We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: 今日のシャンタン・コピペ




「エンライトメントすることは素晴らしい・・・」
っというのは、現在の私達の目線だけれど、光明を得るとは
最も自然なこと、あたりまえの現象なのならば、わたしたちは
この「下から目線」を変更した方が良いと思う

恋をする、憎む、・・・悲しむ・・・・

私達は別に「超人」になる必要は無く、
ただ、じぶんのネイチャーを楽しめばいいのだ

それが出来ないのは、自分のネイチャー(特にセックス)を
卑下する習慣が何世代にもわたってしみついてしまったからだ

じゃあ、この「何世代にもわたって蓄積した習慣」を
ぬぐい去る為に、また何世代もかかるのか?といえば
そんな事はないだろう

気の遠くなる様な長い期間閉ざされた闇も、一条の光によって
さっと、明るみにすることが可能なのだ

「自己卑下、自己否定の長き闇の洞窟」・・・ 闇とは、すなわち「病み」である

仏とは、スーパーマンではなく、もっとも、当たりまえの、健全な人ならば
自己否定とはビョーキに過ぎない

ビョーキの状態を「あたりまえ」と認識しているのがいまの社会なのならば
その認識から脱するだけで、
わたしたちは「健全さ」に確実に踏み出すことが出来るに違いない。

そして、
その一歩さえ踏み出せるのなら、全治まで、(いままで病んでいた)私達が
想像するよりも、はるかに短い期間しかかからないだろう

   ・・・「それ」 は、始まれば、早い!!!!

シッコ コレクターズ・エディション / 洋画
シッコ コレクターズ・エディション / 洋画

OSHO>新しい人間は現実をスクリーンとしては使わない。

OSHO>新しい人間の目は開かれている。


ワンネス、つまり我々の“13=とうさん”が

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この世界を創造した目的は、

「Who am I ?」 という問いかけからだろう
・・・・

その為には対話が必要で、ワンネスはその為に自分の分身を
作る作業にかかった。まずはその作業場である三次元空間自体も
彼の分身なのだが・・・

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三次元空間は最初はゆっくり、極めてゆっくりとしか変化しなかっただろう
なぜならニルヴァーナの状態とは静寂であり、変化も緩慢だからだ・・・

しかし、変化をはじめるにつれ、少しずつ変化は加速していき、
時代は三次元の時間の黄昏
「品川」その先のアセンション車庫、「大崎」に至った

その「いまここ」に私たちはいる。


あなたやわたしは、もし「いまここ」に完全に同期したならば、そこには
宇宙が創造される前の、完全な静寂、なにひとつ定義に拘束されていない
“無”である自分自身、タキオン粒子としての自覚だけが存在する意識だけとなる

ワンネスが、自分を知ろうとして産みだしたもう一人のワンネス、それを
自覚出来るだろう。


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人間という種族が意識を芽生えさせてから、このワンネスとワンネスとの
交流は始まった。

当初は私たちの先祖はワンネスを“神”と呼んで恐れ、敬った。

そしてその神を知ろうとしてグノーシスが生まれ、ユダヤ人達が
生まれた

大自然の猛威の中、生き延びるだけに精一杯だった頃は、恐れの
対象であった“神”も、世界の観察力が芽生え、幾何学を含む神への
探求が生まれてから、それは「神への挑戦」へと変化するのに、
それ程、時間はかからなかったのではないだろうか?
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大別するならば
人類は、神に屈服し、救いを請う大多数の「憐れな迷える子羊」タイプと
神へのチャレンジャーたるイルミナティータイプに別れた。

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でも、実はワンネスは「憐れな子羊」よりも「チャレンジャー」こそを
待ち望んでいたのではないだろうか?

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神への挑戦者として、悪魔を崇拝し、
「憐れな子羊達」を、あるいは支配し、牛耳り、あるいは大量殺戮し・・・

ニヒルな笑いとサングラスをかけて神を挑発する連中・・・

自分にチャレンジしてくる、自分と互角、対等な本質を備えた、
もうひとりの自分・・・・・
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  それが起きることなく、なぜ神は自分の分身を作る意味があったというのだ?
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「自己探求」と称する、生物としての補食行動の最終形態に向かった
“求道者”たちも、・・・

いわゆるイルミナティーの陰謀、NWOに対抗していても、・・・
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いわゆる「支配からの卒業」をめざし、愛と平和を求めていても・・・
征服や支配ではなく、すべての魂の解放を求め
自由の為に闘争してきたという連中も、
ある意味では、「神への挑戦者」といえる

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これらのカラクリにだんだん気がつき、見抜こうと最大限の
集中をしてきた者達も・・・・

かれらもまた、カテゴリーとしては

「啓明をもとめる者達」・・・  本来の意味での「イルミナティー」と
呼べるのかも知れない

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しかしこの壮大なドラマも、もうすぐひとつの区切りを向かえるのではないか?
と思う、そう言う予感は日に日に強まっている

