在が語っているように思う

そして救世主キリストという称号はインドのクリシュナ神が語源とも言われている
それは透明な水晶石~クリスタルとも語源を共にする

だから
「キリスト」という言葉は救世主と言うよりも「神聖なる透明な結晶体」という意味合いの方が強い

「透き通ったもの」が何で「神聖さ」なのかといえば「曇り」は「穢れ」「やましさ」だからだ

二人のマリアとイエスとは「生」「性」「聖」が三位一体であることを象徴しているように思う・・・
この統合があってはじめて「穢れ」は清められ、払われる・・・ 

・・・それが結果的に地上を天国にする
この統合があってはじめてイエスは神聖なる透明さを復活させるのではないだろうか?

イエスが、マグダラのマリアと教会の教義上の都合で肉体的に切り離されてきていたことが
もしキリスト教文明が席巻したこの星の文明の最大の歪みの原因なのならば、
キリスト教会こそが最大の「アンチ・キリスト」であったと告発せざるを得ない

・・・スジャータが餓死しかけていたゴーダマに乳粥をすすめている姿が
  マグダラのマリアが教会の教義を乗り越えてイエスと二千年ぶりに再会している姿に
   重なって見えないだろうか?

また、「処女懐妊」という性的な抑圧のドグマを背負わされた、母マリアも
ここにおいてその腐敗した神話の重荷をやっと降ろすことが出来るのではないだろうか?

その重荷とは
人間を分裂状態にしておきたければセックスを抑圧しろ で書いておいたつもりだ

・・・・人間を狂気に貶めたければセックスを抑圧すれば良い
   呼吸を止めたり、飲食を禁じたりという程、致死性は高くないが
   即死しない分だけ多くの罪悪感、精神的錯乱、倒錯、緊張へと
   じわりじわりと確実に追い込んでゆくだろう  ・・・全人類を!

「妙法」とは、
涼やかで繊細な処女性の神秘がもたらす、
仏法やイエスの光の存在をも包み込むヴェールのことだと思う

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・・・それは西洋では聖母マリア信仰という形となったが
  その本義は決して「性が汚い、汚らわしい」というのではなく、むしろその逆のように思う

たぶんノーシスが指し示した「性エネルギーの昇華」も、
OSHOのタントラ・ビジョンも、その原理はそこにある

聖母マリア像の豊満な乳房を見て、誰もが温もりと、あるいは性的な欲求が喚起される
そしてそれは「聖なる母に欲情してしまった」ことへの罪悪感と、さらなる性的興奮をそそる

・・・しかし、だ。

  もし私たちが初めから「聖なる母の子宮の中に今も居る」のだとしたら???
       ・・・・わたしたちはすでに聖なる母と性的に結ばれていることになる

なぜなら、男性にとって性衝動とは
  「母なる子宮に帰り、自我を消滅させたい」という衝動なのだから・・・・

そして女性にとっての性衝動とは、
  自らが「生命の全て」を包み込むおおらかさ、暖かな空間そのものだ・・・という自覚だ

わたしたちは、この地上の世界こそが実体であり、
水面に鏡のように映った世界は〝虚像〟〝鏡像〟なのだと認識している

しかし、この水面こそ、 ・・・・この〝鏡〟こそが、
私たちの本質そのものを象徴しているのでは無いだろうか?
鏡に映る自分の肉体の映像が「自分」なのではなく、
その背後にある「鏡」が「わたしの本質」なのだとしたら、
それは実にヌーソロジー的では無いだろうか?

・・・・この〝鏡〟
つまり物質世界そのものが聖なる母の子宮であるならば
        わたしたちはすでに彼女と一体であり、
        「わたしたち」とは「彼女そのもの」だと言える

・・・私たち自身も〝鏡〟であり、〝聖なる子宮〟なのだ 

絶頂の瞬間とは、男も女もエゴが溶解し、生と死が、性別が区別不能に溶け合っている
男は少年に若返り、女は少女に若返る

Prem Sheel -
聖なる果実は 男性でもなく女性でもない。
聖なる果実は <全体なるもの>としてのみ熟す。...


