何者にも成る必要がないという理解が、どれ程の至福をもたらすのか?
ひとりでも多くの人に味わってもらいたいな~と思う。

何かになろうとすること、
何かを達成しようとすること、
・・・これは「死への恐怖」と繋がっている。

どこかに到着しようとする憧れや努力とは、
それ自体が「いまここではまだ到着していない」
と自らに言い聞かせることを意味している。

その「到達への意思」とは、すなわち何かの「始まり」であり
死とは「時間切れ」「終わり」そして「志半ば」を自動的に意味する。

そんな「無念」を抱いて、一体誰が死を受け入れられるだろうか?
わたしたちが「死への恐怖」といった場合、
それは本当は肉体的な「死」を問題にしているのではない。

 問題なのはその「無念」だ。
 私たちが本当に恐れているものの正体は
    その「挫折」「中途半端さ」だ。

だから、
「死へのリスク」をことさら執拗に回避する事よりも
「何かになろうとする」ことへの執着、焦りこそが、
 私たちの人生を食い荒らしてきている
・・そのことこそを
      私たちはもっとも危惧するべきなのだ。

・・・それは私たちが自覚しているよりも、
   実際には遙かに、恐ろしいほど、私たちを潜在意識的に圧倒している。
   でも表面意識ではその自覚がないからこそ、
   私たちはこの得体の知れない暗闇の野獣の餌食になってきたのだ。

私たちは「生きたい」と願って様々な挑戦を試みるけれど
でも実際に私たちが日々、追いかけているのは「生き延びる手段」だ。

・・・この「生き延びる手段」とは
   具体的には「金銭」であったり
  「地位、名誉名声、スキル、情報、慰め」だったりする。

   これらは実は
  「人生の目的」ではなく「何らかの手段」に過ぎないのだが、
   いつの間にかそれらを私たちは「目的」と勘違いして
   無我夢中で追いかけている。

でも、はたと立ち止まると、実は私たちは
「これらは人生の目的ではない」と、ちゃんと自覚している
 ・・・時々私たちは正気に戻る(笑)・・・だから虚しいのだ。

〝手段〟とは必ずなにがしかの〝延長〟をもたらす。
〝手~うで(野心)〟とは、まさしく延長のことだ。

でもいったい、何を掴もうとしているのか?
その目的を、
もし知りもしないで手を狂おしく延ばし続けて消耗しているならば、
これ程、恐ろしい虚しさがあるだろうか?

実は私たちが恐れている「死への恐怖」とは
「いつかどこかで起きること」なのではなく
まさしく
「いまここにある空虚さ」に他ならない。
  この「得体の知れぬ空虚さ」を、
  私たちは「死への恐怖」だと思い込んでいる。

・・・この勘違いゆえに、
   わたしたちはますます
  「人生を狂おしく、チョットでも延長したい」と願望するのだ。

ユダヤのプロトコールに
「ゴイム共にはダーウィニズムによって〝進化〟という概念を信じ込ませろ!」
っという一文があるが、
この〝進化〟とは単に生物学的な進化のことではない。
「今日の延長」として、「昨日よりもっと良くなる明日」のことに他ならない。

「明日が来る」「明日はもっと良くなる」という期待をもたせること・・・
じつはそれこそが私たち(ゴイム共)を「死の恐怖に縛り付ける魔法」なのだ。

この魔法からは、では「いつか?どこか?」でめでたく結実し、
「何者か?」に〝成れた〟ならば、無事解放されるのか?
実はこれすら「ノー」なのだ(^_^;)

なぜならば、あなたが「何かになる事が出来た」ということは
もう、あなたは「特別な人物」なのだ。

あなたはそんな自分を「失いたい」と思うだろうか?
・・・ここにおいて、ずっと延期してきた死が
   かならずしも「逃げ切れた訳ではない」と
   あなたはその時、やっと気が付くだろう。

あなたはチャンピオンになるかも知れない。
しかし何度かは防衛戦を戦わなければいけないし、
喩えそれら全ての防衛戦をも勝ち抜いたとして、
やはりその栄光はあなたに永遠の若さを与えてはくれないのだ。

永遠にすがれる栄光などない、存在しない。

結局は「自分自身」から逃れるすべなど、
はじめからありはしなかったのだ・・・

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