We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: 無の定義

つい先日の記事

七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
 - 完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
  完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権 - と書いたけれど・・・

        ・・・・この〝完全な自己責任〟に辿り着くのは、非常に難しいことだ
             「外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。」
                           とOSHOは言っている・・・

                だが
                「これこそカルマの理論のすべて」だともOSHOは言う

            因縁果報の「因果律(科学的思考)」だけに目が奪われると、
                 私たちは「原因と結果」だけを追いかけることになる

ところが、
本当の原因とは必ずしも「見えるところだけ」「記憶しているところだけ」にあるとは限らない

          ・・・・すると「不当な仕打ちを受けた」と私たちの〝理性〟は判断する

ところが、  「縁(えん=因に引き寄せられた人間関係や状況)」によって
        機械的に見える因果律への「報い方、報われ方(応報)」は大きく変わる

     バシャールも再三言っているように「起きていること(いまある結果)は常に中立」だ
      そこから如何なるメッセージ「吉報、凶報」を受け止めるかは、解釈次第だ・・・

痛みや苦しみをも、祝福できる
・・・

         ・・・なぜなら、すべては「バランスを取ろうとして」起きていることだからだ
               決してヤセガマンや作り笑いをしろという意味では無い
               「マゾヒスティックな歓び」で自分を虐げろと言うことでも無い

斉藤一人が、
「凄く困ったことが起きたなら、ツいてるな~(素晴らしい機会が来た)と思いなさい」
                   と言っているのは多分このあたりだ

特に商売をしている人などは、こういった「トラブル、苦情、追い詰められた状況」そのものに
いままででは思いつかなかった素晴らしいビジネスチャンスが隠れていると知っているからだ

現在多くの企業が、クレームの内容とその処理方法を「ビジネスチャンスの宝庫」と捉えている

そしてこれは健康のことでも言える

病気の症状や怪我そのものは
突発的に突然表面化したように見えるが
実際には、「突然起きる」ことなどないのだ・・・

・・・往々にして、長い長い身体への無理が症状や怪我などに噴出しただけだ

まだ何も見えていなくとも、まずは「あ!ツいてるぞ!」と吉祥と捉える・・・
・・・一見マゾヒスティックな馬鹿げた対応だけれど、
これによって
  <困って焦って視野狭窄に陥って、いわゆるパニックを起こす> ことなく
                 リラックスした視点で物事が見えてくる

 ・・・そして「結果から原因へと」因果律を遡って原因に働きかけることが可能になるわけだ


カルマとは、
即物的な、機械的な、ターミネーターみたいな反応を繰り返していることによって起きる・・・
機械とは、そこに意識的な立ち会いがなく、〝科学的な〟因果律だけで動くカラクリ仕掛けだ

ターミネーター「体験」

それはそれで「何も間違ってはいない」・・・血の通わない機械的法則がそこにある

 ・・・その「正しさ」にあぐらを掻いた時、私たちは「間違い」を繰り返す
           ・・・針の飛ぶアナログレコード(古い例えだ)のように延々と繰り返す

そこで、(ひょっとしたら前世から、あるいはご先祖様から)
「延々と繰り返し続けたプログラム」を書き換えられるのは、 ・・・・意識的な人間だけなのだ

OSHO Japanese

OSHO : 責任/responsibility

 「人は自分のまいた種を刈り取らねばならない」
ということわざがある。

自分が惨めなのだとしたら、
それは惨めさの種をまいたにほかならない。
ほかの誰かがあなたを惨めにしたわけではない。

もちろんまくことと刈り取ることのあいだには大きな隔たりがあるので、
その隔たりゆえに私たちは誰かに責任があるのだと考える。

その大きな隔たりが私たちの目を欺く。

 私たちは数多くの過去生において、
自分が自分自身に何をしてきたのかを知らないので、
急に何かを刈り取らなければならなくなって、
それがどこから来ているのかわからないとき、
外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。

