覚者と物理学者の対話 「時間の終焉」




死後の世界に関して、いくつかは確実に言えそうなことを列挙しよう


・・・・まず、脳みそは腐っちゃう、喉も舌もなくなっちゃうから、
       言葉は使えなくなる。しゃべれなくなる

・・・・ごはん、食べれなくなりま~す

   消化器官も、箸を持つ手もなくなっちゃうし、必要なくなるから

・・・・歩けなくなる

   やっぱ、足はなくなるでしょ?

   よく、幽霊には足がないというけれど、やっぱそうでしょうね

   ってか歩く必要ないじゃん?


  ・・・・つまり肉体が無くなると言うこと
     それって、三次元での“膨らみ(体積)”がある世界と
     オサラバするってことだ


      もし、死後にも生命がなにがしかの“存在”として残ったとしても、だ。


    この三次元でのアイデンティティーの中に生きているわたしたちにとっては
    イメージし難い世界観だけれど、肉体を去ると言うことは、物体としての
    属性を失うと言うことなのだから、手足や頭、胴体(内臓器官)を失うことも
    当然だ。

    そのかわり、無限のエネルギー体である可能性はある

    あらゆる可能性に満ちた無限のエネルギー体であるのならば
    「記憶」のような情報系や、判断能力系は死後も
    存続する、あるいはずっと存続していたという可能性は存在する...
   
“肉眼で三次元的にキャッチ出来るハードウエアー”が無くなるだけで...

     そして無限のエネルギー体であるならば、死後も頑固に人間の
     形態を忘れられず、生前の肉体の形状を再現したエネルギー体
     として、人間のカタチにこだわり続けると言うことも有り得る

     ・・・・人呼んで、それを「幽霊(つ~か、亡霊、つ~か)」という


     まあ、そんな「三次元への執着を手放せない頑固者」は、この際、
     放っておくとして、(おまいらさっさと成仏しろよ!)三次元のフォームを
     離れても尚、なにがしかの「存在」で有り得るのだろうか?

     「太さのない線」や「広さ、大きさがない点」などというものは
     この三次元などにあり得ない、・・・・・  それは言い切れると思う。

     だってこれは
     「三次元上に実体がないモノは三次元に存在しない」

       つまり単なる同義語、言い換えに過ぎないからだ。


ではそれ(三次元)以外の世界は有り得るか?っと尋ねられれば
わたしたちが今、たとえ知覚できなくても、存在する可能性は限りなく高い。

私たちは日常で野別幕無しに思考して悩んでいるわけではない。

ぽやーっと何も考えずに、ただ何となく平和で、ただ何となくハッピーな時間が
結構沢山ある。

これは私たちの両親、そのまた両親・・・つまりご先祖様が汗まみれ血まみれで
頑張って、物質的に豊かで、平和で、そのことに煩わされる時間から解放してくれた
賜(たまもの)なのだ。 (どんな王侯貴族でも、昔はクーラーも、冷蔵庫も、洗濯機も
無い生活をしていたのだから・・・・)


「心頭滅却すれば火もまた涼し」
聖☆おにいさん03_001

いや、現代の私たちは
「クーラーのリモコン、ポチれば熱帯夜も涼し」でおkおk!!

実はこれって非常にニルヴァーナの状態に近いわけで、もっとも高次な
意識状態な分けだ。     ・・・あり?  これって“瞑想状態”ってやつ???

