We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: ラフ・スケッチ

三島由紀夫の・・・

「オレが死んだら、世界が消えるのさ」

というのは有名な言葉だけれど、この発言を女性原理的・不可知論で見直すと面白い

たとえばあなたが、この世界の中で
何が大事で、何が無価値で、何が「世界から消し去ってしまいたい邪魔もの」か?
を考えていたとしよう

それはあなたという意識のフレームの中で起きている価値判断、価値基準だ

そして、あなたの肉体が死ねば、それと同時にその〝フレーム=枠組み〟も消滅する
   ・・・つまり、一人の肉体の死とは、ひとつの「世界観の消滅」であるとも言える

わたしたちは日常生活の中で、
「自分はこの広い世界の中のほんのひとつぶに過ぎない」という自意識の元で生活している

だからたとえ自分の世界観=フレームが〝正しいもの〟だと確信していても、
それを他人に強要することが許されないのだと知っている

ヒトがヒトを支配したがる理由はここにある
・・・チャンスがあれば、自分の世界観を誰かに押し付けたいのだ

  (恐ろしいことに、子供を産む理由の多くも、えてしてここにある)
   いいお母さんほど毒親に…「子どもを不幸にする」呪いのフレーズ3つ

しかしいよいよ自分が死と直面せざるを得なくなった時、
人はおのれの肉体の消滅と共におのれの世界観もまた
この世から「消えてなくなるのだ」と覚悟せざるを得なくなる  (気付くのおせーよ!)

「消えてなくなる」のは、「実際の世界」の方では無い、「自分の世界観」の方だ・・・・
      ・・・・しかし、死を目前に控えて、それがいまさらどういう意味を持つだろうか?

 あなたはこの「フレーム」と共に生きてきた・・・  このフレームとは、エゴそのものだ

世界が、あなたひとりが死んだとして、それが何だというのだろう?
それは「大した事件」ではないし、それで「世界が消えてなくなる」わけでもない

しかし、死と対峙したあなたにとっても同じ事が起きる

「〝本当の世界〟が如何なるものであったとしても、それが何だというのだ?」
「わたしはこの世界観と共に生きてきて、そしてこの世界観と共に去って行く」
「世界が、わたしの世界観の消滅を知る事も無く、構うことも無いならば・・・だったら、・・・」
「私だってこの世界の〝本当の姿〟がどうか?だなんて、気にする必要があるだろうか?」

  かくして、「本当の(客観)世界」と「あなたの世界観」とは、
     あなたの「肉体というつなぎ目」の消滅と共に離れていく・・・

もともと
「あなたの意識が作り出したフレーム」によって、「あなた」と「世界」とは接点を保ってきたのだ

きっと三島由紀夫は市ヶ谷の駐屯所で最後に自衛隊員に決起を叫んで、拒否された時
この〝接点〟を完全に失ったのだろう

 ・・・つまりそれを世間的に平たく言うなら「〝この〟世界に絶望した(見切りを付けた)」となる

           かれは〝自分の美学で彩られた〟世界観を抱いてこの世を去った

 現在もちろんこの物理世界は三島由紀夫が死んだ後も存続しているが
 三島本人からするならば、
  「自分自身の世界観と接点が切れた世界は存在しないに等しい」ということなのだろう


さて、もしこの「世界観のフレーム」がはじめから存在しなければ、どうなっていただらろうか?

はたして「フレーム=観念」なしで、
わたしたちは子供の様な純粋な目のまま、世界を見ることは出来ないのだろうか?