挑戦すればするほど、探求すればするほど

人は苦しくなってくることに気がついた。

「この挑戦の根底には何かとてつもないパラドックスがあるのではないか?」

そう、気が付き始めたのだ。

「自分たちはドンキホーテのように、風車を相手に闘っているのではないか?」

「世界は自分が投影したスクリーンなのではないか?」

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「いや、世界がスクリーンと言うより、自分の目には大木が刺さっていて
世界に自分勝手な投影をして、ありのままを見ていないのではないか?」

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その「懐疑」は、いまや人類規模で「確信」へと、・・・急速に変わりつつあるのだ


大喜利お題
「矢吹ジョーと力石徹が本当にやりたかったこととは?」

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私のボケ
「北斗神拳の伝承候補者として生まれ変わって雌雄を決すること」

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若い時に丸善で石川源晃氏の「占星学教科書」と出会ったのは、
私の人生での間違いなくエポックだった。
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行き当たりばったり的な経験律の寄せ集めのような、いわゆる
「占い」本に飽き飽きしていた私が、もっとキチンとした学問的な
体系を持った“占術を科学する入門書”を探しあぐねたひとつの
究極的な解答が、この本だった。

まだ高校を卒業して間もない頃のわたしは食い入るように
ページが手垢で真っ黒になるまで何度もこの“バイブル”を
読み返した。

不思議なことに私と同じような想いで「占術を科学する」事を
目指した若者達は圧倒的にわたしと同世代だったことに
その後に気が付くことになった。

サリドマイドが多く、また上祐 史浩の様なオウムの中核的信者が多い
わたしの世代は、そういう役割が強い世代だったのではないだろうか?

この「占星学教科書」には(これも奇しき縁なのだが)私の父と同じ母校、
東京工業大学の電子工学科を卒業した石川氏らしい発想が満ちていた。

アスペクトのオーブ(許容値)をどう捉えるか?というのに
電波工学で言うところの「レゾナンスQ」という発想で説明したりとか、
わたしがシビれたところである。
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わたしが「悟り=エンライトメント」という最大の神秘の世界にすら
電子工学的な解明と説明をついつい欲求してしまうのは、一種の
わたしの性質(さが)なのだろう。

父も前世は数学者だったそうだけれど、現世の私の肉体の父であった
時は東京工業大学で化学を学び、元財閥系企業の化学プラントの設計で
国際特許を幾つも取得している。

私にとっての“大学”であったOSHO(当時は存命で、まだ“ラジニーシ”で
あった)の日本代表瞑想センター「シャンティ・ユガ」は、東京工業大学と
同じ、東京の大岡山だったというのも偶然とは思えない

先日ご縁があったシャンタンさんは、そのシャンティ・ユガの設立メンバー
だったそうで、つまりは私の母校の大学総長みたいなものだ

この「電子工学的な占星学」の紹介で、石川源晃氏はいう

「ひとつの法則が成立するには十万対一の確率での実験に耐えうる
検証性を要求される・・・」

ところが、では実際に何かの統計データーを取ろうと研究者がリサーチを
はじめると、不思議な現象が起きる・・・・

それは、
研究者が「こうであって欲しい」という
“希望的観測”にふさわしい実例が、
統計学的な常識を凌駕して集まってきてしまうこと
である

OSHOがいうところの投影、つまり世界をスクリーンにしてしまうという現象は
こんな科学的、統計学的な分野にさえ侵入してきてしまうのだ!!!

石川氏は確かこんな例を挙げていたと記憶する。

「ずいぶん長い間、グリセリンという物質はどう頑張っても
凝固しなかった・・・ だからずっと人類は
『グリセリンとは凝固しない物質なのだ』と思い込んでいた」

「ところがグリセリンを大量に輸送していたトラックが横転して
路面に流れ出した時、突如そのグリセリンは凝固してしまった!」

「何と驚く無かれ!それ以来、どれ程さまざまな試行錯誤をしても
凝固しなかったグリセリンは、世界中でカンタンに凝固するように
なってしまった!」

つまり、人類が「これこれはこうだ」という先入観が変わると
物質は、まるでその観念に答えるかのように振る舞うというのだ!!

これは例えれば、ジョセッペ爺さんが毎日語りかけていたピノキオが
ある日突如返事をするようになった・・・  いやそれどころか、
その日を契機に、世界中の木偶人形が人類と会話するようになって
しまった・・・・  と言わんばかりの不思議な現象なのだ

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永井豪の傑作「デビルマン」のある意味で同系列である外薗昌也氏の
名作「ワイズマン」では、こんなセリフが出てくる

「世界は水みたいなもんだ・・・そこかしこへと流れ込んでいき、
オレ達を驚かす」


イルカや鯨のような水生生物にとっては当然の話だが、地上の
シビアな環境で生きている私たち陸棲生物にとっては、信じがたい
世界観だ。  ・・・しかしそれは、量子力学のような日常感覚から
離れた超ミクロの話題ではないのだ!

