Landscape tree1024

何人かの人々から、・・・・

「自殺ってイケナイんですよね?」

っという質問を何度か受けたことがある。

基本は
だいたい以下の様に答えてきた

「“しちゃダメ”と宗教で禁止されるから
しないんじゃなくて、この人生をカルマに
支配された“罰ゲーム”と考えるか?
どうか?だとおもうね」

「もし、今の人生を
  “辛い” “糞ゲー” と思っても
  こんなの“無理ゲー”、ログアウトしたい!

                と、泣き叫んでも、・・・」

「それが

   自分自身で仕掛けたゲーム、

   自分は肉体意識の時には苦しむだろうけれど
      是非それをひっくり返したいゲーム

なのだと自分自身でプログラムしたのだとしたら、
自主的な“リタイア”の後に、霊界で
『うわっ、しまった』と思うんじゃないかな・・・・   ?」



エイブラハム・ヒックス~『最高に意味ある質問』


虫にぶつかったぐらいで
吠えズラかいて
自殺したがってんじゃねえぞ
バーロー

「そよ風と私」を楽しみに来たんだろうが?

“しちゃダメ”という何かの信条で自分を縛り付けて

   だからボクは自殺しないんだ!
    だから私はしょうがないから生きてるんだ!

な~~んてホザくのは、

肉体を準備してくれた
この宇宙、この地球、この国、この国の自然、
この肉体の先祖、両親、
愛してくれた人達
見守ってくれた人達
長寿と繁栄を祈っている存在全てに
唾を吐きかける態度じゃないんだろうか?

だから、今はこんな解答も面白いかも知れない

「自殺したって別にいいかも知れないけれど・・・」

「でももし、自分で望んで自殺するなら、せめて

一切の罪悪感抜きで、(トータルに) タップリ

断末魔の苦痛を楽しんで 味わい抜いて、

自殺するべきじゃないかなあ?」

「だって、折角、自分自身の念願が叶うんだろ・・・?

だったら人生の最後のビッグイベントをタップリ楽しまなきゃ
損だよ?」


それぐらい、舌なめずりして
 ウキウキと楽しみたいぐらいじゃなきゃ
  自殺とか・・・  やめとけよ と思う。


OSHOは言ってた

「動物たちのセックスしている時の顔を見てご覧」
「凄く悲しそうな顔をしているよ」
「セックスを“楽しむ”のは人間だけなんだよ」

OSHOは「秘境の心理学」でこうも言ってる
「人間は自殺を自分自身で検討し
 選択肢にしうるほど進化した生物なんだ」

だから、
「生きるべきか死ぬべきか?」なんていう最大事な問題を
他人の意見に影響させてしまうだなんて!
一体、どういう了見なんだろう?

そんな質問自体が、
「私には死の準備がまだ出来ていません」
「私は怖いです。どうしましょう?」
とすがりついて泣き叫んでいるようなモノなのだ。 

死の瞬間とは、
どれ程優しい人が手を握ってくれても
三途の川の向こうまでは
同伴してくれないもんなのだよ?

死とは、間違いなく
マスターベーションよりも、
とてつもなくプライベートな恍惚の瞬間だ・・・

それは、人生のラストシーン
       人生のクライマックスシーンだ。



食欲とは生存欲の一種だ。

睡眠欲も、 性欲も・・・

でも、
次世代に席を譲る為に
本能によってやむをえず
追い立てられて、悲しげに
セックスし、
エサに食いつき、
排泄する犬の様である必要は無い・・・

  ではなく

性欲を、
食欲を、
あらゆる欲を、
必要性を、

ブラブラ散歩すること、買い物すること、働くこと・・・

     呼吸すること・・・
     一杯の茶をすすること・・・

すべての生の営みを
   より瞑想的な、官能的な
     楽しみへ、悦びへと・・・・

転換可能な、生き物なのだ。   ・・・わたしたち人間は。

Joy 喜び (海外文学)
OSHO
角川書店
2013-10-01


だったら折角だから、苦しみも大いに楽しんでは
如何だろうか?  (皮肉で言ってるのではない)

もちろん、普通の感覚だったら
歓びは引き寄せ、
苦しみ悲しみは遠ざけるものだ。

              私も断然そっちが好きだ。

でも、どうしても回避出来ない苦しみは
いっそのこと、楽しんじゃえばいいのではないだろうか?

雨が降れば傘をさせばいい。
傘を持ってなければ買えばいい
傘が売ってないなら喫茶店なんかで雨宿りしても良い

スケジュールはちょっと違ってしまうけど
雨宿りしながら、眺める街の光景も素敵だ。



でも、雨宿りさえ出来ないような
原っぱのまっただ中で雨に降られたなら・・・もうギブアップだ

たとえ、銃弾の雨の中で蜂の巣にされてしまうのだとしても
う~~ん、それならそれで、貴重な体験じゃないか?