つまりそれが「不可知論~わたしは知らないと言うことを自覚している」ということだ

  通常、私たち人間はそんな風には生きてはいけない

わたしたちは世界の構造を「知って」いなければ生き延びられない
だからカエルやカメレオンがハエをぱくっと捕まえる動体視力を犠牲にしてまでも
一旦この三次元世界を脳内のマトリックスに変換し、マッピングして生きている

きのうまであの街の交差点に立っていた大きなビルディングが、
今日忽然と姿を消すこと何てまずあり得ない・・・  
だから私たちの脳内には、そのビルディングは昨日と同じく、今日も建っているのだ

でも現実とは瞬間瞬間変わっている・・・
そのもっとも端的な例が大規模な地震のような天変地異である

 ・・・3・11の様な事があった時、わたしたちは一瞬、眠りから覚める
  「昨日まであったあのビルディングが今日もあるとは限らないのだ」っと
                   ・・・(いやそれ遅すぎだろJK)

 本当は私たちの脳内にあるマトリックス=世界観など、大災害の前では紙細工なのだ
        ・・・・・単に〝確率論的に〟平和な日常は保証されているだけなのだ
人間も他の動物と同じく「スープの中に落ちているハエ」なのだけれど
人間は言葉と概念と三次元認識によって「スープの中に自分達の街を建設したハエ達」なのだ

こういった大地震などの時に、自分達も叉「スープの中に落ちているハエ」であることを思い出す

個人もいずれ死ぬし、国家が壊滅することも有り得るし、人間全体もまた全滅するかも知れない

ただし、「人類が滅亡した後のことを考えたってしゃあないじゃん」という意味では
三島由紀夫が言った「オレが死んだ後に世界は無い」というのは真実だ

ところが不思議なことに、この地球上で最強の生物であるはずの私たちだけが
「生と死のある世界」「有限な世界」に生きている・・・っということだ

もちろん言葉無き他の生物、他の動物たちの方が概して肉体的には短命だ

しかし、なぜ動物たちは澄んだ純真な目で生きているのだろうか?
なぜかれらのあどけない姿に私たちは心を洗われるのだろう?
はたして私たち人類は彼らよりも本当に幸福なのだろうか?

・・・そう考えてくると、
  この最強の文明の砦を築いた私たちの「世界観」が本当に「幸福」をもたらしたのか?

  疑わしくは無いだろうか?

わたしは、三島由紀夫が自決した理由と、世界の支配者階級が第三次世界大戦を起こそうと
いまだに諦めていない理由とには、共通点があるように思えてしかたがない

つまり、
「実際の世界」よりも「自分達の世界観の実現」を優先しているのではないか?という点でだ

そしてもっと恐ろしいこととは、彼らの世界観への固執(個室)とは
世界中の誰もが共通して持っているのじゃないか?という点だ

だれもが、自分の世界観のフレームを外せない
・・・でもそれは「人間であれば」当然の歴史的経緯がある
  ・・・だっていままで〝これ〟でわたしたちは「世界の王者」に君臨したのだから

  何が大事で、何が無価値で、何が「世界から消し去ってしまいたい邪魔もの」か?

  ・・・はたしてこんな色眼鏡を掛けていて、
    わたしたちは「愛する」ことなんて可能だろうか?
     新世界秩序NWOを企む者達を、わたしたちは非難出来るのだろうか?

この「世界観のフレーム」を外した時、わたしたちの意識はみなこの宇宙の「お母さん」になる

 この死すべき「世界観のフレーム」をわたしたちが放棄した時
 私たちの 肉体の死と共に、一体だれが、何が〝死ぬ〟というのだろうか?

   動物たちの愛くるしい純粋な目は、その答えを私たちに教えてくれているに違いない 

ワンコに生まれて良かった〜!
 


 自分の脳みそを中心に世界を認識しようとすると、
   そこには「男性原理的・不可知論」が待っている

つまり、

  「世の中にはあんな観点もあり、こんな観点もある」 

  「それを相対的な存在に過ぎないおのれの1個の脳みそ(観点)で
       〝真実はコレだ!〟なんて決めつけられるわけない・・・」 

人間型ゲシュタルト

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 世界は無限に広がっており、つまり無限の観点がある、そしてどの観点にも「光」がある
これはこれで「絶対に動かしがたい事実」に見える・・・

これが、「アイン・ソフ=無限」 「アイン・ソフ・アウル(あり得る)=無限光」だ

で、・・・ここに「位置の交換」を持ち込んでみる

つまり、「Who am  I?」という究極の問いを
「私は脳みそ」という観点では無く
「私とはあらゆる定義が不能な存在」だという、
いきなり結論「アイン:無」からスタートしてみる