(観測者である)人間の観念に合わせて、(被観測物であるはずの)
世界がその振る舞いを変化させる・・・・   なんとサイケデリクスな
話ではないだろうか?

これは「主観と客観」というものを思索する上でたぶん、
もっとも重要な現象なのだろうと、わたしは確信する。


私たちは自分たちで自覚しているよりも遙かに、「思い込み」に
支配されて生きている・・・  映画「マトリックス」でモーフィアスは、
アンダーソンを目覚めさせる為の「洗礼の儀式」に先だって、
“この”世界のことをこう説明する

「マトリックスは“支配”だ」

牢獄だ

「それは私たちを目の前の真実から覆い隠す、牢獄だ・・・」

「こころを縛る・・・・」


その「牢獄」は、人工知能の人類への反逆として作られたとあるが
その“人工知能”とは、OSHO流にいえば「マインド」の事である。

それは、「真実を覆い隠す目の前の牢獄」つまりそれが、OSHOの言う

               「スクリーン」

の事なのだ


宮井陸郎 シャンタン
2014年8月8日 7:45フェイスブック投稿記事よりコピペ

新しい人間は、爆弾は作らない。

政治的にはならない。

新しい人間は、ただリアリティ(現実)への開き口、窓だ。

彼はリアリティをありのままに受け入れる。

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新しい人間は、ヒンドゥ教徒ではない、

回教徒ではない、キリスト教徒ではない、共産主義者ではない。

新しい人間は、こうした「主義」は何も知らない。

新しい人間は、ただリアリティ(現実)への開き口、窓だ。

彼はリアリティをありのままに受け入れる。

それに、自分のマインドを投影することはない。



現実をスクリーンとしては使わない。

新しい人間の目は開かれている。



その目は思い込みで一杯になってはいない。

古い人間は、恐怖から生きていた・・

自分の神ですら、恐怖の産物以外の何ものでもなかった。

古い人間の寺院、モスク、グルドワラ、教会
              ・・それらは皆、恐怖
ゆえだ。

古い人間は震えていた。

怖れていた。

新しい人間は、恐怖からではなく、愛から生きる。

恐怖は死に仕え、愛は生に仕えるからだ。

そして、もし恐怖から生きたら、あなたは

生とは何かを決して知ることはないだろう。

繰り返し繰り返し、死しか知らないことになる。

そしていいかね。

恐怖から生きる人は、もっともっと

怖くならざるを得ない、あらゆる種類の状況を生み出す。

あなたの恐怖が、状況を生み出すのだ。

まさにあなたの愛が、状況を生み出すように・・

もしあなたが愛したら、あなたは愛に溢れることの出来る、

実に多くの機会を見い出すようになる。

愛は、新しい意識の味になる。

恐怖は、古い意識の味だったから、それは戦争を生み出した。

3000年の間に、人間は5000の戦争を行って来た・・

まるで私達は、他には何もしていないかのように・・

絶えずどこかで戦っていた。

まさに狂気の沙汰だ。

人類の過去は、正気ではない。

新しい人間は、この正気を失った過去との繋がりを断つ。

戦争ではなく、愛を信じる。

死ではなく、生を信じる。

破壊的ではなく、創造的だ。

新しい人間の科学、芸術
・・全てが創造性に奉仕することになる。


新しい人間は、爆弾は作らない。

政治的にはならない。

というのも、政治は憎しみから生まれるからだ。

政治は恐怖、憎しみ、破壊的資質に根ざしている。

新しい人間は、政治的にはならない。

新しい人間は、国家主義的にはならず、

新しい人間は、グローバル(世界的)になる。

どんな政治的野心も持たない。

政治的野心を持つことは、愚かだからだ。

新しい人間は、非常に知性豊かになる。

その知性の最初の兆しが、地平線上に昇ろうとしている。

目のある人達・・彼らは、それを見ることが出来る。

子供達が反逆しているのだ。

新しい人間は、偏見からではなく、
自発的な責任から生きる。

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古い人間は、奴隷だった。

新しい人間は、自由だ。

新しい人間は、自分の存在の核そのものに、
自由を持つことになる

同じ8月2日の日付でシャンタンさんが投稿していた
OSHOメッセージだ

一見無関係に見えるかもしれないが
共通する項目は「自分自身への風通しの良さ」の大切さを
強調している点だと思う。

バシャールはワークショップで、こう強調していた。

「決して・・・、決して・・・、決して・・・、決して・・・・!」

「決して、自分らしくあるということは、難しい事ではないんですよ」


そして、子育てであっても、魂の旅路であったとしても
なんであれ、これが最も基本的な鍵なのだと、わたしも痛感する

わたしも二十代の時には何度かサニヤシンと暮らしたことがあったが
彼らは例え生粋の日本人であっても、ちょっと日本人離れした
ある種の共通する臭いを持っていた。

それは「知的なワイルドさ」だった。

それはOSHOが、「自分勝手であれ」 「自分自身に真正であれ」と
何度も、手を変え品を変え、強調してきた結果なのだろうと思う。

「(誰に対してである以上に)自分自身に真正である」とき、人は
抵抗値ゼロ、つまり<超伝導性>を帯びる

たぶんほとんどのサニヤシン達に共通してわたしが感じてきた
「知的なワイルドさ」というのは、この<超伝導性>なのではないか?と
私は確信している

確かに日本人は素晴らしい!

