「真実はひとつか?」


野球やサッカーのようなスポーツのゲーム

囲碁将棋のような知的なゲーム

コンピューターゲームや社会秩序の維持に関わる法律

なにかの基盤、なにかの前提の上での話なら、
解答はひとつ、判定はまよわずに、これだといい切れる事は多いだろう。

実際、それを前提で社会は動いている


でも、やや抽象的な意味で、「真実とは?」
と問うたとき、それはひとつに限定できないように思う。


真実という言葉は、ひとがそれに殉じることが出来ることを
指し示していると思う。 

  そこにのめり込んでいる人にとっては
  「ひとつに限定出来ない」と私が言ったら
   私の胸ぐらを掴みたくなるかも知れないが・・・

その怒りの背景にはある種の価値観や美意識への
愛情、愛着、敬意が見られる

つまり、「真実」というのは個々人の主観的な問題なのだ。

客観的な事実なのか・・・・? 
主観的な真実なのか・・・・?

事実認識が共有されているのにもかかわらず
意見がぶつかり合う場合の多くは、
 本当に問題(焦点)になっているのは
         大概、めいめいが前提とした価値基準のように思う。

つまり、言い争いや、あるいは一個人の思索の中での葛藤は
複数の価値観が、その優位な座を奪い合っていると言う風にいえるだろう。

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「神:その拾った財布、交番に届けなさい!」
「悪魔:いやだ!」

単なる事実認識の問題ならば割合、
事務的に究明できる、特定できる場合が多いと思う。

あるいは、事実に対する目撃等の資料が不足している場合
「結局事実は判りませんね」ということが唯一残された事実
なのかも知れない。

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そこにはそれほど、固執すべき議論は起きない。
データーに基づいた客観的事実は共有可能だからだ。

でも、人同士が言い争う場合は、
違った価値観に基づいた違った真実の感触
という問題が関与しているから、
ややこしくなったり、微妙な結末になったりする。

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ひとりのひとが、ある事象に対して、ひとつの真実を感じた場合、
それはそのひとの「(良かれ悪しかれ)拘り」が存在していることを
意味していると思う。

  そして、
  他者の持つ、別の真実の感触=タッチと、往々にして衝突する。

あらゆる議論が不毛だとは思わないが、議論というのは往々にして
対象となるテーマに対して複数の真実同士が衝突して埒が明かなくなってしまう。

どうしても相手の価値観を容認できない場合、相手の真実を
否定せざるを得ないというわけだ

ある人にとっては、
人間関係の和が重要で、多少の原則を無視することも
やむを得ないということが真実かも知れない

またある人は、
例えば神という超越的な存在を前提として、人間同士の
「まあまあ」なやり取りに憤然とするかも知れない

そしてある男は、
愛する女房子供を守り抜くことが、全てに優先する
正義であり、真実なのかも知れない。

たとえ唯ひとつの事象に対してであれ、
価値観の違いや、観察する視点の違いから
各人それぞれの真実が浮かび上がってくることもあるだろう。

そう、

たったひとつの事象を対象にしたとしても、
真実は多種多様=無量無辺、八百万(やおよろず)に有り得るのだ。


真実をひとつと断定したとき、それは一種の信条、一種の宗教と呼べる。

そしてそれは往々にして個人のレベルでも“宗教戦争”を勃発させる。

それは、かなり惨たらしいやり取りも起こり得るのだ。


往々にして、良かれ悪しかれ
ひとが何かそこに真実を感じるものがあり、その真実に打たれ、
客観的な事実や論理、社会的常識や良識を越えて、
突き動かされることだって大いにありえる

まあ、人から見れば彼はキチガイということになるだろうが・・・

でもそこで、
何かに神の啓示を感じて突き動かされるのであれ、
そんな人をキチガイだと笑い転げたり、石をぶつけるのであれ、
真実を唯ひとつとして拘る、限定して考えるのは、
それは視野狭窄であり、脅迫観念=FEARが関与していると思う


書きたかったことはひとつだ

  真実を問題にすると、そこには
  絶対的なルールブック(聖書や六法全書)は、
  存在し得ない(無底)ということだ。だから真実とは風や水の様に
  流動的で、ひとつのカタマリとして固定できないものなのだ

※たとえば聖書を絶対的なルールブックと見なして
  語ることが許されるのは、当然その絶対性を受け入れた
  人達の間だけだ、教会の中だけだ。

  それをでっかいマイクロフォンで道行く人にがなり立てるのは
  暴力というものだ

  たぶん、誰よりも神様こそが、耳を塞いで困り果てていることだろう

2009年の明治神宮、初詣にて
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自分が感じた真実を他者に無理矢理強要、布教しようとする動機とは、
ひとり在る事=Alonenessを保持する勇気、美しさ、栄光に対する
孤独、焦り、退屈さ、不安、劣等感・・・  によるものではないだろうか?