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アンマニフェスト

するとここで自分の脳みそを超えた「女性原理的・不可知論」が浮上してくる

「男性原理的・不可知論」とは、
  基本的にあらゆる信念体系に染まることへの〝拒絶〟として表現されるが・・・、

「女性原理的・不可知論」とは、
  その正反対に他者のあらゆる信念体系への〝受容〟としてあらわれるのだ・・・

この時、
「自分の脳みそ」というのは「無限に沢山ある観点のひとつに過ぎない」という
率直な謙虚さであることは変わらないが、だからといって「男性原理的・不可知論」の
様に世界に対して孤立しない・・・
  「そう?そういう見方もあるのね?」という母性的な
   柔らかい他者への抱擁的な柔軟性があらわれてくるのだ

変換人型ゲシュタルト



「男性原理的・不可知論」のままだと、ジブンという中心の観点を
「何ものにも犯されない聖域として守り通さなければいけない」という
   防衛性が必要なのだ

  ・・・なにしろ、世界の中で「ジブンという脳みそはたったひとつだけ」だからだ

木枯らしの吹く孤高の「奥の細道」を歩く「彼」の姿は、求道者としての最終形態だろう
          ・・・誰にも同意出来ず、なにものにも妥協出来ず、所属出来ない

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ところが「女性原理的・不可知論」の場合は
「ジブンという脳みそ」は個人的肉体体験の単なる〝ポート:通信通路〟に
     過ぎないために、ここを過度に〝死守〟する必要が無くなるのだ

むしろ、 この五感ポートを充分に生かして
     沢山の他の観点と触れ合い、受け入れて、
     より完全な「観球」であろうとする


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つまり、「女性原理的・不可知論」に辿り着くと「男性原理的・不可知論」も自動的に生きてくる

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「男性原理的・不可知論」だけだと、アンマニフェストの「無限世界」とは、
「目指す先」として設定され、実際のところ「永遠に辿り着けない理想郷」で
  終わってしまう・・・

    ・・・すべての断定を拒んだ「認識の孤島」として運命付けられてしまう

ところが「女性原理的・不可知論」は
そのスタートラインは「無~無限であること」で始まる、
      いきなり「ゴール」から始まることになる・・・

「奥の細道」を延々と歩き続けてきたハーミットが、
突如「古池に飛び込む蛙」になるのだ・・・・



「世界即吾」というのを体感体得する・・・全知全能?だなんて
「いやいや・・・ そんなのムリゲーだよね~」ということではなく、
またそんな必要性もない・・・

  ただ、その観点・・・つまり〝球体の面としての集合点〟を
         ・・・実際に試してみれば良いだけなのだ

・・・なにも「幽体離脱」とかしなくてもいい 「神」「超人」にならなくてもいい
                単に「そういうものの見方」を試してみるだけだ

確かに・・・
  「全知全能の視点で見てご覧なさい・・・」それはムリゲーだろう

その逆だ・・・
  「ぼく~は何にも~知らないけれど~」という
    フロ上がりの様な呑気なバックグラウンドで世界を観るのだ・・・

なぜこんな「カンタン」なことがいままで不可能に見えたのか?と言えば
「男性原理的・不可知論」の立場から見れば、
「世界観が固定している視野狭窄な人達」が傲慢に見えるからである
       「そういうひとたちと妥協するわけにはいかない」という・・・
                〝頑なになりたくないという頑なさ〟が
                 「男性原理的・不可知論」には残り続けるのだ

なおかつ、
  「自分自身は全知全能ではあり得ない」という拒絶感(遠慮?)が
   「女性原理的・不可知論」の「観球」の不可能性を誇張させてしまうのだ
なぜここまでしつこく〝~的・不可知論〟と付加して記述きたのか?
その理由はここにある

つまり「不可知を自覚している」とはソクラテスの言う「無知の自覚」なのであり
この自覚のためにまったく〝全知全能〟である必要は無いからだ!

