わたしは・・・・

物心ついた時には、もう、死への恐怖に取り憑かれていた
孤独と不安に際悩まされ、母の話だと叫び声をよく上げて
いたそうである。

その時の苦しみはある程度記憶にある。

性への目覚めが起きる小学生の頃より、
性の営みは、私にとって神話だった。

ふたりが、例え瞬間であっても重なり合い、
この冷たい世界で、肉体を共有できる瞬間があるだなんて
なんて素晴らしいことだろうか?

そんな瞬間を神話的瞬間と言わないで、
それ以外に、何と言えば良いんだろう?


でも、実際に異性を意識するようになった時、
私は立ちすくんだ。

“神話的”と感じていたこと、それ自体が
わたしのカルマ?
   ・・・・一種の性に対するブレーキも暗示していた。

両親に対して、受け入れて貰えていないような不安を
抱いていた私は、異性に対してはなおさらの畏怖を
感じざるを得なかった。

   ・・・それは今思えば、母の性に対する敵対意識が
     そのまま私に乗り移っていたと言うことだと思う。

まあ、原因はなんであれ、その畏怖は相手への深い尊重へと
結びつくならば本来悪いものではないのだが、実際は
それは私自身の存在への罪悪感と結びついて
私を異性へと向かう気持ちに強烈なブレーキとなった。


輝きに満ちているはずの思春期の多くは、だから
私にとってはカビの生えた独房のような気の遠くなるような
陰湿な時間の連鎖だった。


ある日、それら
“シリアス”なわたしの人生観は
“セクシャル”な笑いへと180度、大転換した。


その翌日、私は結婚する女性と出会った。

意識の変化が、如何に人生に劇的な変化をもたらすかを
身をもって体験した、途方もない奇跡の瞬間だった。



そしてその時を20年以上経過した今振り返って思う。

・・・わたしがもし子供を授かるならば、
   性の素晴らしさを真剣に子供に伝えて上げたいと

性を祈りにしたいと願った私の幼少時の、少なくとも
その次のステップから、わたしの子供には歩ませて上げたい。

シリアスである時、人は決してセクシャルではあり得ない
そして、セクシャルであることを自らに赦した時、
そこにはシリアスさが落とす陰湿な影は消えている。

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祈りは真剣なものではあっても、
それは深刻なものとは全く違う。

愛と笑いと恍惚が輝いている時、それが本当の祈りとなる。

そこには全面的な吾と汝との存在の同時肯定がある。


性に憧憬し、それを祈りとしたいと願った子供の頃の私は
“理論”としては半分正しかったが、実践に際しては、あまりに
(ガキのクセに、かわいげが無く)頭でっかちだった。

そこに気がつくのには長く苦しくストイックな煩悶の時間と
素晴らしい女性達、そしてOSHOとの出逢い、そして思索が必要だった。

キリスト教の宣教師(エヴァンジェリスト)だった2代前の前世において
蓄えられた“頭でっかちさ”が、今生における、まずは第一のハードルだった。

現在の私は、キリスト教にさまざまな矛盾や邪悪さを感じるが、
中でもその一番のタチの悪いドグマは、マリアの処女懐妊という点だと思う。

この背景には、性への攻撃、性を汚らわしいものと見なす邪悪さがある

なぜ、イエスが、ヨセフとマリアとの健全な性の営みによる光の誕生と
見なしてはいけないのか?

OSHOは、愛の錬金術に於いて、この処女懐妊説を
一種のメタファー(例え)として読み解いている。  ・・・・つまり

マリアが肉体的に性の経験があるとか無いとか言う前に
とても清らかな、無垢な心の持ち主だったのだろうとOSHOは言う。

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バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる


性の経験によって、もし、女性が汚されると言うのなら
じゃあ、神だけがその特別な例外だというのだろうか?

  ある種の貞操観念は自然なものだと思うが、男性が非処女の
  女性を指さし、「中古女」と表現しているのを見かけるといたたまれない。

  あなたが男性で、もし愛する女性が他の男性を愛した経験があるならば
  なぜ、そのことに敬意を持てない?  ・・・「汚された」と感じるのか?

  ある女性と出会い、恋に落ちる時に、
  その女性の履歴書が必要なのだろうか?
  その女性の過去にした選択をなぜ尊重できない?

