We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

カテゴリ: 無の定義

現代の物理学は
素粒子の世界までその科学のメスを入れているが
しかしまだ「生命現象」という私達自身を含めた、
ごく日常的な現象の本質について
いまだ明確な答えを得ていない

ミミズやバクテリアの様な人間より遙かに単純な構造の生命体に関してですら
その生命とはどこから来るのか?未だ科学はキチンとした定義や説明は為してはいない

  ・・・・鉱物と生物との境界線はどこなのか?
       ・・・・・生体と死体との境界線は?

「生物学」的には一応の線引きはあるだろうが、
それにしても人間が人為的に定義した上でのことだとおもう

「何か形而下に・・・」あらわれたものであるならば、
なにがしかのラベリング、カテゴライズ、定義が可能で
形而上の世界が、いわゆる「アンマニフェスト」とほぼ同じ意味ではないだろうか?

〝無=0〟とは〝no thing〟〝無限=00〟とは〝any thing〟
 そして〝無限光=000〟とは〝every thing〟と表現出来るかも知れない

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 これらの「アンマニフェスト」には「有限性」や「限定」がまるでない、とりとめが無い世界なので
                この世界では「自他の境界線」もまた、曖昧だっただろう

    ゼロは、幾つ集まってもゼロなのだ・・・

    ・・・つまり「数字の概念さえ無い~すべてが唯一無二で数えられない」ということだ

  わたし(たち?)生命とはこの「アンマニフェスト=No Where」からやってきたのだとしたら、
     解剖室や各種の科学測定研究所で、「生命が純粋抽出できない」のは当然だろう

 いままで、科学者達は
       「生命とは物質のまぐれの中で局所的に発生した〝現象〟」
       という前提でずっと「生命体」を切り刻んで、
       その中の「生命現象の原因物質」を捜してきた

  いま、科学者達は
       生命とはこの物質世界を〝発生させた〟原因なのではないか?
                               と疑いはじめている

「わたし(たち?)」は自らを知ろうと思ったなら、
       何か「限定」「分離」が必要だった
         「個別」になることが必要だった

そこから「生命の樹」の頂上「ケテル=究極の一点」を「くぐってきた」のではないか?と思う

「上の如く下もあり」エメラルド・タブレットの言うとおり
形而上の投影として形而下に「生命の樹」が現れたのだとしたら、
「ケテル」とは、この「上と下の」世界を結ぶピンホールなのかもしれない
「無限の光=000」は、このピンホールを通って生命の樹の〝至高の三角形〟

       「ケテル(いまここ/有ると無いの同時存在) =1」
        「コクマー(なにもない/囚われない自由) =2」
         「ビナー(すべてがある/〝美しさ〟)  =3」 を投影する

この肉体に宿る三次元世界からみれば、
   「形而上(見えない)世界」  が 「内的な世界」で
   「形而下(見える)世界」   が 「外的な世界」だから
          「形而下世界」の方が大きく、広がって見える

 しかし実際には何ものにもまだ限定を受けていない「無限に広がる世界」の方が
       「限定され、個別化された世界」よりも、本来は遙かに広大なのだ・・・

   もっとも、「広大」という形容自体が「三次元的」な例え、比喩なのだけれど・・・

    つまり「外と内」という「空間的比較」は見方によってひっくり返ってしまうわけだ

     トーラス図を見れば判る・・・
     「中心」の無に等しい体積ゼロの小さな一点が
     「世界の果て」の外壁にまで広がり、またその逆の行程もある
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「探し求めていたものは、自分自身の内にあった・・・・」

チルチルミチルの青い鳥のテーマは、この「トーラス図」で単純明快に表現されている

   「自分という中心」と「世界という周辺」とは相補関係にあり、
      本来は「境目は無い」=シームレス、ボーダレス、だ

   
あなたに打ち明け話を・・・、それは、あなたは創造主なのだという事です。
                              
津留晃一


 しかしでは、
  分離している〝かのように見える〟三次元世界が、なぜ生まれたのか?

  ・・・いや、本当にこの世界は「ある」のか?・・・・  それさえ定かでは無いが、
    私たちの五感で確かめられる以上、少なくとも「データー」としては存在している

わたしたちはこの世界に「選択」をしに来た・・・
「選択」とは「あれか?これか?それか?」ということだ

「選択」をするということは、その前提として「迷い」があることを意味している
つまりわたしたちは「迷う」為にここに来ている

「あれか?これか?それか?・・・・」  選択によって当然結果が違ってくる、

そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟に〝比較可能な差が生じる〟と思っている

          ・・・しかしそんなものは本当にあるのだろうか?

          少なくともわたしは〝比較可能な差〟などない・・・っと思っている

もちろん結果そのものは選択次第で大きく変わるだろう
ある日の私の些末な、何気ない選択が、私に死を招くかも知れない
ある日のあなたの決心が「全人類を救う」かも「破滅させる」かもしれない・・・

 ・・・でも、それぞれの枝分かれした「もしも」の運命が、本当に「比較可能」だろうか?

     そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟が、本当に「比較可能」だろうか?

きっと誰もがこう答えるはずだ

ああもちろん!、その通り!
運命は変えられる、そしてその価値は計り知れない

だから私たちは真剣に人生を生きているのだ
「きっと明日は良くなる」っと、信じて! 

こんな答えだろうと思う・・・なぜなら

      「選択によって、努力によって、人生も世界も何も変わらない」
       のだとしたら、いったい人生に生きる意味や、生きる価値はあるだろうか?

もしそうでないなら、大きな絶望に襲われ、途方に暮れてしまう

  しかしそれでも言いたい  ・・・「全部同じだ!とは断言しない、しかし、比較は不能だ!」


もちろんこの回答は人によって違うだろう

  あるひとにとっては「選択肢Aの結果は成果が上がり、価値があり、意味がある」
       そして「選択肢Bの結果には何の価値も意味も無い(低い)」

  ・・・そうでなきゃ、選択すること自体に「価値や意味」などありはしないじゃないか?

  ・・・もし「何も変わらない」ならば「宿命論」なのではないか?

    わたしは、「いや、結果が全く同じだなんて言ってない」と答えよう

         「ただし、その価値や意味は、AとBとでは〝比較不能だ〟」と言いたい

     つまり別の言い方をするなら、
      「全ての選択は〝致命的に絶対だ〟」ということだ・・・
                ・・・比較不能、取り返しようが無いのだ

       「覆水盆に戻らず」という諺(ことわざ)に深く静かに入っていくならば
       私たちの人生は完全に静止するのだ、私たちは立ち止まらざるを得ない

マトリックス 弾丸2

あなたがたとえ私の胸ぐらを掴もうと、これは事実だと思う・・・

    わたしは別に「人生そのものに価値や意味がない」なんて言ってない

     「人生の選択やその為の努力 は本質的には〝比較不能だ〟」
      という理解に達することには〝無限の価値がある〟 と確信している

    ・・・なぜならそこから先、もう「選択する上での葛藤」から解放されるからだ

      そこから先、わたしたちは「自らの中心に留まり続ける・・・」  ・・・永遠に

          そういう意味において、この理解に達するという価値において・・・
                  生まれて来たことには確かに価値があるのだ

覚者が、「もう二度と生まれてこない」と言われている理由はそこにあるだろうと私は思う 

覚者はもう、「あれか?これか?それか?」で葛藤することは無いのだ 

表面的には選択には「善し悪し」「正しい、間違い」はある・・・
しかし、そこには本質的な差は無い・・・いや、比較不能だ
だったら、「生まれてくる」事に意味はあるだろうか?
「失敗も成功も」蜻蛉の様なものだとしたら・・・?