それははじめ「観点」という実に心細い「知覚の孤島」としてはじまるが
 その〝無条件さ〟ゆえにこの〝点〟は長さや面積や体積を持つことも出来る

あなたは「自分の脳みそ」という「一点のアイデンティティー」から
            今すぐ飛翔することが可能 なのだ

・・・簡単に言えば〝無〟であることとは変化自在であることなのだから
       あなたはいますぐ「わたしは〝無〟です!」と宣言出来る

      その為の神秘体験も学科試験も、実地テストも要らない
  「知る」ことではなく「知らない」ことが自由なのだから・・・・
          (by クリシュナムルティー)

          〝無条件さ〟そのものが〝無〟であることなのだ
   たったひとつの条件とは「私は知り得ない」ことに気が付いているだけだ


宗教観、政治観、金銭感覚・・・・
確かに多くの人達が自分の観点(こころの殻)にしがみついている・・・

「それ(イデオロギー的対立)ゆえに地球が滅び掛かっている」
といっても決しておおげさではない

「考え方が違う人をみんな認めなくなってきた」(岩井俊二監督)

でもそれはそれで、「人々の成長にはまだ必要なプロセスなのだ」と赦せるかどうか?

  ・・・そこに「カエルが古池に飛び込めるか?」のすべてがかかってくる

〝無〟の「何ものにも染まらない」というピュアリティーを男性原理として世界を見渡すと

 「オレ達は知っている」とうぬぼれた〝自称賢者達〟が
 他者を罵倒して、あるいは手段として扱い、
皆殺しにしようとさえする姿には憤りを覚える・・・

  「オレ達は世界の危機的現状を判っているのだ」と、賢人会議を開いたり、
      デモ行進している人達のその暴力性、セクト主義の傲慢さに呆れる

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しかし〝無〟は反転すると〝無限のキャパシティー〟へと開花する
 ・・・それは女性原理だ

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本当の意味での「いまここ」とは、肉眼で見えるものだけのことではなく
むしろ目をつむって自分の胸にそっと手を置き、自問自答した中にあらわれてくる

それは瞬間を切り取って
「目に見えている現状=観点」で、
すべてを断定してしまうことではなく
母性的な〝間(ま)=広がり、ふくらみ〟によって、
心眼で、ものごとを許容的に見なければ、見えてこない真実もある

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孤高のケンシロウにもっとも必要なのはやはり慈母星の「ユリア」なのだ
北斗の拳で、南斗最後の将がユリアなのは何故ですか?リュウガが兄なのに、、.

     そこで〝無〟なる〝わたし〟は孤立すること無く、
       無限に多様な、色んな〝あなた〟と交わることが出来、
              そこに無限の光(理解力)が誕生するのだ


  ただしそこには〝無限の忍耐〟が要求されるのだけれど・・・
 ・・・でもそこに〝無限の謙虚さ〟さえあれば、どうということはない
    それは、「わたしは知り得ない存在である」という自覚があれば自然と得られる

         あなたは、一体何について、「完全に知っている」と言えるだろう?

 そしてあなたは気が付くだろう、

    もし、「全知全能なる神」がこの宇宙の中心にいるとしたならば

〝彼〟こそが
日本の天皇陛下と同じように「世界一不自由な存在」であることを・・・・

行く先々に
 〝未知〟が存在しない、驚きがない、発見がない事ほど、退屈な事があるだろうか?

行く先々が全て「予定通り」「スケジュールでギッシリ」
  「遊び(知らないこと)が無い」状態を・・・
                      ・・・私たちは想像してみるべきだ

・・・・「全知全能の神」
    「大宇宙の完璧な支配者、責任者、完成者、コーディネーター」とは
         まったく新規創造の余地がない、大宇宙の生け贄なのだ

新しく「知れば知る程」、人は「高慢なバカになる」
             ハトヤの「三段逆スライド方式」である

・・・その通り!  未知とは〝空白(ブランク)〟であり、
         これが大きいほど、人は自由になる

自由であることとは、「傲慢な人々の巻き添えを食って破滅する運命」さえも甘受し、
                    その未知のスリルをも楽しむことなのだ 

あなたがもし「永遠の時間と無限の可能性」を得たなら、何をしたいだろうか?