皆、にこやかで、平和的で、協調的で、慎み深く、
譲り合いと相互尊重と思いやりに満ちている。

でもその穏やかな笑顔には、いつも裏がある

他人の目が無い時には、全く違った人格、冷酷な割り切り、残酷な切り捨て、
噂話、いじめ、仲間はずれ、村八分、密告、知らんぷり、クレーマー、
打って変わったモラルの低下・・・

おたふくの面の裏に、般若の面が隠れている。


サニヤシンにそういう面が全くないわけではないだろうが
自分自身に正直に生きている人間というのは、関わる側も
ある意味では安心できる・・・・

確かに我が儘な奴らばかり、マイペースで、ゴーイング・マイウェイな
連中ばっかりだった。

でも、そこがまた憎めない、ラブリーな人達でもあった。

「氷の微笑」、「能面のような偽善性」は、
アスペの私にとっては凍り付くような恐怖なのだ

その点でOSHOのサニヤシンの連中の様な存在は、
やはり私にとっては救いなのだ

宮井陸郎 シャンタン
8月2日フェイスブック投稿記事よりコピペ

夏休みに、お母さんに送るoshoのメッセージ。

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怒鳴ることは、心配しなくていい・・ぜんぜん心配いらない。

それは自然だ。

ただひとつだけ、心にとめておかなくてはならないことがある・・

愛することで、そのバランスを取ることだ。
 
ときには怒鳴りたくなることもあるだろう。

そして子供たちは理解してくれるものだ。

なぜなら、自分でも怒鳴っているのだから・・それが彼らの言語なのだ。

もしあなたが、内側で煮えくり返っているのに怒鳴らなかったら、

子供は何がどうなっているのかまったく混乱してしまう。

子供の理解を超えているからだ。

彼には感じることができる・・まさにあなたの

波動自体が怒鳴っているのに、あなた本人は怒鳴らない。

それどころか微笑んだりしている。

コントロールしている。

彼には、母親が騙しているように感じられるからだ。

しかし、子供たちは決して欺瞞を許さない。
 
彼らには、いつでも真実を受け容れる用意ならある。

子供たちは、とてつもなく経験主義的で、実に地上的で、地に着いている。

彼らは、あなたが怒鳴るのは受け容れられる。

自分たちもそうしたければ怒鳴っているからだ。

もしあなたが怒鳴っても、彼らはあなたとの間の架け橋を感じるだろう。

唯一、あなたにできるのは、それについて罪悪感を持たないということだ。

さもないと、あなたの罪悪感が混乱のもとになってしまう。

あなたの罪悪感が、彼らに様々な問題をつくり出してしまうだろう

彼らは、自分たちがあなたの罪悪感の原因になっていると感じ始めるに違いない。

自分たちがあなたに罪悪感を抱かせているのだ、と。

それが今度は、彼らの中に罪悪感をつくり出してしまう。

罪悪感が罪悪感を生むのだ。

だから、そうしたければ怒鳴るがいい。

ただひとつ心にとめておくべきことは、愛によってそのバランスを取ることだ。

そうして、愛する方も狂ったように愛しなさい。

彼らを怒鳴るのだったら、彼らを愛することも必要だ。

同じように、狂ったような愛し方で・・

彼らを抱きしめなさい。

彼らと踊りまわりなさい。

彼らは、自分たちの母親は野性的なのだと理解してくれるだろう。

そして彼らは、あの人は自分たちを愛しているのだから、

怒鳴る権利もあるのだということを分かっている。

もしあなたが怒鳴るだけで、強烈さと情熱をもって彼らを愛してやらなかったら問題だ。

だから、問題は怒鳴ることからやって来るのではない。

それは、あなたが愛することで、そのバランスを取らない場合に生じるのだ。
 
だから、とにかくバランスを取り続けなさい。

そして、真実でいること。

もし怒鳴りたかったら、あなたは怒鳴りたいのだ。

どうしようがある?