ただし、
「いや、そんな悟りなんかまっぴらだぜ!」
「人生には失敗も成功もある」「勝ち負けもある」「だから楽しいんじゃないか?」

・・・もちろんそういう人も多いだろう  ・・・だからこそ「悟り」とは「強制的な義務」ではないのだ

「悟っていない」ことはまったくもって「罪ではない」と思う
だれも好きこのんで「おシャカ(無用物)」になる必要もなければ、そんな義務も無い

誰もが好きなだけ「あれか?これか?それか?」
ゲームを無限に楽しむ事が出来ると思う・・・   「迷い」もまた「人生の楽しみ」なのだ

覚醒したくなったわたしのところにおいで・・・
でもキミは、楽しい夢を見ているかも知れないじゃないか?
わたしには無理矢理キミを揺り起こす権利は無いんだよ?  OSHO 

もし、
覚醒を求めるとしたらあなたの「あれか?これか?それか?」のゲームが、
                   きっともう終わりかけているのだ

   もうその時が来ているならば、「あれも、これも、それも、・・・」
      ・・・きっとすべての選択が、何んだか虚しく、虚ろに感じるのだろう

          そこにあなたの本性、「無」の本性が、もう現れ始めている、
                ・・・人間(エゴ)である事への完全なる「絶望」

         「無」とは「あれでも、これでも、それでも、・・・無い」ということなのだ


       「為すべき事など何も無い」  ・・・そう語ることは容易い

 ・・・しかし、これを実感するためには私たちは無限とも言えるほどの「為すべき事」が必要だ

   だから言葉は虚しいのだ・・・
  たったひとつのことを伝えるのに
  どれ程正確無比な定義を積み重ねても、〝それ〟は伝わらない

    なぜなら、無限の旅人である人と人との間にも、無限とも言える隔たりがあるからだ 

    そしてこの「 言葉は虚しい」と言うテーゼそれ自体が、実に難しい

  光透波では「言葉は神なりき」という・・・たしかにそうだろう
  なぜなら見方によれば、「神など居ない」が、見方によっては「すべては神」だからだ

    でも、そうであるならば「神」という言葉に一体どんな意味があるというのだろう?

     ことばとは「あれとこれとの違い」を明瞭化するために有るのではなかったのか?

  まさしく「言葉の虚しさ」「理論の積み重ねの虚しさ」そのものこそが
  「為すべき事は無い」という究極的理解に辿り着く上での最大の難関では無いだろうか? 

  だから禅マスターは、私たちを窓から放り出すのだ 

「お金なんかなくても生きていけるのだ」

わたしは正直、まだこの都留さんの言葉にはついて行けては居ない・・・
事実、喰うために働いている・・・

しかしこの「自己実現性」が体得出来ないと、やはりすべてが「絵に描いた餅」なのだ

・・・っとまあ、迂闊にも「ついて行けては居ない」と宣言してしまったわけだが、
  果たしてこれは「本当」だろうか? ・・・一瞬前の自分自身を疑うのは私のモットーであ~る

 ・・・もっと正確に状況を描写するならば

 「都留さんの言葉について行けては居ない」という状況を
  毎瞬毎瞬、せっせせっせと全身全霊で〝創造〟しているのではないだろうか? ・・・私は?

斉藤一人氏が言うところの

 「あんたたち、もてる限りの全力を振り絞って〝不幸〟になってる」   ってやつだ(笑)

OSHOが言うところの

 「孤児と飢餓を産み出すために、あの婆さんは中絶に反対している」  ってのもそう

  「不自由を毎瞬作り出しているのは自分自身」というテーゼを、
   私たちは重大な仮説として徹底的に、真剣に検証するべきでは無いだろうか?

〝自己実現〟とは絶対的に必要だ!
 しかしそれは、カネや権力や名声を手に入れると言うことではない
 それ・・・〝自己実現〟とは〝エンライトメント〟のことだからなのだ  OSHO

このOSHOの言葉に肯きつつも、やっぱり私は〝自己実現〟という言葉に抵抗を感じてきた・・・
なぜなら、この言葉にはどうしても
「出発すべき未熟ないま」と「到達(実現)すべき地点(いつかどこか)」とが、イメージされたからだ

しかし、エックハルト・トールが言う様に、
「人生の第一目的地」とは「いまここ」なのだ
「いまここに全てがすでに実現されている・・・」   よく耳にする話だ

ところがこのエックハルトの声明は普通に考えると実に不可解だ
  ・・・通常、「目的地」といえば「ここではない、いつかどこか」のことだからだ

スピでよく言われる「いまここ」、禅が言うところの「今中」、日常で家族に帰宅を告げる「ただいま」
わたしたちはこの言葉を耳にタコができる程聞いているウチに、それはなんだか天国のような
「いいところ」「至福の境地」という勝手なイメージングに陥っていないだろうか?

でも、わたしたちはすでに知っている・・・、目の前にある「いまここ」とは「地獄の一丁目」だ

モーフィアスとアンダーソン

だから
「さあ!瞑想しませう!」とはいうのだが
実際には「いまここ」から目をそらして、
パラダイスのようなお花が咲乱れる「いまここのイメージ」を探してはいないだろうか?

   ・・・ほれ、スピ系大好きな、そこのお嬢さん?あなたのことです

「あなた」も、「わたし」も、変わらないし、変わりようなどないし、改善など必要ない
そしてまた「世界」もまたそうだ・・・、  「いまここ」だって見かけは何も変わらない

じゃあ何が変わるのか?

      それは「もう引き寄せない」「もう新しい家を建てない」ということで
           「いまここ」は「パラダイスに変わっていく」のではないだろうか?