それを見つけられないとなると、
私たちは何かをでっちあげる。

だが、これこそカルマの理論のすべてであり、
私たちは自分がまいた種を刈り取っている。

 自らの人生のすべての責任を引き受けなさい。
もしそれが醜いのなら、その責任を感じなさい。
それが苦悩にほかならないのなら、
その責任を取りなさい。

最初のうちは「自分が自らの地獄をつくりだしている」
ということを受け入れるのは難しいだろう……

だが、それも初めのうちだけだ。
 じきに変容の扉が開きはじめる。
なぜなら、

    自らの地獄に責任があるのが自分なら、
    自らの天国をつくりだすこともできるはずだからだ。

自分が自分のために
これほどの苦悩をつくりだしたのなら、
私は多くの歓喜をつくりだすこともできる。
責任は自由をもたらす、責任は創造性をもたらす。
 
 自分のいまの状態は自分自身がつくりだしたものだと見抜くとき、
 あなたはすべての外側の原因と状況から解き放たれる。

いまやそれは自分しだいだ。
美しい歌を歌区こともできるし、
美しいダンスを踊ることもできるし、
祝祭の生を生きることもできるし、
あなたの生を絶えざる祭りにもなる。
誰もそれをじゃますることはできない。

これが人間の尊厳だ。
神は<個>を大いに尊重する。
人は自らの責任を自らの肩に担ったときに、初めて<個>になる。

scriptures in silence and sermons in stone

OSHO Japaneseさんの写真

このブログは不特定多数への読者「あなた」への語りかけを想定することで
実際には「あなた」というもうひとりの自分との対話形式の日記である

もちろん実際読んでくれる人がいた方が嬉しいし感謝している
だから、自分の思い通りに書くことを柱にしつつも
やはり「未来の自分」が読み返した時に判りやすく今の気持ちを思い出すためにも
それが、「なるべく、読みやすく判りやすく書きたい」という動機にも成っている

ここ最近、「所属」「習う」ということがテーマでいろいろ思考が来ていた

そこでイモズル式にテーマになる事が「家族愛」だった

昨夜入った定食屋ではNHKの「ファミリー・ヒストリー」という番組が流れていた
昨夜の回は壇蜜に焦点を当てて、彼女の先祖をたぐっていた

運ばれてきた晩飯をモグモグしながら番組を見た・・・
手塚治虫を連想する様な風貌の、まじめそうだがどこか寂しげな壇蜜の祖父・・・

・・・彼の「家族縁の薄い寂しい人生」が、私の弟が生まれた昭和40年頃に、
まだ若干40歳で糖尿病によって終わるところで、私の夕食は終わり、店を出た

あの番組を見ていると、まるで私の先祖までが私に何かを訴えようとしているかのように感じた
もちろん私の先祖も、私に解って欲しい〝想い〟がきっと山ほどあるだろうな・・・・

人にはきっと誰にもあるだろう・・・
現代に生きる私たちにまで命のリレーをバトンタッチしてきたまでの「先祖達の想い」が・・・

そういう番組を作るあたり、やっぱりNHKの様な存在は必要なのかも知れない
きっと局内でも壮絶な派閥抗争がある中での番組編成なのではないだろうか?

物事というのは何か一面を見ただけでスパッと切り落とせるような単純なものじゃないな
・・・・こんな番組を見せつけられると改めて思う

「人に歴史有り」で、
私たちの人生の中に濃縮されて秘められた先祖達の想いも叉そうなのだろう

壇蜜は番組の冒頭で言っていた
「自分が生きてきた上でさまざまな決断をしなければ行けなかった」
「その決断一つ一つにご先祖様のバックグラウンドがあるのではないか知りたかった」

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船瀬図書館


「知りたくも無い」と意図的に振り払いはしない
しかし、ここには一つの大きな分かれ道がある・・・・

OSHOの発言に関して、一つのことは同意出来るが、もう一つのことは同意しかねる・・・

ひとつは「宗教や政治結社、あるいは男女という社会の最小単位としての〝結婚制度〟」
と言う組織化の問題だ・・・

これに関してはOSHOの発言に諸手を挙げて賛成だ
  ・・・人々が「所属」によって蹂躙され、アイデンティティーまで捧げることには反対だ
もうひとつは「産まれた子供はコミューンが責任を負えば良い」
と言う点だ・・・