・・・これがクリスタライゼーション、結晶化であり、結果としての透明化だ

  透明化とは、「自他の区別が消滅すること」なのだと思う

あなたの中に魂の安らぎの場所を見いだし
君の目を通して世界を見つめると ボクはまた若返るんだ・・・」

バリーマニロウ「唄の贈り物」 from Katal Maneel on Vimeo.


つまり、キリスト~クリスタライズとは、
単なる世紀末における救世主再臨伝説というだけでは不十分で
まずその前に「永遠の若返り」を象徴している言葉だと思える・・・

セックスだけに限らず、
もし人生の経験というものが、総じて単にエントロピーの増大をもたらすだけなら
人生は汚れ、穢れていく一方向だろう・・・ 人生の経験は全て「泥沼」なだけなのだろうか?
               肉体的な老いと、衰え、そして死だけがすべてなのか?

・・・しかし、そうではないというところに、マグダラのマリアが罪を免れ、救済され、
そのマリアによってイエスも叉現代に復活(再臨)するという奇跡が可能になる・・・
                 それが〝妙法〟であり、泥の中から咲く蓮の華だ

! リトル・ブッダ「微笑みに輝く少女の頬」


ゴーダマ・ブッダもスジャータが差し出す乳粥・・・
つまり動物性のタンパク質をすすって、この世に留まった・・・
                     それも同じことを示唆していると思う

スジャータ

仏とは「無(透明)となり、永遠の光となった人」という意味だが、
ゴーダマは単に悟っただけならば光として肉体から飛び去ってしまっただろう・・・  

彼を引き留めたスジャータこそが単なる〝ほとけ〟を〝如来(マイトレーヤ)〟と変えたのだ
「女の口(膣)を通って来た者」つまり肉体を持ったまま、私たちと共に居てくれたブッダ・・・

! リトル・ブッダ「悟り」

「最良の友」~それが如来=マイトレーヤの意味するところだ

一緒に食べよう

それがOSHOがいうところの「ゾルバ・ザ・ブッダ」であり
「この身こそがブッダ、神聖なるもの、そのもの」という奇跡の体現だろう

如来~マイトレーヤによる救世伝説とは
「〝救世主〟も、〝救われる人〟というのもいないんだよ?その分離感は錯覚だよ?」

 ・・・・・・という究極のジョークのオチを私たちに告げに来たのでは無いだろうか?

もう作らなくていい

コルコヴァード(静かな夜)オリジナル和訳歌詞 from Katal Maneel on Vimeo.

やはり多くの仏典の中において法華経は最も重要なようだ
私がざっと法華経の入門書を読んでまず感じたのは

    「謙虚さ(不可知論)の重要性」

それと

    「すべてのすべての物語とは〝方便(たとえ話、真実を示す指)〟なんだよ」

ということだ・・・・・

    つまり
     「全ての〝確かな〟現実、それ自体が夢なのだ」と気付くことが覚醒だ
      「夢の中で『これは夢だ』と気が付く」こと、・・・・それが即ち覚醒、 というわけだ

                    何と言う壮大な、無限のパラドックスだろうか?

「夢の世界から脱出したい!覚醒したい!」という格闘そのものこそが悪夢だった・・・
何て「苦く悲惨な気の遠くなるようなジョーク」なのだろう?

〝覚醒〟は私たちをどこにも・・・・   アナザーワールドにつれていってはくれないのだ

 そもそも夢と現実との間に引いている私たちの境界線(定義)それ自体が無根拠なのだ

    わたしたちは「色つき」の、「タンスの角に足の小指をぶっつけると痛い」夢を見ている(笑)
    ハードディスクが容量不足だと、ハードディスクを換装しなければいけない・・・
    「パソコンやインターネットがある」世界の夢を見ている

       「意識的な、夢の時間の始まりです・・・・」  by バシャール


「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>

あれ程までに覚醒の必要性を説き、
眠りから目覚めのために働き続けた
私達の愛するマスター、親愛なる友人OSHO・・・・

彼は今

   「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」

  という最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。

覚者の夢というパラドックスに、
私はOSHOらしい最後の茶目っ気を感じるとともに・・・

    グルと弟子とのマスター・ゲーム
                 という最後の悪夢

        ・・・・から目を覚ます時が来たことを感じた。

・・・・・中略

一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた
日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は・・・

  「日本は世界の雛型であり、
   大本教に現われた自分は
   いずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、
   まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである」、