私たちが毎日毎瞬目撃している物理的な五感で知覚している・・・・ 「いまここ」

     わたしたちは記憶の感触と、脳で認識しているシチュエーションの推移を頼りに

         「ほら、わたしはいまここにいる!」
          ・・・と自分自身の現在位置を確かめて (グランディングして) いる

       ところが実際には、その
「いまここ」とは138億年の「過去の集積」

       実を言えば、脳は「いまここ」を知覚出来ないのだ
       通常では、脳は物理的な状況の把握に対して0.5秒遅れている

       だから、視覚神経の情報でマトリックスを組み立てる(内部表現する)ことなく
       即時に反応するカエルやカメレオンが蠅を捕獲するスピードに
       
私たちの視覚は追いつけないのだ
私たちは、
実際には自分たちの積み立ててきた「過去の成果」を
「いまここ」だと勘違いして生活している

それゆえに、
視覚や聴覚にあまりに支配されて (乗っ取られて) いて、
本当の「いまここ」には立ち会っていない・・・

だから、もし自分たちが0.5秒まえの状況からの憶測・・・

つまり
「138億年の延長線上」に自己証明(家)を積み上げないで、

   = 無為にとどまる === これ以上家を建てない = 

   そのときはじめて、
    138億年間に積もり積もったチリが払われて
          「いまここの知覚」が可能になる

・・・わたしたちはこの「膨大な歴史」にあぐらを掻いていたのでは、
   自覚としては 「何もしていない」 様でいながら
   本当は「138億年の話の続き」を・・・、
   無意識の激しい緊張の中せっせせっせと積み立て続けているのだ

   それゆえに私たちは
   いつも「古くさい、自分が大好きなド演歌」を歌い続け、
   その歌声に自分自身で聞き惚れながら自分自身を確認している  ・・・とも喩えられる

   このド演歌の歌声(古い世界観)は「他ならぬ〝過去の〟自分自身」なのではないか?

   では
   〝歌うのを止める〟と「どうなるのだろうか? 世界が消滅してしまう?」のだろうか?

        ・・・いや、たぶん消滅したりはしないだろう
           その時、この世界は「何一つ」変わらない・・・・

        ・・・でも「全てが新鮮 (無自我:アナッタ)」 なのではないだろうか?

もし、常に新鮮な人生を求めるならば、「私は知っている」という安心を捨て去り
徹底した「不可知論」、「全世界への懐疑」 つまり、「自分自身への懐疑」に溺れ死ぬしか無い

私たちは実際のところ
 「新鮮な、曇り無い目」で周りの人や、世界を見たことなどほぼないのだ

 私たちは、
  「決めつけ、先入観(定義、観念)や憶測、願望」を常に眼に一杯詰め込んで見ている

 そして「類友の法則」により、
  あなたのまわりも程度の差はあれ「似た様な世界観の人達」だろう


あなたの周りには強迫観念に取り憑かれている人はいないだろうか?

私の母は・・・・、
戦中戦後世代として常に「飢餓感」から一瞬たりとも意識が離れることがないひとだった
その代償行為として、周囲の人間に全てを責任転換して自分自身を見つめることから逃げていた

・・・・ところがその逃避そのものが、母に飢餓感をさらに煽るような状況を
        ダイソンの掃除機の様に吸引力の衰えることもなく引き寄せていた

わたしは子供ながらに
「なんでこの母親は間断無くキリキリと責め悩まされて生きてるんだろう?」っと不思議だった
自分自身もその同じ「寸断なき責め苦のプログラム」にすでに感染しているとはつゆ知らず・・・
 (・・・・いや、多分そういう人間だと分かってる上で、きっとわたしはこの母親を選んだのだろう)

「そこそこ成功した商社の社長令嬢」として
我が家の中でもっとも裕福な生活を体験していた母こそが
家族中に常に自分の「飢餓感」をばらまき、その放射能汚染の中心にいた・・・・

私たちは何かを「引き寄せる」必要は何も無い

  ・・・それ自体が「飢餓感」「欠乏感」「自己肯定への渇望」を動機としており
     その「引き寄せ」自体がさらに「飢餓感」「欠乏感」を増幅させるからだ

そしてあえて意図的に引き寄せなくても、
否が応でも、自分自身のシャドー、投影、姿見として、
「類友の法則」が、すでに周囲に様々な状況があるはずだ

一見自分とは正反対に見える人でも、
その対称性自体がある種の「共通項(カテゴリー)」を形成して
私たちの周囲を取り囲む  ・・・大概、「大きな嫌悪感」の正体とは「近親憎悪」なのである

「感情的に引っかかる」人間関係も、状況も無いのが「無為自然」だと思う

それは別に「世界が消えてなくなる」ことなのではない
あなたの意識が「無(=定義や観念から自由)」になった (・・・・リセットされた) だけだ




「自己実現した~い」っと願う前に、ひょっとして「もうしちゃってる?」可能性を考えるべきだ
「もうしちゃってる・・・」だからこそ「目の前は地獄の一丁目」なのじゃないだろうか?
そうでなくて「いまここに全て実現している」だなんて、いつ、納得出来るというのだろうか?

・・・これが「世迷い言」だとしたら、こんな仮説はさっさとぶん投げて仕事や勉強に没頭すべきだ

   でももし、この仮説が「正しい」のだとしたら、
    私たちはずっと「自己実現」に囲まれて、包まれて、生活していたことになる

       ・・・・これこそが「無償の愛」という言葉が指し示すものではないだろうか?

   「すでにそうであるもの」は、永遠にあがいても「実現出来る事は決して無い」のだ

  「トラはトラであることは出来ても、トラになる事は出来ない・・・」

   それがバガヴァンの言うところの「私は変わることができない」ことを受け入れなさい。
   という言葉の指し示すことじゃないか?っと思う


幸せになるのに、恋人は必要ありません。
津留晃一

あなた方を仕事に駆り立てる原動力は何でしょう?

ひとことで表現するならそれは
「幸せのため」ということになるでしょう。

幸せになるために
あなたは毎日行動し続けているわけですが、
どうして人は幸せを得るために、仕事をするのでしょうか? 

当たり前だと思いこんでいるだけで、
人はあまりその理由を考えたこともないようです。
幸せになるために
本当に人は仕事をしないといけないのでしょうか?

自分には、
好きなことをする力がないと信じている人は
(現代地球人の大半はそうなのですが)、

幸せになるためには基礎をこつこつと
築き上げなければならないと信じています。

恐れから出てくる発想です。

マイナスの想念世界で発想すると、
人は自分を守るために思考が流れます。

幸せの創造に意識は働かず、
自分を守る方に意識が向いてしまいます。

守ろうとする思いが敵を産み出すというのに・・・。

「働かざる者喰うべからず」
という強い強い価値観が今の地球を覆っています。

「働かないと生きていけない」と硬く信じていますが、
決してそういうわけではないようです。

そう信じているから
そんな現実社会を見ているだけだと伝えられました。

 「私は人に左右されず、
  社会に左右されず、
  自分に素直に、
  自分の好きなように生きていくのだ、

  好きなことをしているだけで
  絶対に生きていけるはずだ」

という生き方を、
他の人に先駆けて始める人達が出始めました。

この地球の変容の時期に、
そのために地球にやってきた人達が、
積極的にそんな生き方を始めています。

これを読んでいるあなたもきっとそのひとりでしょう。
これを読みながら魂が感応しているとしたらそれが証拠です。

貨幣経済社会とは
基本的には奪い合いの仕組みですが、
お金のない社会では、人は与えあわない限り生きていけません。

「お金なんかなくても生きていけるのだ」と、
  誰かがそんな生き方の手本を示すことによって、
  これまで通りの生活に嫌気を感じていた人達が、
   新しい生き方に同調してきます。