     ただし、この“恍惚の意識状態”って、残念ながら
     記憶中枢を通らないから自覚しにくいのだ。

     私たちが自分の肉体のアイデンティティーを噛みしめられるのは
     メインが“苦痛”とか“集中、思考”状態、〝自覚的努力”の状態なのだ。

     それなら記憶中枢を刺激するので、つまりは“思考が自分だ”という
     なんとも不幸で古くさく、ケッタイなアイデンティティーだけが残る。


日常では“リラックス”している意識状態は意外に凄く多い。

“忘我”の状態の方が断然多い。

ただその感覚は持ち帰れない

なぜなら“持ち帰る人”がそこにいないからだ。
“忘我”=つまり自我が解体してしまった状態なのだから・・・

そして、そういう状態であることに不安を抱いてしまうからだ。
そういう状態に“罪悪感”を抱いているからだ。

人生のJOYとは、そういう状態に罪悪感を持たないお金持ち、
いわゆるセレブ(祝福された者達)だけの特権(本当はそうではないけど)
になっている。

ただし、そういう人達が永続的にそうなのか?と言えば、
そんな保証はない。

ひとたび、何かの運命のイタズラでそういうシエスタ(うたたね)の
ゆりかごから転げ落ちたら、それでも自力で戻れるのはこういう
法則を会得している人だけだ。

世界とはもうひとりの自分の姿なのだと判っている人だけ・・・

恵まれた状況をただ当たり前だと思っている人達が、ひとたび
転げ落ちた時は、いわゆる貧しい人達の状態とは比べものに
ならない程、目に余る惨めな状態になり得る。

金魚鉢から放り出された金魚が戻れる確率の問題だ。

ただし、自分自身で金魚鉢を作っているという自覚がある金魚ちゃん
だけは、金魚鉢にワープしてすぐ戻れる。


忘我の状態こそが、本当の自分の状態なのだ。
その証拠に、記憶はハッキリしていなくても、

    そこに意識があったことぐらいは
    私たちは覚えている。

この思い出しの作業は「いまここ」の体験とは言えないかも知れないが
少なくとも今の生活と、それをもたらしてくれた・・・
ご先祖様に対する感謝と祈りの瞬間である、とは言えるだろう。

恍惚状態とは何かというなら、つまりはあらゆるDimension(定義)を
忘れている状態だ。  つまり、“無”へと意識が帰還している基底状態だ。

悩んだり慌てているときというのは、意識に極太ゴチック体で何か書いて
いる状態だとも例えることが出来る。

ところが、デフォルト状態こそが、わたしたちの“素(ス)”の状態なので
その状態は、(文字が書かれた、あるいは何も書かれていない)
ホワイトボードの状態だと言える。

   ・・・この“ホワイトボード”を目撃しえるか?

これが瞑想とは何かという問いへの解答へとつながる。
これがパーフェクトな死(=生)の状態なのだ。

じゃあ、たとえばいまこのブログを読んでいる瞬間などの
いわゆる“通常意識”といわれている意識状態にあって
この「ホワイトボードはどこに消え失せているの?」と
あなたが問うとしたら、それは「デインジャラス・ポイント」に
触れる質問で、実はどこにも消えてはいない。

単に「ホワイトボードの上に自分で書いた文字」に
アイデンティティーを置いているから見失って
しまっているだけだ。

そして、その「文字を書いている自分」さえ、メカニズムなのだ
これ(思考)を別段止めたり咎める必要は、微塵もない

ホワイトボード自体はどこに逃げも隠れもしないのだから

ホワイトボードの深い恍惚(光)意識は、ちゃんと同時並行して
常に私たちの表面意識を見守っていてくれている

もし「何かすべき」ことを言うならば、この光である
本当の自分自身の存在を信じ、委ね、信頼することだけだよ
っと言いたい。

なぜなら、この「2人の自分」という分裂を起こしている
壁とは「恐怖感」だからだ。  ・・・だからそれを薄めていけば
その壁も錯覚として消えてゆく、

逆にこの壁を無理矢理急いで突破しようとするときは、
全世界から置き去りにされるような凄まじい恐怖を
味わうことになる(私の体験だけどね)

この、恍惚状態の中にあっては、

時間も空間も、(目の前にあっても)意識していない
消失している  ・・・ってことは

つまり・・・・   なんだなぁ・・・

わたしたちは、時間と空間の前から存在していた

                    という分けだな(笑)

つーか、時空間というのもディメンジョンなのだから、
FFD(freedom from dimension)=“無”である
わたしたちが時空間のクリエーターな分けだ。

そんなに時間に追われていない時間とかに、たとえば道ばたを
テクテク歩いていたとしよう・・・

すこし、いつもより意識的にゆっくり、のんびり気楽に歩いてみて下さい。
するとだんだん、なんとなく時空間が高速シャッターで書き換えられている
ような感じを捉えられるかもしれません。

その時、死もなく生もないです

ただただ、すべてが、  在る  状態です

つまりこれは、このブログにおつき合い下さったあなたが
Dimensionの外に抜け出しかかっている証拠なのです。