映画「ジャッジ・ドレッド」の中での
ドレッドとアンダーソンとの会話。

アンダーソン
「先輩、コイツが犯人です」

ドレッド
「確率は?」

アンダーソン
「99%」

ドレッド
「100%でなければ裁けない」

ジャッジ・ドレッドの中には12人の怒れる男が
いることが、このなにげないシーンに表現されている。



「無罪だと言ってるのじゃない、この人は確信がないと言った」
「それは勇気ある発言だ」

99%であろうが、たとえ、99.9%であろうが、質は同じだ
それは100%に幾ら近似値であっても
100%とは、次元が違う。

この一厘(0.1%)にこそ神が宿る

じゃあこの一厘の中身は何だろうか?

“確信”とはなんだろうか?

それは、
「状況証拠」「推論」と
「現行犯行の目撃」との違いだ。

そこには“タッチ”(接触=ダイレクト・ノウレッジ)の差がある。

人が確信が持てる体験とは、
人が癒される体験とは、  “タッチ” なのだ。


もちろんそれさえも、他人から見るなら疑わしい
本人の何かの事実誤認である可能性は、外側からでは
払拭出来ない。

ドレッドがアンダーソンに、なぜ問うたのか?

つまり言い換えるなら、
彼女に「おまえがタッチした事実なのか?」と尋ねたわけだ

その彼女からの解答がどうであれ、ドレッドはそれを
尊重するつもりがあったから質問したのだ。

なぜなら、「タッチした確信」であるならば、たとえそれが
何かの間違いであったにせよ、その間違いを彼女は
“背負える”からなのだ。

そして修羅場での相棒というのは、運命共同体である。
ドレッド自身も、彼女の確信に運命を委ねざるを得ない。

つまりそこにはアローンネスの問題がある。

人は、タッチしたものになら確信が持てる。

人は、タッチした時に・・・・
   何か「絶対性」に触れたとき、
              アローン(=神)になる・・・・

そして、“それ”に触れたとき、人は“そこ”に殉じることが
出来るものなのだ。



わたしたちは死にものぐるいで、命がけで、
“タッチ”出来るものを探すべきだと思う。


でも、この情報社会では、タッチによって確認出来ないことは
氾濫している。

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わたしたちはもう、自分たちの目や耳の延長としてマスコミを
信頼することは出来ないと悟った。

情報は操作しうる。

宇宙戦艦ヤマトでは、波動砲発射の際には沖田艦長は
100%のエネルギー充填でも信用しない。

一発勝負、やり直しが利かない場合は、どうしても120%が
必要なのだ。  ・・・それでやっと、信用は99%なのだ。

つまり、エネルギー充填120%であれ、実際には100%に達しない。
波動砲だって、所詮は道具に過ぎない
ただし、【それでもダメだったなら、諦めは付く】

これが「信用」と「信頼」との違いだ。

この違いのなかにFAIR(公心)は存在する。

99.9%に騙される者達には、信仰心などと言うものはない
彼らにあるのは、FEAR(恐れ)だ
数学的な確率論があるだけだ。

信仰心があるなら、0.1%の絶望的なギャンブルが出来る。

なぜなら、信仰心とはもはや結果としての「のるか?そるか?」
とは無関係な確信=タッチがあるからだ。