   誰かが勇気を奮って
   これまで通りの因習的生き方にさよならをして、
   新しい生き方をしてみせる必要があります。

あなたもきっとそんな人達の中のひとりではないでしょうか。

我々人間が根本創造神から与えられている能力は、

    「創造の自由」と
    「選択の自由」である、

      と初めに伝えられました。

私は長い間、
このことの意味が判りませんでした。

人は誰でも自由を求めますが、
それは好きなことをしたい自由であると考えたからです。
選択の自由が与えられたとしても、
行動が自由になるとは思えなかったのです。

   「自分には力がない」
   という考え方で今までうまく行かなかったのなら、

   「自分には無限の力がある」
   という考え方を選択してみることも可能です。

あなたが信じ、受け入れた考え方は、
やがて時間の経過と共にあなたの現実の中に浸透し、現れてきます。

望む結果を手に入れるのに、
必ずしも行動しなければならないわけではありません。

     ・・・・・そう思い込まされてきただけです。

      より有利になりたい、
      より都合よく、
      より豊かに、
      よりよい環境で、
      より優れるため・・・・、

あなたは行動をとり続けてきたわけですが、
そろそろそんな幸せになるために

    何かに成ってみたり、
    何かを手に入れてから・・・
      という考え方にしばし別れを告げ、

単に
幸せでいるための考え方を
選んでみるという生き方に
挑戦してみてはいかがでしょう?

   「選ぶだけで幸せが手に入るだなんて、
    そんな虫のいい考えが通用するかしら」
 
       という考えが浮かんできたとしたら、
       ただそのことに気付いていて下さい。

あなたの現実はあなたの選択の結果にすぎません。
では何を選択すればいいのか・・・。

・・・ただ単に
あなたの都合のいい考え方を選んでいけばいいだけです。

・・・ただ単に
あなたにとって有利と思われる考え方を選んでいけばいいのです。

実は今も
あなたはあなたの選択の結果として今の現実をみています。
あなたに今見えている環境は全てあなたの選び取った考え方の結果なのです。
あなたの受け入れた考え方が状況を産み出します。

     「この世にはあなたに災いをもたらす敵がいる」

という考え方をあなたが抱いている証拠として、
あなたに災いをもたらす人物や環境が現れてきます。

テレビニュースで流される殺人事件を見るのも
この世には自分の利益のために人をあやめる人がいるのだ
       という考え方をあなたが受け入れてしまった

    結果として、あなたのその信念を見せられているにすぎません。

    「人は互いに理解し合うことは不可能」

という信念の鏡として、
あなたの前にあなたを理解してくれない人が現れます。

あなたを判ってくれないその人は、
あなたの信念が創り出した映像です。

その人に
「あなたは私を誤解しているのよ」と
弁明を100回試みたとしても、その努力は徒労に終わるでしょう。

人の認識を変えようとせず、
あなたは自分の考え方を新たなものと取り替える事によって、
簡単に現実である他人があなたへの認識を変え始めます。

あなたが「あなたを批判する~その人」を理解して上げて下さい。

この世に「他人はいない」という考え方を選び取ってみて下さい。

そんな世界に誤解は存在のしようもありません。
今、時代が大きく変わろうとしています。

どうして社会が変化するかというと、
あなたの抱く信念を変える事によって社会が変わります。
革命や、活動によって社会が変わるわけではありません。

時代の変化とは意識の変化の事ですが、
それは単にあなたがこれまで抱いてきた信念を手放し、
新たな信念を抱く事によって起きてきます。

であるならばあなたにとって都合のいい考え方を
選び取ってみてはいかがでしょう?
そうすればあなたにとって都合のいい社会が
必ず現れてくる事でしょう。

    「都合のいいように考えればいいのですよ」
          と言うと、

     「じゃあ嫌いな上司がいなくなる
       と決めてしまえばいいのですね」
          と問うてきますが、
その人はまだ自分には嫌いな人がいるという信念は
握ったままですから、上司が目の前から消えたとしても、
又新たな嫌いな人を引き寄せてくることになります。
目の前の敵を払いのけようとするのではなくて、
自分が人を嫌う原因の考え方を変える方がずっと効果的です。
自分が上司を嫌っているわけを捜して下さい。

私がまず初めに皆様方に選択して欲しいのは

     「幸せになるために必要なものなど何もない」
              という考え方です。

幸せになるのにお金はいりません。
幸せになるのに恋人は必要ありません。
幸せになるのにどんな環境も必要ではありません。
こんな考え方を(信念を手放す信頼を)信じていると、
今この瞬間が、そしてどんな瞬間も、とても幸せに思えてきます。
生きている毎瞬毎瞬が至福の時へと変わります

時間には大きく二種類在る
ニュートン時間とライトニング時間だ

ニュートン時間はいわゆる〝物理的〟〝客観的〟な社会的共有時間のことで
原子時計なんかで正確に測定されている時間の流れのことだ

もう一つのライトニング時間とは人間が主観的に個々人で感じている時間の流れだ
たとえば退屈な仕事をしていると時間の流れが酷く遅く感じたり
楽しい時間があっという間に過ぎ去ってしまったり・・・  という奴だ

物理的な外の世界は、〝比較〟の世界なので相対速度が重要だから、
ニュートン時間的な計算などの速度が早ければ早い程、優秀だと言うことになる

ところが精神的な内なる世界は〝絶対的いまここ〟の世界なので
絶対速度が重要になる・・・ゆったり、のんびり、マイペースで主観的な自分自身にアプローチする

わたしたちは、生物の進化をはじめた時から生存競争の中を生き抜いてきた
その最終兵器こそが思考能力で、暗算が速くて正確、判断が速くて的確で、
っということが求められるが・・・、

しかし、  今までのこの「人間のロボット(道具)化」の流れは、
        現代において大きなターニングポイントを向かえている

誰と比較して、より素早く回答出来るか?つまりはライバルを出し抜けるか?
・・・・が重要視されてきたのが従来の価値観なのに、これからは、
「本当に自分が望んでいることが何なのか?」といった

         <瞬間瞬間の自分自身への正直さ>

                   こそが最重要になってくるだろう

量子コンピューターの演算速度がどれ程凄いものであろうと、
             演算装置は美しさを「感じる」事は出来ない・・・

              つまり〝主観的な〟欲求や、感触は持ち得ないだろう

      コンピューターはチョコレート・パフェを「美味しい」とか「食べたい」とは感じられない



今までは主観的な感覚を大切にすることは
「我が儘」だとか、「妄想だ」「地に足が付いていない」と叱られた、

ところが、
これがコンピューターと比較した時の人間の最大の特徴で、またそれが購買意欲の主因でもある

なので、この人間の機械にはない曖昧さとか、気まぐれ、嗜好、つまり主観性は、
コンピューターが現在よりも飛躍的に高度に発達し、社会を管理するようになってくる近未来では
人間という存在の重要なファクターになるだろう

・・・もうコンピューター社会においては、
   コンピューター的な、無機的な「正確なだけの」人間は不要なのだ
コンピューターの演算速度は・・・、
早まれば速まるほど、ある意味で「時間を超える(無限高速)」
これが光透波が言うところの「トップスピード」
人間の精神は・・・
瞑想的にスローダウンし、定義や既成観念から解き放たれて
「無~自己受容」に近づくほど「時間を超える(停止)」
これが光透波が言うところの「ストップスピード」