だから、真実に関する考察は、面倒であり、人は安易に避けて通る

釈迦が悟りを開いたとき、祕沈すべきかどうか迷って
帝釈天に担ぎ上げられたエピソードも、そういうことだからだろう。

  つまり真実を言語化するかどうか?
   っというのは、

悟りを開いた人でさえ
迷うような重大な問題

          なのだということに刮目するべきだ
(一般コミック) [中村光] 聖☆おにいさん 第01巻_無題009_

ああ、受け合ってもいい!

この問題さえなければ真実というのは、
とっくの昔にこの地球の隅々まで普及しているだろう

真実を示めそうと思った時、時としては人は鬼にならなければいけない


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真実は、本には書けない。活字に出来ない
だから口伝という心細い方法論が選ばれることもある

真実ってのは、
テレビショーや多数決の場に引っ張り出されるのは分が悪いのだ

真実ってのは、
ポエム=詩情とか、神話、官能の世界に属した要素が強いからだ
ところがそれが客観的事実とまたがっている要素もあるので
真実を観じた当人は、それが主観的な詩情であることに気がつかないのだ

「何故これが見えない?」「なぜこれが聞こえない?」と腹を立ててしまう。


真実というのはつまり
主観性を主体とした価値観であるのにもかかわらず
普遍的な要素を秘めてもいるので、人はそこに、
場合によっては命を捧げようと自らに誓うことさえ在るのだ。

  そこには、善悪を越えた美しさをたたえることもある。

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「天上天下唯我独尊っ!!」
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しかし
・・・多数の人々は誰かの中の真実の繊細さに眼を細め、耳をそばだてることに
  興味はないのだ。それよりは相手を論破する、相手をぶっ殺す方を選ぶ

声のデカイいわゆる“真実”ってのに人々は扇動され、
限りなく残酷になれる事を歴史は証明している


  それを考えるなら「真実とは何か」という問いを、
  もうこれ以上は避けて通ることは出来ないのだ。

上記が、わたしなりの「真実とは何か」と言う問いへの考察だ

結論としては
The ONE and ONLY golden rule is there are NO golden rules
唯一の黄金律とは、「唯一絶対の黄金律なんて無い」ということだ)
                    で、済んでしまう話かも知れない。

でも、「真実とは?」という表題のホームページを開いてみて

「真実なんて無いよ~~」
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っと女の子がこっちを指さした画像が貼られていただけだった
読者はさぞかしムカつくだろうし、また、大変な誤解を招くだろう。

そのホームページのコンテンツが「まっさら」であるなら
それは真実を正確に伝えていると言える

でも、折角真実に対する興味がある読者に、
白紙を突きつけるのはちと不親切だろう。

WEB2.0の技術を使って、もう少し親切に説明するなら
「there are NO content」ではなく
そこには読者が自由に書き込めるホワイトボードを貼っておくべきだ。

この「ホワイトボード」こそが
「わたし」であり
「あなた」であり
「世界」であり、
そして  ・・・「真実」だ

しかし、これも真実に対して忠実な内容ではあるが
禅の公案の様に多くの人は首を傾げるだろう。

                   つまり神秘主義だ。


「無」のロジカルな定義に成功した私は、
以下の様に書き込むことにしよう

  「真実なんて無いよ~」というのは誤りだ!

  「真実(の中身=content)とは“無”である」
    (FFD=freedom from dimension)が正しい
エスケープ・フローム・ディメンション

  「真実なんて無いよ~」というのは相対主義、虚無主義だ

それに対して
  「真実とは“無”である」というのは不可知論だ

ここには無限の謙虚さと他者への尊重が要求される
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その違いは
「無い=nothing 非存在」と
「“無”=not thing 特定的"何か"ではない」との違いだ

その違いは
「空っぽ:エンプティー=emptyあるいはヌル=null」と
「空(くう):ヴォイド=void」との違いだ


単なる妥協、事なかれ主義として議論を避けるのではなく、
真実が人の数だけ、視点の数だけ無限にありえることを肝に銘ずるなら

そもそも
議論すべき事なのか? 
議論すべき点は何なのか?
議論すべき価値はどこにあるのかが、明晰に判るだろう

そしてわたしたちは
お互いの感じる真実を、(例え知的に理解出来なくても)
まごころから尊重しあえる=FAIRな社会を作れるだろう



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(2014/08/04)