あなたは抑えることもできる。

それを中で止めておくこともできる。

しかし、それは非直接的な出方で外に出て来るだろう。

そして、子供たちにはそうした非直接的な出方は理解できない・・

彼らはまだ文明化されていない。

抑圧という言語を知らない。

彼らが何か間違ったことをしたのに、あなたの前に出ると、

あなたが微笑んでいるというのが理解できない。

これはただただ、彼らを困惑させてしまう。

それはあまりに不自然だ。

彼らはそんなものは信じられない。

お母さんはごまかしているに違いない・・

彼らの方があなたよりも自然に近く、あなたよりも自然をよく理解している。

たとえば子供が何かをやり、あなたが自分の怒りを抑えたとする。

後になって、その子が何もしていないというのに・・6時間も経って、

彼の方はけろりと忘れている・・あなたの方はまだ忘れられない。

それを抑圧したからだ。

もう、ことの全体が冷たくなってしまっている。

そうなると、あなたは何か口実を見つける。

「あなたは宿題をしてないでしょ!宿題はどこにあるの!」

あなたは、仕返しをしている。

そうせずにはいられないだろう。

さもなければ、それはあなたにまとわりついて離れない。

あなたは何かしらせずにはいられない。

さもなければ、それを厄介払いできないだろう。
 
あなたはなにか、理屈に合った口実を見つけ出す。

怒鳴るというのは非合理的だ。

が、自然だった。

ところが、あなたはなにか不自然だけれども、

合理的な口実を見つけ出すに違いない・・彼が宿題をやっていないとか、

服が汚れているだとか、今日はシャワーを浴びていないだとか・・あなたはまだ怒っている。

だが、あなたのその怒りは冷たい。

あなたの方はそれによって、その抑圧を厄介払いできるかもしれない。

しかし、それは醜い。

それはちょうど、冷めた料理を食べるのに似ている・・

消化にも長い時間がかかるし、胃にも重くもたれてしまう。

子供は理解できない。

それはほとんど不可能だ。

彼は何もしてやしない。

彼はこんなことは予期してはいなかったし、

6時間前に起こったことなど、まったく忘れてしまっている。

子供というのは、どんな記憶も決してそんなに長くは持ち歩かない

そうやって、不信感が湧いて来る。

なぜなら彼は、母親と自分とはどこかまったく違うと思ってしまうからだ。

彼が何か間違ったことをすると、母親は微笑む。

そして、何も間違ったことをしていないときに、彼女は叩いたり、怒鳴ったりする。

しかも、冷たい怒鳴り声にはハートがない。
 

だから、温かくしてあげなさい。

彼らはあなたの子供たちなのだし、あなたは彼らの母親なのだ。

あなたは自然な、流動的な関係を持たなくてはならない。

自然に耳を傾けなさい。

あなたは母親なのだから、ちゃんと分かるはずだ。

あなたの母なる自然が面倒を見てくれるだろう。

ただ自然でいて、つねにバランスを取りなさい。

もしあなたが自然でいれば、バランスはひとりでに取れるだろう。

私がそう言っているのは、あなたが忘れないようにするだけのためだ。

そうしないとあなたは怒鳴ったり、自然であることは一人前にできても、

彼らを愛さない可能性がある。

そして、愛というのは何かマインドの中にあるだけのものではない

あなたは、自分が彼らを愛していると思う・・それだけでなく、何かしらやってごらん。

ちょうど、あなたが怒鳴るのと同じように・・怒鳴るというのは、物理的なことだ。

ときには自分がこんなにビューティフルな子供を

持っていることを理由に、歌ったり、踊ったりしてごらん。

そうすれば、何も問題はない。

ときには彼らを抱きしめなさい。

彼を近くに抱き寄せなさい・・彼にあなたのからだを感じさせ、彼のからだを感じてごらん。

彼はあなたのからだの一部だ。

彼にはあなたの温かみが必要だ。

よく、人は死んだ後、大きな鏡の前に立たされて
生前を反省させられると聞く。

ある意味では閻魔大王よりも怖いかも知れない
この「大きな鏡」は・・・・

もしそうであるならば、一番悶絶する自分自身の
醜い姿とは、まさしく「ぶりっこ」ではないだろうか?

他人を騙す、嘘をつくというのは、その段階ですでに
自分自身がハッキリ自覚していないと出来ないことだ。

だから、たぶんこの“大きな鏡”を見せられる時
それほど恥ずかしい思いをしないで済みそうだ(笑)

ところが、得意満面に「知ったかぶり」していた時の
昔の自分を思い出すと、目の前に誰も居なくても
穴があったら入りたい気持ちに襲われる  ・・・私は。

私がひとりで居る時に、恥ずかしそうに俯いている姿を見かけたなら
  「はは~ん、こいつ、過去の自分を思い出しているんだな?」
                  っと、嘲笑していただきたい