ただし、最も重要なのは
「トップ」は100%に限りなく肉迫しても100%に「タッチダウン」することは出来ない
「トップ」のヘッド・ラインにおいてすでに「S(素、中心)」が欠けているのだ

スタート・ラインをゴールラインとして「STOP」するには、最初に「S]がどうしても必要
「ストップ・スピード」にたどり着ける(立ち止まり、光明を得る)のは人間の意識だけなのだ

コンピュータは、人間の被造物として当然「有:(定義有り)」から始まっており
「定義から自由」な生命が始まりでは無いために、どれ程人間らしく振る舞って見せても
そこはマイホーム、ゴールでははじめから無いのだ

コンピューターはまず人間に「動機」「必要性」が起こり、「目的」が発生し、
その為の「プログラム」が成されてはじめて存在出来る・・・「道具」として生まれた以上
「目的」が与えられないとただの粗大ゴミだ

    ・・・・計算機は「計算機であること」から始まっているため「計算機」で終わる

人間は計算機~人工知能、つまり知能の外部化を成し遂げるために
今日まで自分自身の知性を磨いてきた・・・  でも人工知能が産まれた現在、
もはや人工知能をコントロールするための「英知」を磨くことに専念すれば良い

いたずらに映画「ターミネーター」や「マトリックス」の様な不安を恐れるのでは無く
「TOP・SPEED」と「STOP・SPEED」との「〝S〟の違い」を凝視、理解すればいい

なぜ?映画「ターミネーター」や「マトリックス」の様な近未来のディストピアSFが描かれたのか?

・・・それは、私たちがすでに「道具」として
   両親に「躾け」られ、
   学校で「教育」され、
   会社に「訓練」され
   国家や宗教に「洗脳」された〝憐れな〟ロボットだからだ

   ・・・だから、「自分達より遙かに優秀な人工知能」に脅威を抱いているだけに過ぎない
    単純に「ロボットである」ことからリタイヤするだけで、
    人間の本来の進化の道筋が見えてくるのだが
    その〝シフト〟に身を委ねることが出来ないだけなのだ・・・

わたしたち人間が、今感じている
  「ロボットの様に社会の部品として生きてきて 
   いまさら、〝生身の人間〟に戻れなんて難しいよ!」

この〝困難さ〟そのものこそがスタートレックのTMPの「ビジャー」やスポック、
   TNGのアンドロイド・データー少佐が行き当たっている「嘆きの壁」なのだ!


    ・・・これからの人工知能が進歩した社会全体においては、
      自己尊重、つまり「(比較・競争意識の)完全停止」に達した人間の判断こそが
                        これから最重要になってくるだろう

マトリックス 弾丸2

 なぜならこれは、この物理宇宙が生命によって創造された当初からの〝願い〟なのだから・・・

            人々は「めまぐるしく加速する競争社会」から、
            むしろ正反対の方向に「生きる道」を瞬間瞬間見い出していくだろう

トラは、トラとして生まれた以上、良かれ悪しかれ死ぬまでトラで
またそれに葛藤することも無い
「トラになりたがるトラ」なんていないのだ

わたしたち人間だけが「何かになりたがる」生き物だ
その結果として文明社会を築いた地上最強動物にはなったのだが
「自分が誰か?何ものか?」をすっかり見失ってしまった大きな不幸を背負った種族に成り果てた
自分自身を忘れてしまったのならば、あちこちにかけずり回っていても決して思い出せない・・・

・・・だから「立ち止まる」べきなのだが、その「自分自身に寛ぐ」「自分自身を味わう」という
    「立ち止まり方」を、やはり忘れてしまったのだ

ニュートン時間は光の速さにまで「加速ししていった時」に限りなく「進行ゼロ」になるが
しかしライトニング時間を「止める」のは、意識的な「自己へのくつろぎ」だ

アングリマーラは叫んだ 「止まれ」
仏陀は返答した     「私は止まっている、あなたこそ止まりなさい」

2015年01月15日
 39.Creativity


もし、この地球上で最大の問題を挙げるとしたら
戦争への危機でも、金融の破綻でも、資源の枯渇でも、原発でも無い
イルミナティーによる「人口間引き計画」でもない!!!

「カワイイ」「可哀想」の連呼で、精神薄弱のメンヘラな母性原理の横行による
虚栄的な慰めへの欲求や
児童を奴隷として労働をさせないと生きていけない発展途上国の欲求が
人口爆発で、この地球を押しつぶそうとしている・・・

今の若いお母さん達は、
「もう、これ以上の人口増加を歓迎しているのは奴隷が欲しい年寄りだけだ」
という自覚が欠けていると思う
hard07-139
hard07-140
ファンシーグッズ、子供商品、化粧品・・・、
発展途上国では毎日餓死者がでて、人々は疫病で苦しみながらも
日本の経済界では、女達の「カワイイ」が消費を牽引している

考えの無い表面的な「カワイイ」「可哀想」がすべてに優先され、正当化され、押し通されてしまい、
「日本死ね」愚痴軍団が国会前を練り歩く・・・

    「愚痴大国・ニッポン」である

きっとその対極が「安倍政権・日本会議・ネトウヨ」なのだろう

「シールズ」や「日本死ね」といったアンチ・安倍の正体とは、
安倍政権の最大の〝支持層〟〝応援団〟なのだ

52

49

風間 夕夜

いや、単純に愚痴るぐらいなら育児放棄すれば?

子供はどうせ母親の所有物じゃ無いんだし・・・
赤ちゃん死ぬだろうけれど、母親の義務感で生き延びるよりまし

http://gocky.blog.jp/archives/56907473.html
Mai Yamaguchi

こういう考えの人こそ虐待して子供、殺すんでしょうね


子供が所有物でないのは当たり前
私たちと同じひとりの人間です

単純に愚痴るぐらいならって
あなたは仕事の事にせよグチったことないのかしらね?
風間夕夜

子供はペットじゃ無い

今起きてるのは「子供のペット化」でしょ?
つまり自分達のフィーリングだけで産んで

手に余ると虐待する・・・全くの生き地獄
親も子も両方、地獄
だから行き着くところは「日本死ね」

手に余るぐらいなら何故産んだ?
愚痴る前に自分の浅はかさを何故考えない?
それとも「社会のために、産んでやったんだ」って感じ?
子供達には口に出さなくても伝わるんだよ?

