三角形
消えてなくなる
   法隆寺



「知る者と知られる者」という分裂が
   〝次元〟という概念を生み出す。

「観察者と観察対象」という
 直線(一次元)が存在しなければ
 客観科学は誕生できなかっただろう。

でも、この直線は忽然と生じたのではなく、
その前にすでに「隠れた母体(=マトリックス)」が存在している。

  つまりそれは〝概念〟そのものだ。

何かの観察対象を発見し、
それに対して特定の価値判断(=色、識、シキ)を下す時、
その背後には、それなりの時空間認識がすでに存在している。

「何か?」が、「何か?」のまま、未知に留まるのなら
そこには空間認識も、それをまとめ上げる概念も必要ない。

何かに対して「良いこと」「悪いこと」を判別する為には
そこに必ず「善悪の基準」となる別の概念が
〝あらかじめ〟用意されていなければならない。

これはてこの原理、
つまり「支点、力点、作用点」の三点の関係そのものだ。

何か判別すべき対象は「作用点」であり、
その判別作業をする自分自身が「力点」。
そして「力点」が「作用点」に作用する=判別する為には、
第三のポイント、「支点」が必要なのだ。

この「(認識主体である)自分以外の、自分を支えるポイント」を
外部にもっている時、
はじめて判別作業、あるいは作用を与える作業が可能になる。

この「支点」に相当する不動の絶対ポイントを
「神」としたのが宗教で、
「第三者の目」「客観性」と定めたのが科学だ。
そして哲学とはこの支点を「X」として、
この「X」そのものを延々と問い続ける。

 (そう捉えるならば、
  OSHOが
 「私は哲学を語っているのではない」
   という意味が分かる)

これらのいずれにせよ、
この
  「認識を支えるポイント」を
  「いまここの自分」以外に求めるのが大前提で
もし
  「いまここの自分」と「支点X」とが同一であった時、
  「支点、力点、作用点」の三角形は消滅し。
   認識対象である「作用点」もまた
  「いまここ」のなかに吸収されてしまう。

アカシック・リーディングに寄れば、
マイトレーヤ=弥勒菩薩とは、
『あなた自身がブッダ』という意味。
       ・・・なのだそうである。

OSHOはこれを、
「最良の友」「弟子とマスターの関係の消滅」と表現した。
そしてOSHOはまた、
「エンライトメントとは次元ゼロと言う意味なのだ」とも言った。

「知る者」、「知られる者」、「認識を支えるマトリックス」
 「始まり」「終わり」のすべてが「いまここ」のなかに消滅する時、
  スピ系でドヤ顔で語られる「次元」という発想も意味を成さなくなる。