覚醒者
 その別名は
  両性具有者

性差別であれ、人種差別であれ、
差別のネタを外側(社会的、肉体的特徴)に見いだしている以上、
私たちひとりひとりは自らの差別意識を永久に克服できないだろう。

というよりも、
差別の根拠、理由を外側に見いだしてきたことこそ
わたしたちひとりひとりの中に
分離感、孤独感、欠落感を生じさせてきた。

つまり
「差別意識との戦い」それ自体が
新たな差別意識を生みだしてきたワケだ!(笑)。

外側(限定世界)に差異があることは、あまりにも当たり前の事なのだ。
その結果、差別がそこいら中に溢れていることも無理からぬことだ。
これらのシチュエーションに戦いを挑もうとした時から、
私たちは「ミイラ取りがミイラになって」しまうのだ。

ガリガリに痩せている人がデブと言われてもキョトンとしている様に、
その人自身の中にもともと差別意識がなければ、
差別「したり、されたり」で混乱した社会の渦中にいても
その様な人の周囲は平和なまま静寂に満ちているだろう。

だから右と左、男と女を「統合させよう」と奮闘している人達は
決していつまでたっても両性具有:アンドロギュノスとは成り得ない。
自分の本質が、
もともとそれらの分離、それらの闘争が起きる前の状態であることを
〝思い出した〟ものだけが、両性具有になる ( 否、戻る ) 。

だから恋愛劇の中で理想の異性とは
「追えば逃げる存在」であるのは当然だ。
例え肉体的な差異、性別の違いが見かけ上はあっても、
その奥に同質性がある者同士のみが、最終的には自然に惹かれ合うものなのだ。
誰かを追いかけている人は、またその相手も誰かを追いかけている(笑)
好いた惚れたの終わりのないチューチュー・トレイン。

その終着点は
「独立した個人同士の惹かれ合いなのだ、」
    っと、私はいままでと思っていたが、
   それは少し間違っていた様だ。
独立を自負している者同士は
そもそも他者を求めないし、その必要性も認めないものだ。

でも実際には、様々な社会的差異は残り続ける・・・
いろいろな人種、そして老若男女がいる・・・
そして皆がそれぞれの役割を果たしている。
しかし、
それらの差異に応じた役割分担自体は、必ずしも「差別」とはちがうのだ。

だから
これらのネットワークから自らを切断して、たとえ「独立」を宣言したとしても、
それは「差別社会を克服した」ことにはならない。
むしろそのネットワークからの切断こそが、
新たな差別の温床となるだろう。

ナチスドイツの被害者としてのユダヤの立場を強調する為に、
いわゆる人権保護活動による「差別はいけないことだ!」
といった「戦後の良識の流布」は為されてきた。
それによって確かに露骨な「差別主義者」は国際社会の片隅に追いやられてきた。
しかし、
「どうせ男は(女は)・・・」とか「これだから黒人は、白人は・・・」という風に
カテゴライズして誰かに石を投げた場合・・・、
それはとても微妙な形でではあっても
やはり、そして確かに、それは差別なのだ。

たとえ
その批判の内容がまったくの正論だったとしても、である。

その決めつけた言葉は
相手には、あるいは誰にさえも聞こえなかったとしても、
それが単なるあなたの「こころの中のつぶやき」に過ぎなかったにしても、
やはり、そしてそれはまさに、差別なのだ。

その相手をカテゴライズした上での軽蔑や侮蔑、差別意識は、
あなたの顔の表情にも、声や仕草にも、必ずにじみ出てくる。

世界は、この「見えない投石合戦」に満ちている。
それはアムネスティーには発見できないとしても、必ずある。
その点、可視的で露骨な差別主義なんてまだカワイイものなのだ。

この「見えない投石合戦」の最大の特徴とは、
被害者と加害者が同一人物でもあり得るであるところだ。
つまり、他者をカテゴライズして考えるクセによって、
内部の分裂が起き、他ならぬその本人が苦しむ。

---------------
この「被害者=加害者という内部分裂」に気が付いた時、
さまざまなピースがハマってくる。

私たちは、両性具有者に「成ろうと奮闘する」のではなく、
自分自身が「すでに両性具有者だった!」という自覚を
忘却してしまった本当の理由が、見えてくるからだ。

それは、このマトリックスの罠にはまって、
人々が熱演している「差別ごっこ」というタチの悪いドラマに
石つぶてをもって参加し、自己同一化し始めた
ところからはじまったのだ。

でも、
この秘かな、極めて自覚しにくい差別意識を自覚できた時、
私たちはこの握りしめていた石つぶてを即座にポトリと落とすことになる。
この、
他人に投げつけていた
すべての「カテゴライズ」「ラベリング」という石つぶてを手放した時、
それが同時に自分自身をも虐待していたのだとやっとこさ自覚する。

この覚醒が起きた時、
あなた自身がもともと両性具有だと気が付いた時、
その時あなたは「誰もが両性具有である」という事実を目撃するだろう。

別に世界がどう変化する訳ではない。
それはいつもの日常のままだ。

街を往来する男女の股間が変化して、
性別が世界から消えて無くなるという訳ではない。
あなたから性欲や、人々のベッドから性行為が消滅する訳ではない。
しかし、
性別という根本的なカテゴライズや、人種、文化、宗教の違いを超えて
あなたが世界中の人々を見る様になった時、
そこに残るのは〝個〟だけなのだ。
そこには〝自立した個〟だけが存在している世界が残る。