これに関してはOSHOの発言に〝反対〟だ・・・というか、とにかく〝従えない〟

         ・・・わたしにとっては「社会的制度所属」も「宗教的コミューン」も
                  結局の処、「他人の寄せ集め」で、・・・違いは無い

(これはわたしがとうとうテイク・サニヤス出来なかったことと〝たぶん〟関連しているだろう)

わたしは20代の頃、サニヤシン達ともいろいろ一緒に暮らしてみたし
それなりに楽しい思い出ではあった・・・、

   ・・・・しかし結局のところ、他人との共同生活には持続性は無かった

  それともコミューンの中で血を分けた子供が産まれたなら〝別〟なのだろうか?
   しかしそれはあまりにも無責任で無謀な生体実験にしか思えない  ・・・・いまは

昨夜の壇蜜のファミリー・ヒストリーでも、老人ホームの中の生き証人が何人か出ていた・・・
あのおばあちゃん達から語られた「血の熱いストーリー」は、もうあの老人施設の
冷たいコンクリートの壁の中で消えかかっていた

いま、何が人と人とを結ぶのだろうか?  ・・・〝血脈〟? ・・・〝宗教的ヴィジョン〟?

昨夜の番組は素晴らしかったが、やはり所詮はどこか〝他人事〟の空虚さも感じる

なるほど掘り起こせば、私の血の中にも様々なヒストリーが埋まっているのかも知れない
でも、「あんなことと、こんなこと・・・」それを抱きしめるような感情というのは、「この世」に
〝失いたくないもの〟がある場合だけだ

結局のところわたしにはまだ、OSHOが言うところの「愛」は判っていないのかもしれない

 ・・・私は今だ父親譲りの「人生への冷淡さ、皮肉性」は、消えては居ない

   ・・・ではなぜ、父は私という「自分の血液のコピーの存続」を願ったのか?

    ・・・それは「愛」だったのか? 
       それとも単なる「社会制度と習慣への無意識な従属」だったのか?

        父は生涯一度だけ「お前の幸せを願っている」とぽつりと言ってくれた
         別にその言葉は疑ってはいない

         かといって「人生最大の不覚としての結婚」が癌で悶え死んだ父の
                          人生最後の言葉だった・・・・

                 ・・・その結果、わたしという存在がぽつねんと残された

   つまり皮肉なものである・・・  〝結婚制度〟によって生まれた私は
                 〝結婚制度〟を遂には憎むようになってしまった・・・

     そして〝結婚制度~社会的公認の無意識な男女のセックス制度〟というのは
                わたしにとっては「父の敵でござる」ということになる

    わたしはこの〝仇討ち〟を、はたして・・・・どの様にすればいいのだろうか?

途中の経過はわたし自身にも未だ判らない ・・・しかし〝結果〟は多分こういうことになるだろう

               「わたし自身の〝消滅〟・・・・」

                       そして誰も居なくなった

十牛図

cow-s01
一.尋牛(じんぎゅう)
イエソド:対応天体=月
自己分裂、デュアリティー
「今以外の他の自分が有るのでは無いか?」
「いまここ」から離れた「いつかどこか」の探求の始まり

cow-s02
二.見跡(けんじゃく)
ホド:対応天体=水星
牛の実物はまだ観ていないが理論的には判りはじめる
いまだ「学友」「組織」「神秘」を探している状態・・・ 「お勉強」「研究思索」、情報共有、議論
明晰さへの過信

cow-s03
三.見牛(けんぎゅう)
ネツァーク:対応天体=金星
初めて牛の実物を見る(まだ触れては居ない)、目撃、実証、実感、
しかしここから知的な共有は難しくなる・・・ 憧れ、熱情、本能的な導き・・・