子供は「社会の労働人口が足りなくなるのが心配だから」という理由じゃなく、男と女の愛の結晶としてこの世に迎え入れられるべきなんだ

「産む」こと自体が虐待
だから犬や猫には「避妊手術」が慈悲なのに
相手が「人間」だと、そういうワケにいかなくなる
それが世界的な人口爆発の最大原因

子供を産む資格をライセンス制にするべきだとおもう
「できちゃった婚」なんかさせるべきじゃない
世界的な児童労働は、まず「可哀想だから止めさせるべき」というのは先進国の傲慢でしか無い

日本だって未婚の母だの、保育施設だの子育て支援だのといった福祉対策が追いつかないのは当然・・・安倍政権の肩を持つつもりは無いけれど・・・「保育園落ちた日本死ね」のムーブメントにも違和感はある

本当に慎重な社会人は、こんな社会情勢に「無責任に子供なんか産めないよ」って考えている、いまの危機的状況は余程のバカで無い限り、誰にでも充分予測が付くからね

高学歴高収入者ほど、子供産まない
だから人口が減少に向かっている日本とは「教育水準もモラルも高い国だから」なのよ・・・「出産なんて超贅沢
という認識がちゃんとあるから、「少子化が~」っと世間が騒いでも、大半は産むのを控えている

アタマの悪い無責任で性的な欲望をコントロール出来ない人々のモラルと文化レベルが低い地域だけでバンバン子供を産んでいる・・・全く酷い状況、地球はパンク寸前

「生老病死」で最大の苦しみは「生まれる」ことなんだよ?
「死」の苦しみ、恐怖は「産まれる」ことで全部起きること・・・この世に一人の意識を招き寄せることの重大さをあまりにも浅はかな子供じみた人間が性欲と社会的な習慣とだけで決定している・・・この罪の大きさが判りますか?


この先に待ち構えているのは「間引きの絶対必要性」
つまり戦争、飢餓、ウイルスの蔓延・・・


親は子供に「産んでやった」だとか「殺人を犯したくないから育ててます」みたいな感情は千分の一ミリも許されない・・・それはこの世で唯一存在する「殺人以上の」罪
風間 夕夜

この惑星を愛するなら完全な産児制限が必要だ
文句あるならはじめから産むな、「産め」って言ってる連中は経済界のお偉方だけがなるべく安い労働力を欲している自分達の都合で言ってるだけ・・・それ以外に「産んで下さい」って頼むのは年金守って欲しい高齢者ぐらい



今こそ止める時だ
すでに世界はあるべき姿の4倍の人口を抱えている

世界人口を4分の1にできれば貧困も暴力もなくなるだろう
数多くの問題が消え失せるだろう

しかし マザー・テレサは 孤児を助け
世界中に孤児院を開設しているというのでノーベル賞をもらった

彼女は問題を生み出しているのだ 
・・・この孤児たちは子供をつくるだろう

そして彼女は堕胎に反対だ 
なぜならもし堕胎が合法だったらどこから孤児を手に入れる?
そしたら ノーベル賞はどうなる?

この婆さんは人びとを狂わせている
完全な産児制限が必要だ

少なくとも20年間

・・・・「完全な」 と私は言っている!

ふたり目か3人目のあとで止めろ とは言っていない

それでは役に立たない
世界の半数が 飢餓で死んでいる
そして あなたは驚くだろうが 
そうした貧しい国 飢えている国が より多く子供を作っている

それは単純な理由からで 
彼らには他に暇のつぶしようがないからだ

映画に行くには お金がかかる
ディスコに行くには お金がかかる
セックスが 唯一の 無料の娯楽だ

完全な 産児制限が必要だ
ここは 過去4年間にひとりの子供も生まれていない 唯一の都市だ
世界人口を 減らさない限り暴力を避ける道はない

人びとは 腹を空かせ
人びとは 飢えて死んでいる

腹を空かせていれば その人は盗みを働くだろう
死にかけていれば生きのびるために 
人を殺して金を奪うことなど何でもない
なぜなら 生への渇望はあらゆる生物学的成長の根底だからだ

人は 生きるためには何だってできる
第2にもし堕胎が 違法になれば…

法王はすべての避妊方法を 違法にしたい
もし堕胎が違法なら 避妊方法が違法なら
この世界に何がおきるか わかるかな?
誰もが生きのびるために
誰かの首を狙うことだろう
そして 避妊と堕胎は 
  「女性に男性と同等の地位を与えた」
     ということを思い出すべきだ

さもなければ 女性は決して男性と同等にはなれない
貧しい国々では 女性は常に出産し続ける
毎年子供を産む
彼女は常に 妊娠している
彼女は働けない 彼女は経済的に自立できない
彼女は男性のようには教育を受けられない
彼女は政治に加われない
彼女は子供の世話をしなくてはならない
避妊法や堕胎
これらは女性が男性と同等になれる機会を与えた
さもなければ平等に関して語られるすべては 空言だ
見せかけだけ 偽りだ

しかし奇妙にも マザー・テレサは女性で
彼女は 20人から30人の尼僧を抱えていて
彼女たちはみな女性だ
彼女は 修道女たちを指揮している
彼女たちは この2千年の間にたったひとりの女性も
法王として認められてこなかったという事実を 見ようとしない

たったひとりの女性も
キリストとして
仏陀として
預言者として認められてこなかった

あなたは驚くだろう 

これはいまだかつてなかったことで
すべての宗教が私に反対している
彼らは 今まで決して一致して誰かに反対することはなかった 
その点では彼らは一致していた
そして もっと驚くことに無神論者でさえ私に反対だ
彼らもこの点では 有神論者に賛成する
共産主義者は 私に反対だ
彼らは神を信じない
彼らは魂を信じない
彼らは瞑想を信じない
しかし彼らもまた 神を信じる人びとに同意する
魂を信じる人びと あらゆることを信じる人びとに同意する

たったひとつのことについてのみ彼らは皆 同意する
これはいまだかつてなかったことだ

その理由は単純で
私がはっきりとあなたに指し示しているからだ
私の指は 真実を指し示している
信じる必要はない
経典は必要ない
預言者は必要ない ・・・神は必要ない

すべてを疑う途方もない勇気が 必要だ

「チキショーあんにゃろー判ってねえなぁ~~! ・・・思い知らせてやる!」

こういう感情を抱いたことは、わたしは何度もある
油断すれば今でも起きる

ところがこれって考えてみるとずいぶんと変なセリフだ

どう考えても〝愛情深い〟言葉じゃ無いのに、言っている内容は
「判らせて上げよう・・・」 「教育して上げよう・・・」 「相手を向上させてやろう・・・」 なのだ

   ・・・・なんかヘンじゃないだろうか?
    ・・・ここにはヘンチクリンな、サンヘドリンなロジックが隠れている

「教育する」「訓練する」「更生させる」「生産性を上げる」「気付かせてさし上げる・・・」
               これは、一見素晴らしい愛の様な変装をした〝エゴイズム〟だ

・・・ただし強調したいのは、この〝方式〟は、いままでは「有効だった」のだ

       社会が貧しく、人々が自然の猛威と闘って生存を勝ち取るまでは・・・

        もちろん今だって「自然の猛威」はまだまだある、欠乏だってまだまだある

  しかし、「そっち」の視野に限定されて、視野狭窄に陥ることは
   むしろ状況を悪化させるという〝段階〟にまで、人間のテクノロジーは進化を遂げたのだ!

