“無”の定義というのは実に難題だった。

しかし、もし今回の私の仮説が正しいのだとしたら
これで一気に“神秘”と呼ばれている “コト” のほとんどが
説明可能になる・・・・


 無(ム)とは、....

英語のナッシング「何もない」、のではなく

     『全ての定義から解放された状態の名称』

である。




    まだ、誰も見ていないところで、誰も見たことのない花が
    今日もきっと地球のどこかでひっそりと咲いている

    それは、“無”の花・・・・  それこそが、最大の神秘じゃないだろうか?

  「すべての定義から解放された状態・・・それが 無 の定義」

        だとしたなら、パラドックスを使うことによってのみ
                  「無」とはやっと定義できるのだ。


 ・・・ こう見てみると、たしかに純粋に数学的な意味での数字の
    “ゼロ” とは、 “無” と非常に似ている。

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OSHOは私が知る限り、二回、無の定義について
以下の様に返答している。

「無、とは“ナッシング(何も存在しない)”じゃない、
          “ノーシング(事物ではない)”だよ」

現代のドイツ人禅師、エックハルト・トールも
(彼がOSHO読者なのかどうかは知らないが)
全く同じ返答をしているのを見かけた。

人類史上、この“無”という言葉は
体積や質量などがナッシングであるという解釈を受けてきた。

メートル単位で距離を表現するX軸を想定してみよう

1m~2m~3m~....

これを延長してゆくのではなく、逆にゆっくりと原点に近づけていってみよう

たとえば分数を用いて

1/2m( =50cm)~ 1/3m(33.3cm)~ 1/4m(25cm)~~

こうして分母をどんどん大きくしていけばどんどんゼロに近づく
さてそしてそれが1/∞mとなった場合....

とうぜんそれは限りなく限りなく“小さく”なる

それは≒ゼロ(メートルの原点)となる。

だからゼロとはその延長線上にあり、
だから私たちはその極微なるものが、遂には消滅した状態をゼロなのだと考えてきた。

「無」というのも、それに同じく「何もない」状態だと思ってきたのは当然だった。

ところが、ゼロというのは、例えば1と3との間が「2」である様な、単純な通過点
ではない。

   どれ程、微小であっても、
        超・極微量であろうとも、
           「有」と「無」とでは、
      「量的(物量的)」には無視し得るものであれ、
      「質的(エネルギー的)」には決定的な違いがある。

そこでは極性が変化する・・・・プラスからマイナス、マイナスからプラスへと・・・

たとえばリンゴの個数であれば、3個、2個、1個と減らしていく

そして0個となったあと、じゃあ次の-1個、-2個とは何か?といえば
自然界では“不足”を意味する。  ・・・つまり“借りとくね”というわけだ。

お金だともっと分かりやすい、つまり借金だ。

つまり、0個とは貸し借りないニュートラルな状態を意味する。

もし、1個、10個、百個、・・・と余剰な状態であれば、

「これ、リンゴ余ってるんだけれどミンナで食べて下さい」っとお裾分けしたり

市場で売ってお金に換えるとかするかもしれない。

どこかに腐らない様にストックするのかも知れない。

ジャムにしたりとか・・・


とにかく、「余分」であるということは、なにがしかのアクションを意味する
      「不足」であることも、なにがしかの困窮を意味する。

つまり、ゼロ=ニュートラルとは、単に何もないのではなく
「リンゴに関して何も問題が(過不足が)ない」という意味なのだ。

「リンゴ」にかんして「話題にする必要もなく、議論の対象でもない状態」
それがゼロ、ニュートラルの意味するところだ。


リンゴをカウントする為の軸線上とは、当然「リンゴを問題とした世界」だが
ゼロという特異点においては、それが消失しているのだ

その軸線上であるにもかかわらず・・・・


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     バシッ!・・・まっくろくろすけ死亡(TωT)



これは、ありとあらゆるパラメーターにも共通する。

それが何かの果物の個数であれ、長さや面積や重量の単位であれ

そのカウントの原点=ゼロにおいては「それが話題にも問題にもなっていない」
状態を意味する

ゼロとは、あらゆる単位(定義)が消失した点なのだ。

わたしたち日本人にとって、水や空気や平和は“無”に等しい。

でもそれは“何もない”という事ではなく、“意識しないで済んでいる”と言う意味だ。

中国の大気汚染やら、尖閣騒ぎによって、はっとする

当たり前の健康的な環境や平和のありがたさを・・・

「意識せずに済む」ということは、ありがたいことなのだ
それは「あって当たり前」であり、それは「無限の信頼」を意味する。

金魚たちの金魚鉢の環境に対する、「無限の依存」を意味する



逆の見方をすれば、ゼロとはありとあらゆるパラメーターに顔を出すことが出来る。

ゼロとは
あらゆる定義の“排除”なのではなく、
あらゆる定義の根底であり、基底であり
それでいて、
あらゆる定義からの自由であり、
あらゆる定義の解放である。


中空を飛ぶコマ・・・・  それは完全バランスの象徴だ!


あるときはリンゴの個数であり、
あるときは長さの単位であり、 
またあるときはエネルギーの単位である。


ここで見渡してもらいたい

あれを、これを、それを・・・・

すべてのものは、いろいろな角度、視点、価値観から定義することで
千差万別の様相を持っている・・・・

     ・・・・そう、

       「無」とは“何か”の不在なのではなく
      存在事物、森羅万象全てのバックボーンなのだ



     ・・・・そう、

        もう気がついたと思うけれど
        「無」とは「無限」なのだ。

  たとえば、「円(or 球)の中心から円周に向かって引ける半径を表す
         直線は何本引けるか?」

  答えは、「無数にある」となる。


  つまり、この場合の“無”とは、
        「一本もない」と言う意味ではなく
        「定義不能」を意味する。
        円周は点によって分割不能なので
        円の中心から無限に直線が引ける。

        「カウントは不能だ」という意味で「無数」なのだ。 

          点、線、面、体積・・・  次元の違うもの同士で
           比較したり、分割したりというのは「不能」だ

            だから単に「無い」のではなく「無理性」に、無の本質がある。
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追記:  OSHOの「存在の詩」の中に
         「“無”から与える」という言葉がある。

      また、同じく「存在の詩」の中に
         「本当の恋人同士とは“無”と“無”との出会いだ」というのもある。

      どちらも、素敵な言葉だと思う

      そしてふと思うのは、イエスが5千人分のパンを出したという逸話だけれど
      なぜイエスほどの人が、そんな馬鹿げた手品まがいのことをしたのか?
      疑問だったけれど、これもまた“無”から与えることのメタファーかもしれない

      つまり、「人はパンのみにでなく、神の言葉で生きる」という言葉と
      強く連携したエピソードとして考えれば、
      「神の言葉=“無”=“無限(の滋養)”」を暗喩しているのかも知れない

      「水の上を歩いた」みたいな奇跡話も、“無”の静寂性、絶妙なバランス性
      のメタファーとしてとらえれば、イエスが俗悪な手品師ではなかった
      と言うことになる