cow-s04
四.得牛(とくぎゅう)
ゲブラー:対応天体=火星
牛との綱引き、挑戦、集中、近視眼的、真剣さ(深刻さ)
孤独な闘い、誰にも同意出来ない、誰にも同意を求められず、期待も出来ない
理論を超えた実践、失敗体験、傷つくこと、産みの苦しみ、血と汗と涙で学ぶ

cow-s05
五.牧牛(ぼくご)
ケセド:対応天体=木星
リラックス、楽観、包括的視点、ヒント、気付き、天佑・・・
友情、信頼の芽生え、気長な視点、意外なアイディア

cow-s06
六.騎牛帰家(きぎゅうきか)
ティファレト:対応天体=太陽
自己受容と同時に起きる世界への信頼と愛、すべてがぴったりであること、ハートの開花・・・
「わたしはあなた、あなたはわたし」~牛と人との一体感
ただし、いまだ自意識に囚われた独善世界

cow-s07
七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
ビナー:対応天体=土星
責任、限定、尊厳、熟練研磨、物事の基礎、母体・・・時空間
「牛=客体」の消失、Aloness「天上天下唯我独尊」 「わたしは在る」
完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権

cow-s08
八.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
コクマー:対応天体=天王星 「世界も私も無い」全ての定義を持たない
直感的で自由な発想、理想、エレクトロニクス、天衣無縫、反逆・・・
「牛」・・・外側の存在が無くなると、内側と外側とを隔てる境界線も無くなる
「人牛~主体と客体」双方が消失した時、「無」「無限」を垣間見る

cow-s09
九.返本還源(へんぽんげんげん)
ケテル:対応天体=海王星
「すべては定義無く、ただただ存在している」
無限の海、波動の世界、不可視なる価値~非顕現世界とのポート、
あるがままのものをそのままに見る
何の先入観も定義も無く世界を見渡すと、瞬間的に映し出されたホログラム映像である
日常の平凡な瞬間瞬間の光景に「生と死」があり、永遠の新鮮さが宿る

cow-s10
十.入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)
マルクト:対応天体=地球
日々の日常の中に神聖さを見いだすことによって
日々の出会いの中に一期一会を伝えていく  ・・・グランディング
作意を持って伝えようとするのでは無く
気負いのない虚心坦懐さのなかで「起こるべき事」が起きてゆく
「世はおしなべて事も為し」「天下太平、晴れたり曇ったり・・・・」

以上、イエソドから出発してパスを昇っていきケテルを頂点とし、

そしてマルクト(日常世界)に戻る・・・


途中、「得牛」「牧牛」のあと、後戻りする感じで「騎牛帰家」となるが

生命の樹の中心、ティファレトの「騎牛帰家」を「人と牛との出会い」と考えず
「男女の結婚」と考えるならば、
「得牛」で恋人同士がぶつかり合ったり
「牧牛」で恋人同士が和解した後に「騎牛帰家」で和合という流れもあるし
あるいは、「騎牛帰家」で「お見合い結婚したあと」ぶつかり合いや和解があったりというのも
流れとしては「あり」じゃないだろうか?

つまり
「騎牛帰家」が〝前〟ならば既成事実として意気投合した後に関係性を深めていく

「騎牛帰家」が〝後〟ならば関係性を深めていった結果として結ばれていくということ

そもそも
「縁ありき」で「理解を深め合う」のか?
「理解を深め合っていく」ウチに「縁を感じて結ばれる」のか?  単純な因果律では語れない

これはある意味では「人と牛」といった、一見対等に見えないような関係においても同じ

一見明瞭な「因果律」が見いだせるのは
「一.尋牛(じんぎゅう)」から「三.見牛(けんぎゅう)」まで・・・

カバラで言う「アンマニフェスト:非顕現世界」とは私たちの意識の三つの状態と対応している

〝無〟~アイン

実はこれこそが完全な覚醒状態だ
世界が消えてなくなってしまっているのでは無く
わたしたちの「思い込み」「定義」「世界観」「既成概念」がすべて消し飛んでいる意識状態