 もはや・・・、
 人々を社会の〝歯車〟と見なしても、けっして生産性も向上はしない、むしろ悪化するだろう
  「つべこべ言わずに国家システムの為に、個々人は奉仕すれば良いのだ」
   「祖国のためにゼロ戦で突っ込んで敵の戦艦を沈めてこい・・・」

     そういわれて大喜びで飛んでいくのは、アベ信者のネトウヨのお役目だろう

      もし彼らがどうしてもそうしたいというのならば、まあ、彼らの命だ
       止める必要も無いだろう、ついでにフクシマの除染作業も彼らに任せよう

     大方の今の日本人は「お国のために死ねだと?・・・日本死ね!」と即答するだろう
                       ・・・・それともアンケートで確かめる必要があるだろうか?

           バシャールの第三法則 「ひとつはすべて、すべてはひとつ」
                        これは総理大臣やら日本会議やらの為の法則では無い

長谷川豊というフリーアナウンサーの公式ブログの記事では、
「年収600万以上の独身男性にこそ、結婚してもらいたい」とか・・・
「なのに、性的満足だけを求めて結婚しないなんてエゴイズムだ」とか・・・
               ・・・いったいこいつ、日本の元首かよ?って思ってしまう

   ・・・山羊座29度のサビアン・シンボルは「世界問題を決定する責務にある男達の秘密会議」

そう思い込んでいるカルト集団を、別にどうこうする必要は無いとわたしは思う
要は、私たちひとりひとりが赤提灯で酔っ払って世界問題を論じているじゃ無いか?
「男達の秘密会議」というのは、
そういうやるせない小市民の愚痴の集合意識が動かしている代表者なワケだ・・・

               ・・・「心理構造が全く同じ・・・」という点においてシンクロしている

              誰もが完全に明晰な〝自己責任〟を自覚した時、
              もうこんな「男達の秘密会議」は世界を操ることは出来ないはずだ

津留晃一の世界

自他一体

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「自他一体」・・・、いまさらといった感のあるこの言葉ですが、
真の一体感の獲得はそうたやすいものではないようです。

誰もがそうありたいと願いながら、
そうなれないところに、
この人間ゲームの面白さがあります。

あくまでも分離して見えてしまうこの肉体眼を持ちながら、
なおかつそれがひとつのものとして
認識できる力を身につけるのが
この三次元人生ゲームであるといえるでしょう。

実は他人とは、
もうひとつのあなたの目なのです。


あなた自身の内宇宙をのぞき込むための
潜望鏡のことを我々は他人と呼んでしまいました。

自分以外の別の人であるという意味の言葉を当ててしまいました。

今日から

「他の人と見えているものは、
広大な真の自分を発見する為の望遠鏡であり、顕微鏡である」
という言葉に変えてしまいましょう。

彼と話をしている時、

「自分の自動操縦リモコン潜望鏡(彼)が、
自分のために今、観察報告をしてくれているのだ」


そんな気持ちを心に止めながら会話してみて下さい。

真のあなたであるハイヤーセルフは、
自分であると誤解できる潜望鏡的自我を作り出し、
自分自身を知るための観察を始めました。

この初期目的を思い出して下さい。

あなたは、
この世界で成果を上げる為に存在しているわけではありません。

「成果を生み出すのだ」と思い込まされてきたにすぎません。

私の分離感の根っこはここにありました。

「この世界に何らかの成果を残して死んでいく。
自分の生きた証を、その痕跡をこの世に留めてみたい」

これが人間型ゲシュタルトが発するごくノーマルな思考です。

自分を取るに足らないちっぽけな存在である、
と誤解させられた自我にとっては、当然の願望であるといえるでしょう。

成果を上げようとするあなたの思いに呼応して、
ちっぽけなあなたに協力する他人が現れ、
それを阻もうとする敵という他人も現れます。

味方も敵も
「成果を上げよう」とするあなたの思いによって、
あなたがこのゲームに生み出す創造物です。

成果を上げるといっても、
それは特別な事をいっているわけではありません。

「彼のために食事を作らねば」という思いもそうです。
   ・・・・・それも成果を上げようとする思いです。

「何日までにこの本を読み終えねば」というのも
                   やはりそうです。

観察が目的である人には

   「しなければならない」 という発想は起こりません。

成果を上げたいという思いが
あなたの意識を今ここから引き離し、
その先のゴールへ意識を向かわせます。

今そこにいる他人との関わりのチャンスを棒に振ってしまいます。
今ここにある変容のチャンスを取り逃がします。

           他からあなたが分離します。

原始時代から我々が進んできた方向は、
自我を確立するという方向でした。

自我が非力な自分の力によって
やっと
成果を生み出すという喜びを得、
ハイヤーセルフはそれを観察してそんな自分を発見してきました。

力のない者が自らの力で成果を生み出すことの素晴らしさを
堪能してきました。
そしてハイヤーセルフのその発見と引き替えに、
自我はより強化され硬くなってきました。

自我は成長し続けました。
それは他との分離の課程でもありました。

成長しきった果実はやがて大地に落下します。

大地というまたひとつの場所に戻って行きます。
大地から生まれた一本であった幹は、
成長とともに枝分かれし、分離していきました。
そして自我(個体)という果実を結ばせました。

成長した我々の自我は熟れすぎた果物として
やがて種子を内包したまま大地に落ちます。

我々の意識は成熟したこの果物自身から、
その核である種子へと移行されなければなりません。

もうあなたは充分に成熟しました。
そして成熟したあなたはそこに止まる事は出来ません。

次なる神の種子へとその意識をあなたの中心へ
          移行させる時がやってきました。

今、あなたが自分の意識を内側へ内側へと向わせることによって、
あなたという種子が必ずまた大地という
元なるひとつの場所へ帰っていきます。

あなたの見ている世界、それはあなた自身です。
それ以上でも、それ以下でもありません。

あなたが素敵だと感じるもの、それは自分です。
あなたが偉大だと感じる哲学者も、それは自分です。
あなたの敬愛するキリスト様も、あなた以上の人物ではありません。

そして新宿駅の構内で、
段ボールの中でうずくまって寝ているその人も、
あなた以上ではなく、またあなた以下でもありません。

そしてまた、そうは見えないのも当たり前です。
この肉眼ではそれは分離して見えているわけですから。

そんなことを
頭で理解したところで何の役にも立ちません。
頭で理解した真理は、
ややもすると人を裁く道具に成り下がってしまいます。

「あなたのそこがいけないのよ」と、
他人と認識するその人をうっかり裁いてしまいます。

あなたが人を否定したその瞬間に、
相手の中に自己防御意識がおこり、
すぐあなたに向かって反撃を開始してくる事でしょう。

そんな手痛いしっぺ返しに
「これはどうしたことだ、どうしてこのやり方はうまくいかないのか」と、
何度もそんな疑問を抱かれた事でしょう。

       ・・・・どうぞ、そのまま進んで下さい。

葛藤を恐れることなく、言いたいことを言い続けてみて下さい。

「うまくいかない」度に、
「どうしてうまくいかないのか?」と、あなたの疑問は膨らんできます。

実は自我であるあなたの内に疑問がわき起こってきたとは、
ハイヤーセルフがその答えを渡したがっていると
言い換えることもできるわけです。

疑問と答えはひとつのものです。

宇宙にプラスとマイナスが同時に誕生するように、
疑問と答えは同時に存在を開始します。

この三次元時空間が、単に互いが出会うまでに
時間の経過を必要とするように設計されているだけのことです。

あなたのすることは、
感じるままに行動してみることです。

うまくいかなければ自然に疑問が発生し、
その瞬間に実はその回答が与えられているわけです。
(「巧くいかない」、「行き止まり」、それ自体が解答)