という遺書を残している。

また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、
それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、
長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、
その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。

 美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、
これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみると
インド大陸西北部に当たり、OSHOの出身地のグジャラートや
プーナもその一帯に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは
言霊(ことだま)で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから
新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。

OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、
伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し
最後の本当の姿を見せ始めた。

「弥勒神真像」を実際に見た人によれば
それはOSHOそっくりだということだ。

弥勒菩薩・マイ トレーヤーは友人を意味し、
友情のような親しみの中で、生きとし生きる
あらゆるものを救うためにやって来るという。  

1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは
88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れる
ことによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を
完成したのである。



「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>

 英語でローソクを現わすキャンドルは
もともとサンスクリットで月を表わすチャンドラであり、
これがヒンドゥやインドゥに変化してインドとなり、
教典において月を象徴とする精神的民族として
月氏国を表記されている。

  「OSHO」とは
   日本語の 「和尚」であり、
    アメリカの詩人ホイットマンの造語
     Oceaning(海に溶け去る)から、

         〝海に溶け去った人〟
            の意味も込められているが、

   本命、チャンドラ・ラジニーシ・モハンが示すとおり、
   月の神秘的な精神性を象徴しているのである。

 この経緯を見て、
   「今こそ日本神話の中のツクヨミを呼び戻すことが
    日本とOSHOのスピリットを繋げることになるのだ」

という直感から、
京都の翻訳家Swモンジュは
90年夏にミニコミ「ツクヨミ」プロジェクトの活動を開始している。

・・・・・中略

 あらゆる精神世界に言及したOSHOは特に仏教に多く触れ、
般若心経をハート・ スートラ、
金剛経をダイヤモンド・スートラとして語り、
古びた教典に全く新しいエネルギーをそそぎ込んだ。

最晩年は
法華経をロータス・スートラとして語る準備をしていたが、
幸か不幸か、大いなる存在は彼にその時間を与えはしなかった。

 OSHOが残した夢はもはや言葉の次元を超え、
インスピレーションとなって私達を激しく優しく誘い続けている。

私達に溶け込んだ彼のエネルギーは、
全く新しいロータス・スートラとなり、
地球のスピリットとなって湧き出すことだろう。

 環境運動も国連もノーベル賞も近代オリンピックも、
全てユダヤの秘密結社フリー・ メイソンの陰謀である
とする人々もあるが、大和魂もユダヤ・マインドも
過去の狭い条件付けを受けない地球人としての
ニューマンの登場によって受け入れられ、
瞑想によって洗い流されて行くことだろう。

日本とOSHOの出会いが生み出すもの・・・・・
それは
人類一人一人が覚醒し、
56億7千万人のマイトレーヤー達となって作る、黄金の未来である。

TVドラマ「この世の果て」で、
鈴木保奈美演じるヒロイン:砂田まりあは
三上博演じる孤独な天才ピアニスト:高村士郎との関係を問い詰められて
以下の様にうっとりと答える

「愛だなんて陳腐なものじゃないわ!」
「彼は私を『必要だ』っと言ってくれたの・・・」

なぜ〝愛〟より〝必要性〟の方が
砂田まりあのこころを揺さぶったのだろうか?

・・・ここに「孤独の正体とは何か?」という手がかりがある

   人は自らの「無価値さ」「無力さ」と直面することに
   堪らなく孤独を感じるからなのだ

人に「必要とされる」時、自分には存在価値がある! っと確信できるからだ

「愛される」ということよりも、それは大きい

なぜなら人が与えてくれる愛とは、次の瞬間、その人の気まぐれで
引き揚げられてしまう可能性があるからだ

  私たちの心は、もっと永続的な確かな絆が欲しい・・・

   ・・・それが、「必要とされる」ことだ

例えばアフリカの餓えた人々・・・、
例えば捨てられて死にかかっている子猫・・・・

そういった存在が、命がけであなたの救いを求めてきたとき
あなたは立ち去り難くなる・・・  

  胸が締め付けられ、目にいっぱい涙が溢れる
   可能であれば、救いの手をさしのべたいと思うだろう・・・

あなたは「優しい人」だから?