つまり、魂のレベルでの一番の恥辱とは、

他人にではなく、自分自身へ

不誠実さだったり
思い込みだったり、
無知の無自覚だったり  ・・・と言うことのようだ

宮井陸郎 シャンタン
8月2日フェイスブック投稿記事よりコピペ


バガバァン

もし、皆さんが本当に恋に落ちるなら、

本当に嫉妬するなら、本当に欲深くなるなら、どうなるでしょうか

そういった人こそ、遅かれ早かれ悟りに至ります。

逆にもし皆さんが、

「いえいえ、私は嫉妬はしません」

「自己中にはなりません」

「私はとても素晴らしい人間です」

などと、ゲームを続けていく限り、

つまり、

悟っていないのに悟った人のように振る舞っている限り、

哀れな人間です。

あらゆる生き地獄を味わい、惨めな人生になるでしょう。

それとは逆に、

「私は、悟りを得ていません。これが私の性格です」

「これが私です」

というスタンスを取ってみて下さい。

それの何が悪いのでしょうか。

そのまま生きて下さい。

そのときこそ、皆さんはたくさんの幸せを発見するでしょう。


宮井陸郎 シャンタン
フェイスブック投稿記事よりコピペ

未来の不安というエネルギーが今のあなたを縛っている状態です。

悩みとは、あなたの意識が今この瞬間から離れた状態のことです。

津留晃一さん

 「比較」それが人の混乱の始まりです。
比較のないところに迷いも混乱もありません。

果たしてどちらが有利であろうか。
どちらが私にとって都合がいいのであろうか。
どちらが果たして幸せへの道なのだろうか。

 比較は常にあなたを悩ませます。

どちらを選ぶべきか判断がつかないところが迷いでしょう。

選択のミスジャッジがあなたに後悔という感情を
誘発させます。 あなたはそれを恐れています。

未来の不安というエネルギーが今のあなたを縛っている状態です。

悩みとは、あなたの意識が今この瞬間から離れた状態のことです。

 比較したときに初めて損したという感情が起きます。
 比較して初
めて間違ったと判断します。
 比較しないかぎり、損をしたという思
いは
 起きてこないでしょう。

 比較判断のないところには結果さえ存
在できないのです。

ではどうしてあなたは比較をするのでしょう。

比較から混乱、苦しみがやってくるのなら比較しなければ
良いので
はないでしょうか。
それは、結果には「良い結果」と「悪い結果」
とがあるとする
あなたの考え方に起因しています。
私にとって「都
合の良い事」と「都合の悪い事」があるのだ、と
あなたは信じ込ん
でおり、これまでそのことを疑ったこと
さえなかったのではないで
しょうか。

 この世に「良い事」と「悪い事」はないのだ、
本当にそんなもの
はないのだ、
右を選べば右の道があり、
左を選べば左の道があるだ
けである、と伝えられました。

右の道を選べば右の体験があり、
左の道を選べば左の道の体験があ
ります。
その体験に、良いも悪いもありません。

ただその体験をし
ているだけです。

そして右を体験しつくした人はその体験による学
びが
終わり、次には自ずと左の体験を望むようになってきます。

 人はあらゆる体験をするために肉体を持ちました。
神には出来な
いあらゆる体験をするためにです。

そして単にまだしていない体験に対して欲望がわいてくる
ようにな
っているにすぎません。

都留晃一さん> この世に「良い事」と「悪い事」はないのだ、
本当にそんなもの
はないのだ、


さて、なんでも疑ってかかるのが私のポリシーです(笑)

バガヴァンは、
7月27日「疑ってはいけない、信じたものだけが
実現する」と言っていたが、この件に関しては私は受け入れていない

ある意味、文脈上は確かにその通りではあると思う

信じたものだけがリアライズし、疑ったものはブロックされる。

ただ、もうちょっと広義の意味でなら、疑いもエネルギーである以上
それなりに現実化するだろう

ただし、信じた方向とはベクトルが正反対なのだから
それなりの現実化”なのだ。

「何か(現実化するはずだったものが)現実化しない」というのも
(信じるという方向から見て)マイナスの現実化だろうから・・・・

何かの否定や消極性というのは必ずしもバッド(悪い)ものではないと思う

OSHOも「偉大なるイエスマンになれ」と言う言葉を残しているが
それはある意味で「ノーを感じるなら、そのことにもイエスであれ」という
含みがある

アクセルがあってブレーキが効かない自動車は危険きわまりないのだ

そしてブレーキは壊れていないまでも、効きが悪いと、
結局のところ危なっかしくて加速するのもままならない

バシャールは、
「信じる事と疑いとは、同一のエネルギーだ」と言い切っている

これは考えてみれば、至極当然だ。

自信がある人であるならば、
「さあ、どこからでもかかってきなさい!」と
いって胸をドンとたたける

私にとっての占星術の恩師、石川源晃氏は
そのことを「バズ・セッション」と呼んで奨励した。

石川先生は「良い質問」をとても喜んで歓迎してくれる人だった。

質問とは即ち疑問、懐疑をも当然含む

でもそれで「不埒なヤツ」「信者失格」「地獄の子」とわめき立てるような団体は、それこそカルトの何たるかではないだろうか?

