一番の、
裏切り者は
 自分自身

わたしは小学生ぐらいの頃、
一度だけ、若い両親の軽いラブシーンを
自宅で目撃してしまったことがある。(笑)

もし今のわたしがその場面に
バック・トゥー・ザ・フューチャーしたなら、
子供のわたしの耳を引っ張って
「はいはい、ガキは向こう行ってようね?」っと
〝彼〟を、どこかに連れて行っただろう。

「あ、お父さん、お母さん、お気にせず続けて下さいね」
っと58歳の現在のわたしよりも若い両親に言い残して・・・・

いま、占星術師として両親の関係を見てみれば、
決して悪い相性ではなかった。
本当は仲の良いカップルとしての要素も合ったはずなのだ。

しかし、元大財閥系の企業での研究室長をしていた父。
その生活基盤の元で、
同じ企業系列の不動産デベロッパから一軒家までも
ローンで買った両親にとっては、周囲の目は絶対的で、
国際特許を幾つも持っていた優秀な男であったにもかかわらず、
家族の安定の為に独立起業という挑戦も出来ずに辛酸をなめて
サラリーマンを続けた父、そのやるせなさを慰め続けた母。

・・・私の両親である夫婦の関係は、
  まったく周囲を雁字搦めの世間体にガチガチに縛られたモノだった。
  それが本来は仲の良かったはずの両親の精神と関係性を蝕み続けたのだ。


だから、それを目撃し続けていた長男のわたしにとって、
     〝人生のかたき〟とは両親を苦しませてきた「世間体」だった。

しかし世界中の全てのカップルが、
私の両親のような「世間体に蹂躙された」ものだとは限らないので
わたしはOSHOが言うほど結婚制度の解体論者ではない。

また、
グローバリズムの侵食によって共同体意識が解体されている現代社会で、
子供達の安全でまともな養育が可能だとも思えない。
やはり子供達には実の両親の庇護が必要なのが、当然だと思う。

だがその一方、
やはり私たちの人間関係では、
非常に微妙なウソ、
というか、建て前、が
私たちの精神に忍び込み過ぎている様に思うのだ・・・。
それはあまりにも長い歴史の中で
何世代にも渡り、私たちを蝕み続けているが故に
その建て前を「建て前」「異物」として、
もはや私たち自身が自覚できない程、
「当たり前」になっているようにも思う。

それは具体的に言えば、
愛という概念を、
誰かへの「補償制度」であるかのように見なす発想(習慣)だ。
だから私たちは「愛とは永遠の約束」という概念を、
あたかも崇高な真実としてみなし、
当然のこととして受け入れている。

この発想は特に、キリスト教の文化圏では根強いように見受けられる。

このすっかり浸透してしまった「愛を補償制度と考える自己欺瞞」は、
不倫だ、浮気だ、
やれ探偵だ、やれ離婚訴訟だ、っという問題の噴出と言うカタチで
一見平和そうなカップルに突如、襲いかかり私たち自身に復讐してくる。

これら、
永遠に終わりそうもないすったもんだの黒幕は、
世間体、自己欺瞞、宗教的な結婚観、家庭に対する観念・・・
それらが微妙に私たちの精神を蝕み続けているという危機への
未だに信じがたいほどの私たち自身の〝鈍感さ〟なのだと思う。


だから、
わたしの両親、わたしの家族、
そして私自身の精神を蝕ばみ続けた〝宿敵〟とは、
実は単なる「世間体」デシタあ~、というのはあくまでも表層であって、
その本当のラスボスとは、私たちひとりひとりの〝鈍感さ〟なのだと思う。