わたしは20代のニート・引き籠もり状態だった時、
ずっと考えあぐねていたのは「自分は何をしたいのか?」であった

あくまでも私的な話なので、
そのことはこのブログの古い記事で何度か書いているけど
 誰に対しても普遍的に当てはまるとは限らないので、
 そもそもブログで公表することじゃないかも知れない

しかし、もしこれを読んでくれているあなたも
同じように悩んでいるならば参考になるかも知れない


結論から言うならば、この答えは瞬間瞬間に変わる

  ・・・ある瞬間は、「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」だろう

   ・・・叉ある瞬間は 「ピクニックに出かけたい」「そうだ、京都行こう」だろう

     だから、その問いとはある意味でずっと続く

わたしがどんな仕事も長続きせず、自分を責め、
自分の本当の望みを自問自答していた若かった頃、〝若さ〟とは可能性が溢れていた

  可能性とは「選択肢の多さ」でもあったがゆえ、53歳の今のオッサンの私には
  当時の私とは、実は「贅沢な悩み」を抱えていたのだと判る

当時の私が探していたのは
「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」という、即物的な答えじゃ無かった

もっと、恒久的な、耐用年数がある、普遍的な答えだった

         ・・・・そしてその答えとは「無為~なにもしたくない」だった

ところが「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」というのもまた〝無為〟だった
〝無為〟と〝行為〟とは表裏一体なのだ

つまり探していた〝答え〟はあまりにも目の前にあったから、若い私が遠くの地平線に
憧れの異国の地にある〝理想郷〟を探して目をこらしても見つからなかったのだ

だからこれは〝気付き〟だった

ではなぜこの〝気付き〟に留まれなかったのか?と言えば、
「やはり人生には長期的な理想が必要なのじゃ無いか?」という疑問があったからだ
    ・・・また「人生の選択肢の多さ」が、わたしを「迷いの世界」に連れ戻したのだ

   「永遠の時間と無限の可能性」・・・こう書くとまるで無限の選択肢があるように見える
                  いや、事実あるのだろう

                   しかし、「迷い」とは「贅沢な選択肢」から来る
                    そして「贅沢さ」とは「欲望」から来る

                    ひとは「欲」を充たすことは出来るが
                    「欲望」には際限が無い
                    それゆえに「葛藤」にも際限が無い


  「永遠の時間と無限の可能性」とは、人々を 「望~いつかどこか」へと彷徨わせもすれば
                      「欲~いまここ」へと寛がせもする

  「抱えきれないほどの贅沢さ」は、ひとを狂気にも貶めるし、静かな幸福にも充たしてくれる

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「人生の長期的展望」が必要なのは、「人生が〝有限だ〟」という前提で必要不可欠なのだ
タイムリミットとは、「選択の重要性」を強調し、人々に選択を強要する

人生が有限だと言うことになれば、人々は先を争い、奪い合い、狂気に駆られる

しかし
誰もが「抱えきれないほどの幸福」を好きなだけ得られると判ったなら「奪い合う」だろうか?

確かに瞬間瞬間の選択は、生きている以上常にあるだろう、瞬間瞬間・・・
しかし、もしそこに
「せっつく有限性、欠乏性」がないならば、全ての選択は優雅で、深刻さとは無縁だ

「一パック100円のタマゴ、タイムセール」の為にスーパーマッケットに駆けだしていくことで、
人生の無限の可能性を投げ出すのだとしたら、いささか「割が悪い選択」なのでは無いか?