もしあなたが、ある教師を信頼していたなら、まったく何の躊躇もなく
「自分が判らないこと」「疑問に思うこと」を質問するだろう。

それこそが「信頼があるが故の疑問」というものだ。

威圧的に権威ぶって生徒の質問を受け付けない。質問をしようものならバカ呼ばわりする・・・そんな教授は、失格である。

わたしはそれゆえに20年近く関わった五井野正=ウイッピーをあとにした。

弟子達は、五井野氏の前でイエスマンの木偶人形の列を作っていた。
そして、その絶対的威嚇の下で弟子達は密かに自分たち自身に
エリート意識を持っていた。  自分たちは神の弟子なのだ、っと。

私が離れたあと、風の噂では多少は五井野君も反省したらしく、
「何か質問はありませんか?」と尋ねるようにになったと聞いたが、
   ・・・・・ウム!感心感心!(爆)

誰かに絶対的権威を認めて、その庇護の元で自分たちも
「虎の威を借る狐」になる・・・・  そんな、狐集団に言いたいのは
「神を認められるのは神だけ」「仏と仏の瞑合」という五井野君自身のセリフだ。

権威付け合ったり、頷きあったりという世界に、
私は虫ずが走るのだ。

結局の所、ひとりで居るしか無くなってしまったが、それでいいのだ。



そもそもなぜ「偉大なるイエスマンになれ」とOSHOは言ったのか?

その方が「良い」から?  ・・・いやいや、goodやbadは都留氏が言う様に
在る一面から見た場合に「白黒付く」だけであって、全体性から見れば
「良いも悪いも」ないのだ

東洋の占いと西洋の占いとの大きな差のひとつは
東洋占(ここで言うのは主に中国系の四柱推命とか断易、手相人相・・・)
は必ず最後の解答が「吉凶」であるのに対し
西洋占(ここでいうのはアストロロジーやタロット)では、あまり明瞭な
「吉凶」つまり「グッドor バッド」を断じない点だ。

両方の占術を学び、研究考察し、上記の点に於いてわたしは西洋占に
惹かれていった。

つまり「イエス」とは統合の道だからなのだ。

「アクセル=ポジティブ、と、ブレーキ=ネガティブ」の両方をも含み、
統合することなのだ。

スピ系や自己実現、成功哲学系の多くの人間がまだ、この点を
理解出来ずに右往左往している。

ちょっとなにかネガティブなことを言う度に、
「そんなネガティブな表現はイケマセン!」といって
叱りつけてくるアホウがいまだに多い

特にスピ系の女性に多い。
「天皇陛下はさらってきた子供を喰ってる」
とか言ってる女なんかは、やはりスピというよりは左翼系で、
言葉狩りにご執心の様だ。

わたしはアイロニー(皮肉)を含んだユーモアは大好きなので
あまりポジティブ信者ではない。

ネガティブ要素という「塩分」や「苦み」「渋み」なども
笑いの味付け調味料に大いに活用するべきなのが
本当に知的なユーモアというものではないだろうか???

タブーだらけのがんじがらめの人間は、

まずは
脳の発達障害を起こしてしまっているのではないか?と
いろんな人達を見ていて私は思う。

都留氏は「比較はイケマセン」と言ってるが
  すません!   わたしは議論も、比較も大好きだ。

全く同じ条件下で同じ商品が隣り合っていたなら
わたしは価格を比較して、値段の安い方を買う・・・当然!!

値段は同じでもその他のさまざまな条件が違う商品が
選択肢としてあった場合、わたしは自分の希望する条件
からみてCP(コストパフォーマンス)を重視して比較し、商品を
選択する。

  こんなことは言われるまでもなく日常茶飯で誰だってやっている。

ただし、一見損をしたような買い物、選択であっても
それが本当に無駄だったのか?間違いだったのか?
損だったのか?・・・実はそれは誰にも判らない。

たとえ100万円の詐欺にあったとしてもだ・・・・!!

それが本当に最終的に損だったのかは誰にも断定出来ない

その点では

人生における全ての選択、そして体験は、

   「比較しちゃダメ」ではなく
   「本質的に比較不能」 ・・・だよね?  というのが、
         正確な表現だと思うし、単純にそれは事実だと思う。

  たとえそれが、あなたや私に致命的であってもだ
                     死を招いたとしてもだ

  たとえそれが、人類の滅亡への核のボタンであったとしてもだ


もし人類が滅亡するのなら、
それが一番良いタイミングで滅亡する時だったのだと思う

  つまり、「どうしてもこうでなければイケナイ」という選択は

         一切    一切    一切    ない! と思う


あなたは、「ああではなければならない」
        「こうではなければならない」と

      譲れないものを一杯抱えているかも知れない


私は別にそれを投げ捨てろとは思わないが、
ただ言っておきたい。

  あなたがどう思おうと、
信条に拘ろうと、
   そんなこととはお構いなしに
    今日も地球は回ってるんだよ(笑)  ・・・・っと


そして、これこそが、
人が死を恐れる最大の理由だとも言っておきたい
人々が選択肢が溢れる文明社会によって神経症を煩っている
                       最大の原因だと指摘したい。

  自分は選択をミスったのではないか?
   取り返しの付かない馬鹿な人生を送ってしまったのではないか?