・・・ 少なくとも「砂田まりあ」は〝優しい女〟としては描かれていなかった
    彼女は、幼いときに親の愛を確かめたくて自宅を放火し、
     妹を失明させてしまうという大きな心の傷を負っている女だった

高村士郎の、
自分の存在意義そのものをまるごと疑っている姿と
砂田まりあ自身の
自責のトラウマが重なり、
その中で救いを求める士郎に心が揺さぶられたからなのだ

   ・・・自分の存在価値を疑うこと程、深い孤独の闇は無い

  その「深い孤独の闇」に震える二人が出会い、求め合ったが故の
  二人の絆だったのだ

  砂田まりあにとって、高村士郎から「必要とされる」こととは
  捨て猫に必要とされることとは違っていたのだ


あなただけの流した血 投稿者 maneel-katal

まりあにとっては、士郎の〝求め〟は、
自分の魂の分身の慟哭の様に感じたのでは無いだろうか?

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でもしかし、
「必要とされる」ことが、それ程までに神聖なことなのだろうか?

確かに「強い絆」ではあろう・・・「救世主と信者」「羊飼いと羊」のように・・・
                    ・・・・たしかに〝動機〟がハッキリしている
                      ・・・・たしかにその必要性は命がけだ

でも敢えて言うならば、
この憐れな必要性のシリアスさは「餓え」ゆえである

(※ なぜ、日本人は不純な動機で結婚してしまうのか?

それが、「お金や食べ物」であるなら砂田まりあでなくても良かった
それだったら、豊川悦司演じる、神山財閥の御曹司がいくらでも代役出来る
彼女はこれ程は高村士郎に関わらなかっただろう
実際このドラマ終盤では、落ちぶれた高村士郎が神山を強請(ゆす)りに行くシーンがある

士郎の「餓え」は高名なピアニストでもあった自分の
全実存をなげうった全身全霊の求めであったが故に、
まりあは離れることが出来なかったのだ

しかし、それでも敢えて言えば、全身全霊なものであるにせよ、それは〝餓え〟だった

残酷な言い方をするなら、士郎も、まりあも、互いに〝乞食〟だったのだ
しかしそれは、「〝魂からの〟餓え」であったが故に、〝崇高な愛〟に見える・・・
ここに、この物語の悲劇性のエッセンスがある様に思える



このドラマに限らず、現実の人生でも
魂からの慟哭がそこにある以上、
わたしたちは狂おしい程に〝生〟にしがみつくだろう

どれ程自分を投げ捨てようとしても、否定しようとしても、
そこでは自意識が慟哭し続けるだろう、
そして、地獄の様な孤独に苛まれ続けるだろう

その、自己否定感には狂おしい反作用が起きるに違いない
「死の覚悟」は、その何十倍の「生への執着の業火」となって、
自分と周囲の人間をも巻き込んで苦しめ続ける

一回の人生で足りなければ、何度でも・・・

私は男に生まれているので、女性はどうなのか? ・・・分からないが
少なくとも男性の多くは、孤独感が性欲へと転向する
しかも健全な性欲では無く、ただれて、倒錯した性欲として噴出する



わたしの精神世界への入り口は、ノーシスという性エネルギー昇華を
目的とした秘教団体だった

セックスのエネルギー、クンダリーニの昇華が如何に重要か?
というテーマと最初に向き合わせてくれたのはこの団体だった

いま思うなら、このテーマの選択そのものはとても的を得ていたと思う
これこそが、人生のアルファーで有りオメガとも言えるテーマだと思う

しかし、テーマの選択は正しくとも、これ程までに深い内面の旅を
必要とする〝秘教〟もまた、無いのだ!

ノーシス=ミゲル・ネリ氏が教えていたのは、あまりにも教条的な
方法論に囚われすぎた教えだった・・・

            ・・・・そしてその最終目標は「超人」の生成だった

  ・・・その後、「ノーシスの卒業生達の多くがオウムに走った」と風の噂で聞いた

    かたや私は、バグワン・シュリ・ラジニーシの「セックスから超意識へ」という
           本との出会いを果たした

セックスから超意識へ (1982年)
バグワン・シュリ・ラジニーシ
ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン
1982-02