あなたがそのことを自分の知識でいじりまわさなければうまくいきます。

   人を変えていこうとするエネルギー、
       これが縦のエネルギーです。

   自分が変わっていこうとするエネルギー、
       これが横のエネルギーです。

人を変えようとすればするほど、
 それがうまくいかなくて自然に自己変容が起きてきます。

とても厳しい自己進化の仕方です。
 他人が居ることを前提とした自己変容法です。

一方、宇宙には自分一人しか居ない、
 「他人とは自分の鏡」という前提から始まるのが横のエネルギーです。

自分を変え、その変化が鏡である他人を変容させる、とする進化アプローチです。
問題は全て我が内にあり、と、全てを包み込む広がりです。
包容力という神の一面の体現者達です。

この横のエネルギーの人は周りに縦のエネルギーの人々を配置します。
咎められることによって自己を変えようとしているからです。
そして
どちらのエネルギーにとっても互いが相手のエネルギーを必要としています。
これが自他一体の一側面です。

自他が同じというわけではありません。
その価値(の大きさ)に違いがないというだけです。

ズバズバと人を切り裂く厳しさと、
すべてを包み込む優しさは、その価値において全く対等です。

その価値を同じに感じている人は、
もう自他一体の一側面を卒業しているといえるでしょう。

否定から入っていく縦のエネルギーにしろ、
肯定から入っていく横のエネルギーにしろ、
人は否定されることによって傷ついてきました。

「否定された」と解釈したら、
その瞬間にマイナスの感情がわき起こってきます。
確かに私たちの体はそう作られています。

そこでその解釈を別の肯定的見方に解釈し直してみる、
というのがプラス発想法でした。

もちろん全ての事象、出来事に肯定的意味を発見していくことは可能です。

反対から見てみればいいだけのことですから。

全ての出来事に、肯定的50%の側面と、否定的50%の側面が
一枚のコインの裏と表として存在しているからです。

でも解釈し直してみるまでにマイナスの感情が起こっているという
事実に代わりはありません。

わざわざ意味を付け直すのは、現に今マイナス状態にあるからに他なりません。
他人がどんな言葉を使おうと、その言葉の意味とは無関係に、
相手の発した否定的想念を、私たちは言葉以前に瞬間的に受け取ってしまいます。

ちょうど叩かれた時に痛みを感じるのと同じように・・・。

しかし私達は人の発する否定的想念を、痛みを持って受け取る
必要性が本当にあるのでしょうか?

私達の肉体は痛みを感じなければ困ることもありますが、
100%そういうわけではありません。

親不知の歯を抜いてもらう時に、必ずしも痛みが必要というわけではありません。

確かに空腹感があれば便利なこともあります。
でも必要のない時の空腹感にはとても手を焼きます。

確かに肉体はそうなっています。
しかし、自律神経は私たちの意志でコントロールすることは出来ない
と教え込まされてきた知識を後生大事に持ち続ける必要もありません。

今空腹感はいらないよ、と肉体に教えてあげれば
空腹感を感じるエネルギーをあなたの肉体がストップしてしまうように
他人の発する否定的想念エネルギーを、
「今は必要ないから」と、受け取りを拒むことも可能です。

「彼からの否定的想念は、私の変容の為にあることを認めます。
今はもっとよく自分を見つめたいと思います。
その為には、今このイライラは必要ありません」と望めば
あなたの頭脳は苦痛を生み出すホルモンの分泌を即座に停止してくれます。

あなたに不可能な事はありません。

あなたにとってそれがよければ必ずそれはそうなります。
あなたが人を変えようとして拒否されるのは、
あなたが人から変えられることを拒んでいることの証です。

あなたが他人からの否定のエネルギーを、
   肯定のエネルギーと同じように受け入れられるようになった時・・・、
あなたのまわりにいる人たちも、あなたからの
「こう変わればいいのに」という思いを受け取るようになるでしょう。

あなたが、他人からの
「変わって欲しい」という思いを素直に受け入れることが出来るようになった時、
あなたの
「人に変わって欲しい」という思いは相手の心に素直に入っていくようになるでしょう。

あなたが相手のいうことを信用しないのに、
相手の人があなたの言うことを信用するはずもありません。
              ・・・・自分が疑う人は、人からも疑われます。

自分が「疑っていい」と思っている人は、
宇宙からも「疑っていいよ」というメッセージを引っ張ります。

       宇宙とはあなたの鏡であるからです。
           それが自他一体ということです。

疑おうが、信用しようが、
そんな事はハイヤーセルフにとってはどちらでもいいことです。

何かが何かよりいいという事などないからです。

どちらかが、どちらかより正しいという事もありません。
この方法の方が、あの方法よりも良い、という事もありません。

           全てはひとつなのですから。

   自他一体とは、     全てがひとつであるという事。
   全てがひとつという事は、  全てが自分であるという事。

全てが自分であるとは、それはただそうなっているだけであり、
否定されるべき何物もないという事です。

全てが自分であるこの宇宙に、「否定」することなどあるはずがありません。

「私はもう私の宇宙に、否定という概念の存在を許さない」
                  ・・・そんな決意をしてみませんか? 

その時あなたには
「人から拒否された」という解釈そのものが起こらなくなってしまいます。
あなたはもう何人からも拒否されることがなくなります。
否定されたらもちろんあなたは苦しくなります。

それは否定されたら苦しくなるように肉体にプログラミングしてあるからです。
あなたが創ったプログラムですから、
あなたがそのプログラムを再プログラミングし直せば、それは起こらなくなります。

ひとつであったあなた自身がこの肉体をデザインしました。
                           集合意識として。

  「人からの否定的想念を受け取った時に
   直ちに自分を守り、相手に反撃を開始したくなる」
                    という構造を作り上げました。

         それをこのゲームへの参加条件としたわけです。

しかし我々の集合意識はこのゲームを終演させる事を決めています。
                 もはやこの事は参加条件からはずされました。

どうぞ安心して決めて下さい。
「もう私は人からの否定的想念を感情抜きに受け入れる」と。

人から否定されたからといって、あなたが怒る必要は全くないのです。
人からの否定を受け取る必要性はありません。
否定を受け取ったら、あなたは自己防衛を始め、反撃したくなるからです。

否定という概念をなくした人は、
痛みをともなわずに他人からのアドバイスを
素直に自己改造へと向かわせる事が出来るようになってきます。

            急速な変容が始まります。

今ここにある周りの全てが・・・・、
自分を変容する為のメッセージである事がわかっているからです。

否定は必要ありません。

全てを肯定するものが神だからです。
全てがあなただからです。

             それが・・・      自他一体という事です。

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