私たちの日常においては
外界のあらゆるドタバタ劇に気が煩わされず、振り回されていない寛いだ状態
何ものにも囚われていない深い瞑想(くつろいだ)状態

夢を見ない睡眠状態も〝無〟なのだが、
わたしたちは既成概念のスイッチを切って純粋に状況に立ち会うことが出来ず
「無とは何も無い事だ」と深く思い込んでいる為に意識も昏睡状態に陥ってしまい
いわゆるブラック・アウト~気絶してしまうため、
意識はその状態に全く「立ち会って」おらず、記憶が無い
〝無限〟~アイン・ソフ

私たちの日常においては、いわゆる就寝中の夢を見ている状態
空想(イマジネーション)に耽っている状態、夢を膨らませ、
とりとめが無い連想、妄想のまま漂っている状態

ここでは全く既成概念が支配的で無いない為に・・・・

  知人がまったく違った顔かたちで登場しても
  また、その人がみるみるカバに変身しても
  さらにそのカバに唐突に羽が生えて空に飛び去っても・・・

・・・私たちは疑問も抱くこと無く、
   その「飛び去っていくカバ」を何の疑問も抱かずに見送っている
〝無限光〟~アイン・ソフ・アウル

私たちの日常における、いわゆる起床中の日常的な活動状態意識

わたしたちは自覚としては、起床中を覚醒状態だと思い込んでいるが
実際には何かの思いつき、期待、不安や葛藤、恐怖に取り憑かれていて
それらは過去の記憶や未来への憶測を前提として起因している

本当は私たちは起床中でも白昼夢を見ていて、
自分の都合で「見たい」と思って引き寄せ、抽出した現実しか見ておらず
その自分勝手なフィルタリングさえ自覚していない

・・・つまり、〝あるがままの現実〟を見ては居ないのだが
白日の光が見せる明瞭な輪郭のある〝この〟クリアーな世界・・・
他人との意思疎通している「いかにもわかり合えているかのような」コミュニケーションの成立が
「本当は自分はいま夢を見ているのでは?」という目覚めへの疑惑を強烈に疎外している

  私たちは今、あまりにも〝もっともらしい〟情報の洪水に囲まれた・・・
   ・・・いわゆる「ウルトラ開きメクラ状態」なのだが、
       それを自覚することが大変困難な、  ・・・厄介な牢獄にいる

「自分は自由なんだ」「自分は自由に何でも選べる」「自分達は目覚めている」
という幻想こそが最大の「心の牢獄」なのだ

(しかしこの牢獄にぶち込んだのは「誰だよ?」と問うなら、それは他ならぬ「自分自身」ということになるのだが・・・)

「開きメクラ状態」である無限光よりも、睡眠時のトランス状態で「夢見ている」無限の状態の方が
本当は観念的囚われが少なく「完全なる覚醒~〝無〟」に近いために、バシャールは・・・

・・・・「あなたたちの〝夢と現実〟の定義は、私たち(ササニ人)と正反対です」
                                        と言っているわけだ

この無限光=「全ては明瞭だという思い込みの夢」が描き出すホログラムの三次元世界が
「生命の樹」という「迷いと覚醒のRPGゲーム大系」の樹形図へと整理されたと理解すれば
生命の樹はグッと解明しやすくなると思う
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「無」「無限」「無限光」

アンマニフェスト(顕現せざる世界)の三態が理解出来ると、大まかなことは判ってくる

  「無とは何か?」

  「え?無って何も『無い』事じゃん?」

  ・・・この思考停止こそ  ・・・つまりアンマニフェストに対する洞察の放棄こそが
     私たちの停滞の根本原因だと、ここで何度も書いた

「無の探求」とは、基本的に日本の禅宗の使命だった

ところが日本の仏教全体が単純な葬式仏教に陥ってしまい、
禅の修行もまた単なるシゴキのメッカに成り果ててしまった為に、
ここで「無の探求」そのものも足踏みして終わっている

