基本、「必ず処分する」「許されない」と語った山本太郎。

私は現在、
大西恒樹氏も山本太郎氏も、
つまりれいわ新撰組を支持していない。

大西氏の失言?に関しても、
「ああ、遂に本音が出たか?」と思っている。

ただしこの
「命の選別」の是非を考えることは、
山本氏の言うように
「とんでもないこと」として
タブー視するべきなのか?っといえば、
  ・・・私は実は疑問視している。

人の上に立つ立場のもの(~つまり政治家、他、権力者)が
その追随者や使役者に対して
〝おまえらの命の選別〟を公言するのは当然タブーだ。
なぜなら、
自分自身を指さして「羊飼い」だと言い、
人々を指さして「おまえらは羊だ」と呼ぶのは、
宗教的な指導者と独裁者のみに許される発言だからだ。

しかし、現実問題としてはこの〝選別〟は
リストラなどの様に日常茶飯事だ。
何らかの組織や利害関係の中に所属し、
そこに従事している人達(=羊の群れ)が世の中の大半であり、
そんな私達は世の中でのひとの平等だなんて建て前だけであることは
誰もが重々体感している。

誰もが同じではない以上、
老若男女誰もが「平等だ」なんていうことは
政治的な理想、キレイゴトに過ぎない。

この残酷な現実を「選別される側」の立場を経験していない血族達が
そのまんま「選別する側」に既得権として居座り続けているところに
「このままではすまない・・・」
易で言うところの「天地否(格差社会)」みたいな状況の原因がある。


大地震であれ、コロナ騒ぎであれ、天災、人災、なんであれ
「運が悪い奴」「判断の間違った奴」「体力の弱いもの」から
順番に死が襲いかかってくることは言うまでも無い。

でも
「自然な」選別である以上はそこに誰も異議を唱えないが
そこに「人工的な」「恣意的な」選別があった時、
人間は「命の平等性」を主張し始める。

しかしこの世界で「平等な命」など、二つとない。
「一卵性双生児」であっても「平等」ではない。

身体が別々で在る以上、別々の運命が待っている。
片方が前を歩けば、もう片方は後ろを歩く。
片方が右を歩けば、もう片方が左を歩く。
たったそれだけでも生死を分かつ運命の違いが起こり得る。
そんなことはだれでも分かっている。
本当はこの世界で「比較可能な」ものは二つと存在しないから
つまり「平等」もまたあり得ないのだ。

しかし、
このことを「政治家」が公言した場合、話が変わってくる。

民主主義の背後には
「平等」や「公平」という規定概念が常に渦巻いている。
だからもしそれに馬鹿正直に従うなら
「最大公約数な政治」以上のことが出来るだろうか?

・・・だから実質的には民主主義は確実に「衆愚政治」に陥る。

民主主義が「緩慢な自滅システム」であるというタブーに
 大西恒樹氏があえて挑んだ発言をしたのは
  本当はその当たりを言いたかったのじゃ無いだろうか? 

でもそれならば、
「選挙に立候補して当選したい」という野心を持ったまま
民主主義(自由・平等・博愛)の偽善を暴くような発言をするのは
               自己矛盾だと言わざるを得ない。

「最大多数の国民の皆様が死なない程度の政治」をするだけならば
毒にも薬にもならない平均点的な政治政策だけで充分ことたりる。

しかしもちろん、
マンモス大西氏はそれで満足できるような人ではないのだろう。
やっぱり、
「とんがった真実:命の選別」にアプローチしたかったのだ。

でも
「本音と建て前の使い分け」
「ボケと悪魔のはらわたの切り替え」という点では、
大西氏よりも安倍や麻生の方が遙かに〝役者が上〟だと言わざるを得ない。
「有権者の皆様・・・」と言いつつ、確実に私たちの首を絞めてきている。

細木数子ばりで「ズバリ言うわよ」と、
大西氏はキメたかったのだろう。
そして安倍麻生支持者や創価学会信者の
「ハナを明かして」やろうと狙ったに違いない。

だから大西氏は敢えて山本太郎と正反対の発言をした。

・・・・私に言わせれば、
   一見正反対の大西恒樹と山本太郎の発言は
   両方同じ間違いを犯している。

「人の命を選別してはいけない」
「いや政治とは命の選別こそが最重要課題だ」

・・・これは「自由・平等・博愛」という、
   本来は実存的、あるいはスピリチュアルなテーマを
    政治の舞台で語った(悪用した)という間違いなのだ!
    そこはメーソンの牙城である。

スピリチュアルなホームポジションのOSHOが
 「あのカッコウの鳴き声は
  覚者の言葉に劣らぬほど世界から必要とされている・・・」
と語っても
  わたしはウットリと聞いていられるが、

 山本太郎氏の
「あなたは生きているだけで価値がある」みたいな
  「スピリチュアルもどきの愛」を街頭演説で聞く違和感はハンパない。



その反面、
大西氏は葉隠れ思想にかぶれているのか?
・・・「死を抱け」みたいなことを一般大衆相手に国防をテーマに語りかけるなら、
   美人人妻の映画監督、増山氏と乳繰り合ってグダグダ言ってないで   
まず大西氏本人が躊躇なくまっ先にテレビ生放送画面の前で
   三島由紀夫のように自分自身が腹を切って見せるべきだろう。
   そうすれば、その血しぶきの映像で、
   「日本人の血が騒ぐ・・・」人々への覚醒効果も多少はある。

そんな覚悟もなしに
  不特定多数の他人様に対して「命の選別」とか語るなら、
          袋だたきに遭うのは当然じゃないか?

ブシドー的に語る大西氏本人こそが
「本音では誰を犠牲にしてでも自分だけは生き残りたい」
              ・・・人ではないのか?

そう疑える様な余地を残して
「人々の魂を言葉だけで奮い立たせよう」とするのは
             あまりにもお粗末なのだ。