いっそのこと、雨に唄えばいい

人生で持ち帰ることが可能なものって、
宇宙で唯一、あなただけが体験した思い出だけなのだし・・・



関連動画にこんなのがあった

「座頭市ダンス - 日本のタップダンス」


江戸を開国し、明治時代の到来を促したのは
アメリカだった。

そしてそれは太平洋戦争という血まみれの
闘いを日米間にもたらした。

しかし、この「雨に唄えば」を見て思った。

日本は確かに酷いメにあった。
米国の国民も沢山傷ついただろう

そこからユダヤ問題へと話を分岐していくのも良いだろう

だけど、ここでは言いたい。

私たちは、アメリカからタップダンスを学んじゃないか?
ジャズも学んだじゃないか?

土砂降りの雨を笑顔で受け止めることをアメリカから
学んだじゃないか?



もし、ホンモノの江戸時代のちゃきちゃきの江戸っ子が
このダンスやジャズを見たら気に入ってくれるだろうか?

きっと、
「おう!俺たちの子孫もなかなかやるじゃねえか?」
っと、褒めて貰えるような気がするのだ。

勝海舟は咸臨丸で渡米し、アメリカの議会の視察をした。

その時、白熱した議論を交わす議員同士が、
休憩所では談笑しているのを見かけて眼を剥いたそうである。

「日本の議論ではあり得ない光景だ」と、
「意見の違いで決闘沙汰になりかねない」と、 感想を述べ
日本人の“了見の狭さ”を嘆いている。

幕末に勝海舟が訴えていた日本人の、
この“了見の狭さ”は、未だ根強いとは思う。

しかし反面、何者にも屈しない、しなやかさも
日本人は強く持つ・・・・

    ・・・・311は人工地震だ。

ロックフェラーが首謀者であろうこの巨大地震では
あまりに多くの人が惨い死に方をした。

    ・・・・でも、それはそれ、だ。

瓦礫から救出された、元日本軍兵士の老人は
爽やかな笑顔でカメラに言った。

   「また、やり直せば良いんですよ!」

苦しみを乗り越える。
悲しみを歓びに転換しちゃうのは、人類のみに可能な
偉大な挑戦だ。  だから自殺だって!!

和尚ネオタロット:48.Challenge
   挑戦
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)




私がギリシャ神話で一番好きな神は、何と言っても
断然、虹の女神イリス

イリスはギリシャ神話の虹の女神です

いつも人々の心に虹の架け橋をかけ、争いをなくし、
人々の心に希望を齎す心優しき仲裁の女神です。

あらぬ噂を立てられ、それに激怒したヘラからなじられ責められても、
ただ黙って微笑み、そして最後にそっと涙をこぼした彼女の涙が
輝く虹のようにヘラの心をとらえたので、ヘラを怒らせた神々の中で
唯一ヘラに許されたというエピソードがあります。
なお、映画「タクシードライバー」で主人公トラビスが
売春宿から救出した少女“アイリス”(ジョディーフォスター)とは
この“イリス”の英語読みで、エジプト神話ではイシスだ。
トラビス(ロバート・デニーロ)が、彼女に執拗に名前を聞き出す。
彼女はウンザリした様に「アイリス」と名乗る。
「アイリス!  なんだ良い名前じゃないか!?」と
彼女の名前を称賛するトラビスの表情が印象的だった。

ドラマ「この世の果て」でも三上博演じる高村士郎が、嫌がる
マリア(鈴木保奈美)に名前を聞き出すシーンがあるが、
wikiによると実はイリス神は聖母マリアとも関連して考えられて
いるそうだ。

つまりこの
映画「タクシードライバー」のシーンへのオマージュ
なのかも知れない

-------


「んな馬鹿な!」とあなたは言うかも知れない

「自殺したいほど思い詰めている人をからかっているのか?」
ってね

でも、わたしは、死を楽しみに転換出来ない最大の理由は
やはり罪悪感にあるのではないか?と睨んでいる。

罪悪感は、恐怖感を何倍にも増幅する。
恐怖感は痛みを何倍にも増幅する。

そして、それ程までに増幅された、想像もしたくないような
痛み、苦しみは、こんどは恐怖感にフィードバックされ、
恐怖感は増幅する。

そして恐怖感はますます。罪悪感を増幅させる。

果てしない無限ループ、悪循環である。


これを味わいながら、自殺するだなんて
そうとう凄まじい体験だろう。

俺はノーサンキューだけど

でも

“自殺志願のアナタ” は、別にい~~んじゃない?
殺したいほど自分を憎んでるのならば・・・
むしろ、気分爽快じゃない? 
そんなにも憎たらしい「自分」が苦しむことは?

それとも、

自殺そのものも
だれかに、何かに責任転嫁したいのかな?

「アイツが悪いから、世間が冷たいから
俺は “本心では” 死にたくないのに、自殺せざるを
得なかったんだー!」  って?