   そういう疑いを抱いて安らかに死ねる人
                  ・・・いますかね??



人は、自分の人生をコントロールしたいものだ。選択したいものだ

  そして選択したい、とはすなわち、<比較>が前提となる。

   比較を必要と感じなければ、あなたは無選択だろう

スーパーの青果売り場でリンゴが山積みされている
「よりどり5個600円」と書いてある

もしあなたがこの山積みのリンゴがまるで工業製品のように
均一に見えたなら、無造作に買い物籠に5個投げ込むかも知れない

でも、もしかなり個々が違って見えたなら、あなたは5個を選ぶのに
山の中から比較しながら、自分の基準から見てベストな5個を時間をかけて
選び抜くかも知れない


私たちのこの三次元空間での生活は、やはり演算結果なのかも知れない
つまり霊的な世界、この三次元空間を演算し、試行錯誤している実相界と
呼べるべきものなのかもしれない。

ベッチーちゃんは、
もっとも抽象度の高い概念を「空」だとし、その次を「無と有」だと考えた。

でも、“無”をFFD=「フリーダム・フロム・ディメンジョン」と定義するならば、
もっとも抽象度が高いのは「空」ではなく「無」となる
なぜなら空でさえ文字通り3つの定義(タテヨコ高さ)を持っているからだ

すると、「空」というのがまだ得体が知れないと感じている私たちが住む
この三次元世界でさえ、“被造物”である可能性が高くなった。

つまり“霊”界、
すなわち“零”界、
いわゆる、“ゼロ”界、

    ・・・即ち“無”の世界こそが実相界である可能性が極めて高い。

だって、「あらゆる定義から解放されている状態」が“無”の状態だというなら
“無”はあらゆる制約、あらゆる限定を受けないはずだからだ。

そしてそうなると、“無”の状態とは、即、“無限”の状態だということになる。

そしてなると
それは恍惚の状態、つまり白い光の“闇”でつつまれた状態であるともいえる。

「あらゆる事が可能」
「あらうる可能性が有り得る」というのは一見、完全な自由に見える

ところが、ひとつだけ無限の世界、無限の光の世界に存在しないものがある。

都留晃一さん>  人はあらゆる体験をするために肉体を持ちました。
               神には出来な
いあらゆる体験をするためにです。

すべてが「想い」のままに瞬時に叶う世界に、  唯一存在出来ないもの・・・

    それは“壁(限定)”だ。

        あるいは

       それは“鏡(君)”だ。


あなたはキャッチボールを楽しみたいと思うかも知れない

でも、ボールを投げつけ、そして帰ってくる“壁”はない。

“想い”によって創造してもいいのだが、
あまりにも自分の“思いのまま”であると、
その壁もまた、あなたの命令通りに「イエッサー!」っと投げ返してきてしまう。

  自分の思い通りの「壁」は、「壁」とは言えないのだ。


あなたは恋をしたいかも知れない。

そして理想の相手を瞬時に生成するかも知れない

ところが、その相手はあなたの奴隷であり、
あなたの思いのままの木偶人形だ

   ・・・飛鳥ラングレーのように、あなたを罵り返すこともない

       無限世界では、
       あなたは、“恋の意外性”を楽しむことは出来ないのだ!!


だからこそ、ナポレオン・ヒルが言う
「イメージを実現するトレーニング」に血道を上げるというのは
                           愚の骨頂なのだ!

  ・・・いったいあなたは何億年もかけて生成発展させ、
自然淘汰の
厳しい取捨選択ドラマを見守ってきて辿り着いた
    この意外性と、多様性と、繊細さ、ハプニングに満ちあふれた
         この素晴らしい世界で、何をしに来たのだというのか?


この世界をあなたのイメージ通りにコントロールする為なのか?
自分のイメージで作り上げた王国の王座に座る為なのか?


この世界の本当の価値、本当の楽しみ方を心得ている者は

        「取捨選択しない」

次の瞬間、何が起こるのか?
楽しみにしながら
目を子供のように
輝かせている。

世界が提供するものは何であれ、すべて祝福として受け入れる


例え非業の死であれ、たとえ、人類の絶滅であれ・・・・



なぜならば、瞬間瞬間は、無限世界の「もう一人のわたし」が
気の遠くなるほどのソート(試行錯誤のシュミレーション演算)を
繰り返し、ありったけの愛を込めて練りに練った
サプライズ・プレゼントだからなのだ。

      昨日の私のボケ




    想像できないほど
     自分はラッキーだと
           思い込む

   (gocky=ゴールデン・ラッキー)


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