「自分の本当にやりたいこと」を探しあぐねていた若い頃を
いま思い出すと面白いことに気が付く

なんとはなく「こんな風になってると良いなあ~」と憧れていたことが叶っているのだ

それほど遮二無二「そっち」に向かっていったわけでは無かった
でも誰かや何かとの運命的な出会いが、結局のところ「そっち」に向かわせてくれたのだ

結局のところ「長期計画」は私の場合は必要なかった
    わたしはそういう〝ガラ〟ではなかったのだろう
    きっと私は〝ガラにもない〟長期計画などを立てようとしたから苦しんでいたのだ

                 ・・・誰にでも当てはまる法則じゃ無いかも知れない
「行動と行為のデリケートな違い」

part 1:するということの病気

 はじめに、
 「行動」の本質と、そこに隠された傾向を理解しなくてはならない。
 そうでなければどんなリラクゼーションも不可能だ。

 いくらあなたがそうしたいと思っても、
 自分の行動の本質を観察し、よく見て、
 本当に理解したことがなければ、リラックスすることはできないだろう。
 というのも、行動というのは単純な現象ではないからだ。
 
 多くの人がリラックスしたいと思っていて、リラックスできないでいる。
 リラクゼーションは花が開くようなもの、それを強要することはできない。

 あなたはその現象全体を理解しなくてはならない。

 ――なぜあなたはそんなに行動的なのか?、
    それほどまでに行動でいっぱいになっているのか、
            それにとり憑かれているのか。
 
  二つの言葉を覚えておきなさ い。

 ひとつは「行為」、もうひとつは「行動」。
 行為は行動ではないし、行動は行為ではない。
        その性質はまったく正反対だ。
 
 行為というのは、
  状況がそれを必要とした時に、あなたはそれを行うる、対応するということ。
 
 行動というのは
  状況にかかわりなく、対応でもない。
  あなたは内側は、とても落ち着きがないので、
  その状況は行動のための単なる口実にすぎないのだ。
 
 行為は静かなマインドからやってくる。
  ――それは世のなかで、もっともビューティフルなものだ。

 行動は落ち着きのないマインドからやってくる。
   ――それはもっとも、見難い。
 
 もっと行為するようにしなさい、そして行動がひとりでに落ちていくに任せなさい。
 変容はやがてやって くる。それには時間がかかるし、適当な時期というのもある。

 しかし急ぐ必要もない。
 
 さてあなたはもう、リラクゼーションの意味するところが理解できるだろう。
 それは、あなたの中に行動への衝動がない、ということだ。

 リラクゼーションは、 死人のように横たわっていることではない。
 それに、死人のように横たわることなどできない、ただそのふりができるだけ。

 死人のように横たわるなんて、どう やってできる? 
 あなたは生きているのだ、ただそのふりができるだけだ。

 リラクゼーションは、あなたに行動への衝動がまったくない時にやってくる。
 エネル ギーは落ち着いていて、どこへ向かっても動いていない。
 
 ある状況が起こればあなたは対応する、ただそれだけだ。
 けれどもあなたは、行動するための口実を探しているのではない。
 あなたは自分自身に寛いでいる。リラクゼーションとは落ち着いていることだ。
 
 リラクゼーションとは身体だけのことではない、マインドだけのことではない。
                それはあなたの全存在に係わることだ。
 
part 2:リラクゼーションへの変容
 
 リラク ゼーションというのは、この瞬間で満ち足りていること、
 それ以上に何かを求めたり望んだりすることなどできないことだ。
 
 何も求めるものはない、すでに充分すぎる、これ以上望むことなどできない。
 するとエネルギーはどこへも動いていかず、穏やかな水のプールになる。
 自分自身のエネルギーの中で、あなたは溶け ていく。
 
 この瞬間がリラクゼーションだ。
 リラクゼーションは身体のものでもマインドのものでもない。
 リラクゼーションはトータルなものだ。
 
 それでブッダた ちは言い続ける、「無欲になりなさい」、と。

 というのも、
 もし欲望があったなら、
 あなたはリラックスできないということを彼等は知っているからだ。
 
 リラクゼーションとは姿勢ではない。
 リラクゼーションはあなたのエネルギー全体の変容だ。
 
 Osho, Tantra: The Supreme Understanding, #4 より抜粋

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