だとしたら、つまり自殺とは
“自殺志願のアナタ” にとっては
究極の責任転換、抗議手段なのかな?


時として、身体の一部に過ぎないはずの頭脳は
自分が身体の所有者なのだと錯覚して暴走する
そしてそれを証明しようとして、肉体を傷つけてみせる

食べ過ぎたり、断食したり
狂った味覚で変なものを拾い食いして
胃腸に迷惑をかける

脳はバカ、腸はかしこい
藤田 紘一郎
三五館
2012-10-20


頭脳は生そのものを見落として、
あとから付け加えられた価値観や美学、
信念、信条、見栄、こだわり、対人関係性、
希望と絶望の為に、肉体を消滅させようと
企んだりする。

たとえ自殺ではないにしても、私たちの肉体には
神経が通っている以上は、死に際して
肉体を痛み付けられたり、切り刻まれたりすれば痛い。

肉体(本能)がそれを恐れるのは自然なこと
だ。

神の径(みち)=つまり神様の通信経路と書いて“しんけい”である。

だからもしあなたが神の声を聞きたければ
最も簡単で日常的にハッキリしたチャネリング方法は、
肉体をいたぶることなのだ。

すると神(ハイヤーセルフ)は即座にハッキリ返答してくれる。

「あ、痛ててて・・・・、コラ!酷いじゃないか!」

「私が与えた大切な三次元スーツだぞ!大事にしろよ」


そう、だから人は痛みを感じているとき“生”を実感出来るのだ。

それは恍惚~エクスタシーよりもカンタンに、素早く、間違いなく
持続的に、確かな手応えで、神の声を聞き出せる手段なのだ。

でもそれは、肉体の消耗、破損と、・・・・
罪悪感や自己否定感、不安感をも増幅させうる諸刃の刃なのだ。

そして、痛みは如何なる麻薬よりも、カンタンに手に入る
常習性のある合法ドラッグだ。

OSHO_1

だから、だんだんそれは恒常化し、エスカレートしていく
肉体の崩壊も、ある段階を越えたところで加速していき
落下からの脱出が急速に難しくなる。

自尊心も蝕まれやすくなる。
最終的には、
神経体は肉体から離れざるを得なくなる

だから、こういう、「セルフ・サドマゾ・ショー」による
病気や怪我で死んでいく人とは

見かけ上(社会的に)は自殺とは言われない、見なされないけれど、

広義には自殺者なのだ。






ここまでおつき合い下さった方にプレゼントがあります

それは、「アカシック・レコードはどこに存在するのか?」である。

アカシック・レコードとは、あなた自身のことだ。

そして、あなたの宿っている肉体とは、DNAとは、
物理的に表現されたアカシックレコードであり、
骨格は、外部アカシックレコードと通信する為の
アンテナなのだ。あるいは音叉と言っても良い。

私のこの文章を読んで下さっていると言うことは
あなたの肉体は地球で今も活動中な分けだが
それが活動を停止したとしても
地上にあなたの骨が存在する以上は
アカシックライブラリーとしての違いは
RAM(書き換え可能)か?
ROM(アーカイブ)なのか?
    ・・・・の違いに過ぎない。

骨格は、あなたの肉体が無くなってもなお、
あなたがこの地球に存在したことを“証す”
物証であり
仏性なのだ。

だから先祖供養とか、墓相とかいうものが、
意外に、科学的であり、重要なのだって、ピンときましたか?

なぜ、ロスチャイルドが日本を羨ましがってるのか?
ご理解頂けましたか?


どうですか?

あなた自身がどれほど途方もない存在か?
その片鱗だけでも感じて貰えたでしょうか?

自己受容、自己尊重が、どれ程重要なことなのか?

わたしたちは、いつも眉毛をつり上げて前方に向かって
人差し指を突き出して、何か(カネ、権力、趣味、自己実現etc)を
探し回っているけれど、

全宇宙を光の速度で何万年探査して回っても、
あなた自身は見つからない。
    見つかるわけがない。



自己探求とは、探求(捕食行動)終焉なのだ。

自分の内面に向かって、たったひとりで
後ろ向きに倒れればいいだけなのだ。

和尚ネオタロット:
46.Serching,Seeking,Questing
   探すこと、求めること、探究すること
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)

46miner1_wands08


天上天下唯我独尊
全世界で、自分をもっとも知っているのは自分だけ

・・・すると、(誰であっても)わたしという意識
   それ自体が全宇宙のライブラリーなのだという結論に達する
   それ以外、あり得ない、それがアルファーであり、オメガなのだ

それはそのまま、即、全ての存在に対する絶対的な尊重へと連鎖する。

それが、ネットワーク・データバンク=ユニバーサル・ネットである。


まったく最悪感のない自殺をイメージしてみて欲しい

それが、霊界への入り口なのだ。