宮井陸郎 シャンタン
津留晃一さん

 総ての現実を、もう片側からだけ見るのを止めることです。

あなたの感じる感情はあなたサイドからわき起こってくるものです

反対サイドから見ればまた違った現実がそこにあります。

反対サイドに立ってみるには二極の間に立ちはだかる壁をよじ登る必要があります。

あなたが価値観を強く握っていると、この壁をよじ登る事はできません。

価値観の壁の高さを低くすることが先決です。

価値観の壁が低くなればなるほど容易に反対サイドに回り込むことが出来るようになります。

価値観の壁が低くなり最後には平らな平地となったとき、

一つの現実には無限の側面があり、その数だけの人間がいることがわかってきます。

 実はこの宇宙には今しか無く、あなたのまわりにいる人は

自分のパラレルワールドの中の自分自身に過ぎないのだとわかってきます。

あなたとはその肉体の中にあるものではなく、

あらゆる二極の間にあるもの、その間にあるものこそ自分である事がわかります。

あなたの思考の反射として相手の言葉が聞こえてきます。

今ここにいて、起きてくる現実に反応している自分を観察して下さい。

それこそがあなたのすることです。

それこそがあなたの役割です。

自分を救うこと、それが地球を救うこと。

そしてそれこそが宇宙維新であるようです。

反応しているところにあなたのまだ手放していない価値観があります。

もうどんな考え方も必要ではありません。

 次の挑戦は「瞬間」です。

「今」という時間の単位を「瞬間」に置き直して下さい。

瞬間たりとも「ムッ」としない。

ほんの瞬間にもイライラ感じない。

そんな挑戦です。

それには、感情が起きる以前の自分の反応を知る必要があります。

どう生きるかではなく、どうあるかです。

 もう人が創った世界に住みたくないのなら、あなたの
する事は、
今、あなたを救うことです。

自分を眺め続けて下さい。

反応している自分に気付き続けて下さい。

機械仕掛けのようにすぐに判断を開始する自我を見張って下さい。

あなたが反応する出来事は、無意識的に

機械仕掛けのように過去の価値観によって創られたものです。

つまり他人によって埋め込まれた観念に基づいて創り出しているものです

 あなたと神の間にあるもの、二極の間にあるものそれがあなたの想念です。

あなたの思考こそがこの宇宙の始まりであったことを思い出して下さい

もう人が創った世界に住みたくないのなら、あなたの
する事は、
今、あなたを救うことです。

この三次元世界には沢山の神がいる

あなたも、あなたも、あなたも、神だ

であるなら、全ての「君」は絶対的な尊重に値する

そしてそこで、「天上天下・唯我独尊」が浮上する

  日本が何故、もっとも神々の世界に近い国家なのかと言えば
  「おもてなしのこころのもっとも洗練された国」だからだ
  「仕事を愛する歓び」を知る人々が暮らす国だからだ

    「君が代」を国歌とする国、
     「常不軽菩薩(仏陀予備候補者)」だらけの国だからだ

それゆえにアセンション(集団エンライトメント)が起きるとすれば
日本をおいて他にはない
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この三次元空間というのは共同幻想であるが、
いままでの宇宙の中でもっとも・・・
     ・・・・限定だらけで、緻密で、精密で、故に「堅く、安定している」

そして私たちのこの肉体も“賞味期限付き”だ

だから、素晴らしいのだ!


ここは神同士が意見交換しえる、奇跡の孤島なのだ

あなたの目に映る「アナザー(他者)」はあなたの投影に過ぎない
実際はあなたは、別のバリエーションの自分とお話ししているだけだ

でも、だからといってこの世界はマーヤ(夢幻)なのではなく
今まで創世された世界で、もっとも強力なリアリティーを保持した
最高傑作だ

ここには分離がある、分離感こそがリアリティーだ

OSHO:
もし、あなたが神(である事)を忘れる事がなければ、
あなたは一体どうやって神を思い出す?

それゆえに、「タッチ(再会)」の巨大な感激を味わうことが可能なのだ

分離したが故に、忘れていたが故に、“死”が存在しているが故に・・・・


それゆえに八百万のバリエーションのサウザンド・オブ・ゴッドが
生まれ、共同生活している

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サウザンド・オブ・ゴッドが実在する世界を、ファンタジーに過ぎないと
鼻でせせら笑うことが許されるべきだろうか?

そこにこそジャスティス=正義という言葉の重みが浮かび上がるのだ

無数の神々を礼拝しつつ、でもその中心には自分=ワンネスがある

それが都留晃一氏が表現したいことではないのだろうか?