今日ふりかえってつくづく思うのは、
「ハートを伴わないタントラは単なるカルトへの転落でしか無い」ことだ
それら転落の谷底とは、〝自己否定〟という奈落なのだ

私たちは皆、セックスから生まれてきた

両親の恍惚の光を通って、この世界に肉体を得て、
それが私たちの存在そのものなのだ

それゆえ、「自己存在の否定」とは、「光の否定」と同義なのだ

わたしたちは自分自身への愛を、死に物狂いで探し当てなければいけない
その上で、セックスの抑圧とは、探索の道の破壊そのものなのだ

いきなり「エゴとは錯覚だ!」と叫んで自意識を切り倒そうとしても無駄だ
睾丸を切り落とし、物理的な性欲を切り落とすことも馬鹿げている

それは、自然な成長のプロセスを経て、充分な熟成によって真っ赤な実に熟せば
自然の法則に従って自然にポトリと大地に還る

その成長のエネルギーこそがクンダリーニなのだ

つまり簡単に言えば、
「自己否定」によっては「無我の達成」は不可能なのだ!
言葉上は一見似てはいるが、正反対だった・・・!!

それが砂田まりあと高村士郎のシリアスな関係に
いっけん深い真実の愛がある様に見えて、
しかしこの物語が悲劇で幕を閉じたポイントなのだ


「性の超越」とは、「孤独の超越」と極めて近いところにある
そして、「宇宙への開花=エンライトメント」と不可分なテーマなのだ

私たちは「孤独」という闇に迷うなら、確実に性の底なし沼に引きずり込まれる
しかし、
だからといってセックスそのものの否定は
自分の唯一持つエネルギーの否定でもある・・・  
ところがわたしたちは、
この自分自身の唯一のエネルギーとの格闘によって、力尽きてしまう

セックスとは底なし沼ではあるが、
これはブラックホールであると同時にホワイトホールでもある

  「トンネルを抜けると、そこは雪国・・・」これはホワイトホールのことだ

しかし、この「トンネル(産道)をくぐる」ことは大きな苦痛が伴う
そしてその新しい雪国から新しい「生老病死」が始まる

でも、孤独の超越によって、
そんな苦しみを繰り返す必要など無くなるのだ・・・

その「性の泥沼」と格闘するのでは無く、それを自らの養分にしたとき
そこから蓮がスクスクとまっすぐ育ち、開花するだろう

これが、性エネルギーの昇華だ

泥沼=性というのは「穢(けが)れ」では無かったのだ!


  〝必要性〟に取り憑かれている間は
   〝超越〟も〝昇華〟もおぼつかない

そして、超越した〝フリ〟をすることで、何人かの信者は獲得できるかも知れないが
それは自分自身のためには、手枷足枷でしか無い

じゃあ、〝超越〟とは何か?っといえば、私たちはスーパーマンを連想する
セックスの超越ならば、「性欲を完全にコントロール出来る」こと
食の超越ならば「仙人の様に食べなくなる」様なイメージを持つ

でも実際、「食の超越」とは、「不食」なのではなく、
「自然な求めに応じて食べること」なのだ

拒食や過食に走るのでは無い・・・  両極端に取り憑かれるのでは無い・・・・

むしろ不自然にコントロールしようとした結果こそが
「必要性に取り憑かれた餓鬼」を生みだしてしまうのだ

健やかな身体がそこにある以上〝必要性〟は、死ぬまで必ず生じる・・・
   ・・・しかし〝必要性〟に取り憑かれさえしなければ、
      そこには   ただ、ただ、自然な流れだけがある

            それが、〝超越〟なのだ

  それはセックスにも当てはまる

   まったくセックスをしないことでも無い、
    セックスを意のままにコントロールすることでも無い

それは、超人的な神話を好む男性達にとっては、ちょっとつまらない話だろう
男の子達は、小さいときからヒーロー物語が大好きだからだ

しかし、
その幼い憧れが・・・
超人的なヒーローを求める幼稚さが・・・
・・・救世主の物語を求め続け、作り続け、しがみつく心理的動機になっている


  この「人類の幼年期」を続けられる時間は、もう尽きたのじゃないだろうか?

   子供達のヒーロー伝説、英雄への憧れは、
    その救済を求める多くの「迷える子羊」を必要とした・・・
                   ・・・「救世主物語の成立」のために

もういい加減に
この様な物語をエンドレスで作り続けて
孤独を埋める愚かさ


                ・・・目覚めるときが来たのじゃ無いだろうか?

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