「無」とは本来「禅」そのものであり、「わたしとは何?」という解答そのものだ

それが単純な「不在」であるとか、「無念無想」というのを格好だけそう振る舞って、
実際は単なる思考停止状態に陥っている・・・・

「ニッポンジンは形式が大好き・・・」という特性が見事に裏目に出てしまっているのだ

「無」が、「あらゆる定義の除外」であると判ってくると、「無限」も自動的に判る

「あらゆる定義から解放される」ことによって
「あらゆる存在事物は無限の可能性を開花させる・・・」

ところがただそれだけだと、「明瞭さがない」為にそこに「光」がもたらされる

「無限」の中にすでに「光」は存在していても、それを「意識」しなければ「明瞭さ」は得られない
だから「無限光」とは即ち、私たちひとりひとりの「意識」そのもののことだ

通常「光」とは「閃光:スパーク」に過ぎず、一過性のものだ・・・

ではなぜ「無限光」が可能なのか?といえば
「無限(のエネルギー)」がバックグラウンドの母体として存在するからだ

  ・・・それゆえに「連続した光」「永遠に連続するスパーク現象」が可能なのだけれど
    でも、ここで留意しなければいけないのは、
     あくまでも「光の本質」は一過性のものであることは「別に変わらないよ?」ということだ

「発光」とはあくまでも瞬間的な現象に過ぎず、
粒子性の物体の様にジーーーっとそこに安定して居続けるわけでは無い

しかし「無限なる、無尽蔵なる燃料」があるならば、
それはまるで時間的には「点」ではなく「線」的な実体を持っているかの様に見える

さらには「光」はその放射性によって「面」や「立体」の世界も描きだす

・・・しかし、元はと言えば瞬間的な「点」の現象だ

何かが「在る」とは点灯の状態で、「無い」とは点滅の状態だ

この両者には本来は本質的には単なる「状態の変化」だけで、スイッチのオン・オフに過ぎない
この「あらゆる可能性のスイッチ」こそが「無限」である

つまり私たちが日常で体験しているマニフェスト(顕現世界)世界での「無い~不在」とは
根本的な「無(む)」とは別物の表層的な「光のスイッチのオフ」に過ぎない

・・・ここで強調したいことは
   「探求する意識」がないならば「探求される対象」も当然あるわけが無い

    っという、至極当然のことである

   つまり、あなたが何をどう見なすかによって、その対象が姿形を変えているということだ

物理学というのは「もののことわり」を考える学問な訳だけれど、この大前提として
「観察者である人間だけが生き物であり意思を持っていて、観察対象はみんな意思のない物体だ」
というのがある・・・

「探求する意識」なんぞ存在しなくても、そのまえから「無」は「在りて在るもの」であり
したがって「無限」もあれば「無限光」もすでに存在している

・・・にもかかわらず、「宇宙は無い」っと、量子力学で証明されたというのは傲慢なのだ

   つまり、「観察対象~森羅万象も全て生きていて知性があり、意思も持っている」ならば
   わたしたちはまず「かくれんぼ」をしていると言う可能性を考えなければいけない

   あなたが猫の存在を確認する、
   で、あなたはシュレディンガーのガス室に、その嫌がる猫を突っ込む
   そして一旦目をつむり「10数えて」いる間にも、猫は危険を察知して脱出を試みるかも知れない

バシャールは、この三次元世界は十億分の一秒ごとに書き換えられていると言っているが
あなたが何かを「見て」、そして目をそらし、もう一度同じ方向を見ても、同じ世界は見ることはない