  あなたが愛する女性が選んだ男性なのならば、
  その彼もきっと素晴らしい男性だったに違いない。

  なぜ、性の体験で女性が穢れるのか?
  世の中で、あなただけが神であり清純な男性で、
  他全ての男性は穢れているとでもいうのだろうか?

  あなたも例外でないならば、つまりは女性を汚す
  男性とは全て、病原体と言うことになる

  意に反した強姦は例外だとしても、
  性によって汚されたと感じる女性もまた同じだ。

  もちろん真実の愛を問題視するのではなく
  「家系に穢らわしい女を加えたくない」という考えはあるだろう

  でもそうであるなら、完全に無菌室のような中で生活してきた
  女性の中から探すしかないだろう。

  外界の男性という病原が一切存在しない世界の女性の中から

  つまりは近親相姦だらけの純血種の世界な分けだが
  それはそれで、奇形や知恵遅れの温床になるだろう

  男と女の出会いには、確かに大きなリスクが伴う
  それゆえ慎重であることに異議はない

  しかし、そのリスクを回避しようとしても、その結果は
  種としての弱体化という、より確実な危険が待っている。

  出会いと性のシステムは、大きなチャレンジ、アドベンチャーを
  私たちに突きつけるが、それゆえに神聖であり、それは新生なのだ

  性をけがわらしいと見なす者達とは
  つまり、自分自身も含め、性によって誕生した
  全ての生命を穢れた存在と見なしていることになる

  つまり性の恍惚を神聖なものと見ず、
  全生命の存在を否定し、罪悪視することが
  聖母の処女懐妊ファンタジーの根幹なのだ


この観念も「天の父」がばらまいた害毒なのだろうか?

神にとってマリアとヨゼフは愛すべき子供達であるはずだ。
そのふたりが愛し合って、イエスが生まれる・・・

      それを神自らが “割って入った” =間男したというのか?

   だとすれば、神自らとマリアの両方が、律法を犯したことになる。

    すべてのクリスチャンに私はまじめに真剣に、問いただしたい。

    「本当の、本当に、おまえらはイエスが水の上を歩いただとか
     処女から生まれただとか、心の底から信じ切っているのか?」っと

    「本当に、一ミリの疑いもないのか?」  っと

          ああ、もっと簡単な問い正し方があるね

                      「あ~んちゅー くれいじー!???」


聖☆おにいさん03_007
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もし、神が人間に律法を授けたというならば、
その規範となるべきなのは、神自らであるべきじゃないだろうか?

この性への罪悪感と精神倒錯とで、
キリスト教社会は二千年間苦しんだのではないだろうか?
私の子供時代のように???

確かにイエスは神を「天の父」と呼んだのかも知れないが、
であれば、「地の父」ヨセフの立場はどうなる? 
神(パパ)に妻を寝取られた男は
どんな人生を送らなければいけないのだろうか?

さぞかし、マリアはいいオンナであっただろう。
(わたしには若き日の吉永小百合のようなイメージがある。)

そして彼ヨセフは、せっかくそんな白百合のような女性の
夫でありながら、「神のお手つき」となってしまった自分の妻と、
一体どう一緒に暮らしていけばいいのだ?

可哀想なヨセフ!

毎晩、目の前の可憐な妻をおかずにオナニーしながら、
自分を静め、賢者タイムになったら間男パパに祈りを捧げた
のだろうか?

こんな性的倒錯こそが、キリスト教の全ての狂気、倒錯、精神病理の
根底ではないだろうか?

ドラマ「華麗なる一族」とは、まさしくこのあたりが
テーマであったような気がする


きっと純粋なマリアほどの女性が嫁いだ男なのだからと思うと、わたしは
「十二人の怒れる男」の建築家である主人公、ヘンリーフォンダの姿と
大工のヨセフが重なって見える。

イエスほどの男が、そんな性的に不健全な夫婦の間に育った人物とは
到底思えない。  きっと父親ヨセフは公心のある勇敢な男であっただろう。
そして、息子に対しても愛情深い男であったに違いない。

そうでなくて、どうして全人類を愛せる男が育つだろうか?


そう、
確かにイエスは小さな家族の枠組みを超えた
無限大の愛を人々に示したかも知れないが、
それだってその根底(ルーツ)に、まずは両親の
愛情深さあってこそ、ではないだろうか?

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