「Now & Here(いまここ)」とは
「No & Where(何処でもない)」
だから、
「今とは何時だ?」「こことは何処だ?」と
探求すればするほど迷路に入り込んでしまう。
「現在」とは「いま」のことではない。
現在は過去や未来にサンドイッチになってワンセットの
「時間」という概念だ。
「いまここ」の対立概念は「いつかどこか」なのだけれど
すべての探求、全ての欲望は「いつかどこか:時空間」に属するものだ。
だから、求め始めた途端、
そのまさに第一歩から「外道(げどう)」へと転落してしまう。
「内道(ないどう)」という言葉もまた、
一種の隠喩としての「内側(うちがわ)」のことであって、
けっして私たちの皮膚の内側のことではない。
・・・論理的に定義可能なものは全て「外側」「外道」なのだ。
だからといって「探求は無駄だ」と言いたいのではない。
単に探求の直線上の「いつかどこか」に
解答があるのではないというだけだ。
「真実一路、一直線・・・」
この軸線上から〝ぶっ飛ばされた〟瞬間にそれは起きる。
でも「それが起きる」為には、
探求も努力も、
方便としては必要なのだ。
その「ぶっとび」を「意識の変容」とか「覚醒」とかよく表現されるが、
実はこの表現も、あまりにも「神秘体験的」に誤解されやすい。
ひとたび「神秘体験的」にイメージされてしまうと、
誰もがそこに「距離:へだたり」を感じてしまう。
するとますます私たちは「いつかどこか」へと押し流されてしまう。
本当のところ
意識は変容したりはしない。
「覚醒」とは「世界が夢だった」という事ではない。
相も変わらぬ日常がそこにあり続けるだろう。
「きっと目が醒めるような何か特別な体験が起きる」(きゃぴ!)
っと期待し続けること・・・
・・・その「神秘的な覚醒体験」を
期待しつづけてきたこと・・・
実はその期待それ自身が
わたしたちを「いまここ」から遠ざけてきた
まさに夢だったのだ。
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「天にまします我らが神よ、世はおしなべて事も為し・・・」
何も起こりはしないであろう事は、
長年にわたる真実の探求者にとっては受け入れがたい絶望に違いない。
しかしこの絶望こそが「永く重たい探求の旅」からの救済の瞬間なのだ。
「いまここ」とは
この絶望のまっただ中に完全に立ち止まった瞬間に見える。
もっとも神秘体験から遠いところに最大の神秘があった。
「変容すべきものなどなにもなかった」
という「最大の受容」こそが「最大の変容」なのだ。
「いまここ」とはある特定の時間と場所のことなのではなく、
「いつかどこかへと彷徨(うろつ)き回ることをやめた瞬間」のことを示す言葉だ。
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