でも実験結果に不確定性があるからといって「何も無い」と言い張るのはおかしな話で
実際にはめまぐるしく変化している〝何か〟があるのだ

「観測不能なもの」をすなわち「存在しない」という断定は・・・、

    ・・・いわゆる昔からの
「科学者のもっとも非科学的な」ヘンテコリンというかサンへドリンな姿勢から出てきている

「観測出来ないから・・・な~いんです~!」っておまえら、神かよ?って言いたい
未だ空間の正体も分かっていないのに・・・・

あらゆる怪奇現象を「プラズマで説明出来る」かもしれない
でも、「説明出来る」というのは単なるひとつの仮説に過ぎず、別の可能性が有るかも知れない
なにげ無い当たり前の空間の見えない向こう側に「無限の世界」が広がっているのかも知れない
「私達の潜在意識には、自分を死ぬ程ビックリさせようと企んでいるもうひとりの自分がいる」
ライアル・ワトソン「生命潮流」より
no title

シュレディンガーの猫が「生きている」か?「死んでいるか?」
その両方の状態が共存している可能性をわたしたちはどうしても想像できないが
本当は「ガス室の扉を開けていたら猫は犬に化けていた・・・」とか「猫が消えていなくなっていた・・・」

  ・・・そんなバナナ事が起こり得るのが、「無限世界」だ

あなたが他の女性を脇見をしている時、あなたとデート中の彼女はあなたの視線に気がつき
今まであなたが見たことも無い凄まじい形相であなたを睨んでいるかも知れない・・・

あなたは永久に目撃することは無いかも知れないが・・・

  ・・・なんだってありえる

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それは「多次元世界」とかそんな大層な話なんじゃない、いま、この日常の中でのことだ!!
わたしたちが生きているこの現実とは本当は壮大な・・・
「だるまさんがころんだ」とか、「いないいないばあ」のゲーム世界かも知れないのだ・・・



それが、「無限世界(~なんでもあり)」と言うことの意味だ
それは、アンマニフェストの世界から、突如、私たちの日常に侵入してくるかも知れない・・・

顕現せざる「無」「無限」は「探求の光」より前から有る、いや「光の存在」の大前提として存在する
〝光〟の両親が「無(父)」と「無限(母)」だ・・・

  「光の前身として、ありてある」ということは、
  「光」から見るならば非顕現世界とは「闇の様な」存在なのだ

ところが「意識的な探求」というのは「光的行為」なので「闇」を見つけ出すことが出来ない
闇を照らしだして
「あれ?闇がないぞないぞ!?」とうろたえている強烈なサーチライトを連想してみれば良い

   ・・・まるでコメディーだ!

私たちが人間という個別的な小さな存在にアイデンティティーをもって生きているのは
「光(自分自身)の探求」の為であり、またさらにその「光の根源」の探求だ

つまり、「光である」とは「明瞭明確な個別である」ということだから
「自他の尊重」によって、その相互の「内なる光」を見いだすことが出来る

しかし「個別なる存在」とはスパーク現象に過ぎず、一瞬のことだ

それが覚者達が言う「無限なるもの」なのか?というと、当然確信は持てない
それゆえに「光の根源とはなにか?」を探し当てなければいけない

しかし、それはランプを持って闇を捜す様な滑稽な状況・・・  パラドックスに陥る

   「探求しない」という探求、「努力しない」という努力を試みなければいけなくなる

・・・でははじめから何もしなければ良いじゃ無いか?

   ところが、それでは、「光そのもの(自分自身)」が発見出来ない・・・

   それゆえにこのすべてが明瞭に別れて見える、光が溢れるこの限定世界に
               「探求の第一歩」をどうしても踏み出さざるを得なかったのだ!

    このパラドックスに満ちた旅は、実に危険な迷路なのだが
     私たちは皆、この「迷いへの第一歩」を踏み出してしまったのだ・・・

    これが「うまれてくること」、そして「死というタイムリミットに追いかけられる」ことの意味だ

この「リミットだらけのこの世界」で、一体どうして「無限」の世界が見つかるというのだろうか?

     嘆き、悲しみ、打ちのめされ、そして行く手はますます草むらが生い茂るばかり・・・

                   私たちは皆、このグレート・ジャーニーの真っ最中なのだ


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