Oshoはこれに類することは何度も述べているのだが、
私はその都度、あまりに〝神秘的に〟解釈していて
なかなかピンと来ていなかった。

わたしが一番衝撃を受けたのは、
クリシュナムルティーのシンプルな言葉によってだった。

「自由とは〝知らない〟という中にある。」

「もしあなたのグルが『私は知っている』と言ったら、
 そのグルは何も分かっていないと思ってよろしい」

「なぜなら、
 『知っている』と宣言しうることとは、
   すべて過去のことだからだ・・・」

  By J.Krishnamurti

OSHOの言葉がより私の中で深く刺さるようになったのも
この〝衝撃〟を受けた後からだった。

「知識」と「知恵」、そして「智慧」との違いについて、
 誰もが一度は考え込んだことがあるのじゃないだろうか?

でも私たちのマインドは基本的に
「過去の知識や経験の集積を再利用する」ことで
「まだ来ない未来での不安定要素に対処しようと・・・」機能している。
・・・だから、
「同じ川に二度と踏み込むことは出来ない・・・」
「いや、一度たりとも同じ川に踏み込むことは出来ない・・・」
               といわれたって、
わたしたちは
「まあ、厳密に言えばそれはそうかも知れないが、だからなんだ?」

「日常生活を送る上では、
 『だいたい似たようなパターンの繰り返し』なんだから・・・
  私たちはその繰り返しの中で、毎日を平穏無事にやり過ごしてきた。
  そんないちいち方丈記みたいな事、気にしちゃいられないよ・・・」
                という感想しか湧かない。

しかし、この方丈記的な人生に対する理解、
OSHOが言うところの「規律」という言葉の理解が
  なぜ?  極めて重要なのか?
と言えば、
それは、人生全体に対する〝姿勢〟が、
 根底からひっくり返ってしまうからだ。

このレボリューションが起きなければ、
 私たちは決して「いまここ」とは何なのか?
  如何にこれが「すべて」であるかが決して理解出来ないからだ。

一般常識としては、「知る」ことと「理解する」事は同じだ。

そして「知る(=理解する)」こととは
その状況や法則を「手中に収める」ことを意味する。

そして状況を「手中に収める」「把握する」ことこそが
状況を「コントロール(制御)する」ことであり、
私たちの常識では、「制御下に置く」ことこそが「自由の獲得」であり、
これはクリシュナムルティーの言明とは正反対のことだ。

私たちが「資格を獲得する」「ノウハウを習得する」動機はそこにある。
「習熟する」こととは「権限を得る」ことであり、それが「自由」なのだ。

つまり
OSHOやクリシュナムルティーが言う「自由」とは、
私たちが日常的に考えている
「普通免許を獲得したら乗用車を運転できる自由」とは
               全く正反対のことだ。

この〝違い〟は「知る~知識の集積」と「理解する」こととが
やはり正反対であることを意味する。

私が高校二年の時のクラスの女性担任教師は、
私たちクラスが1年生だった時の生徒ひとりひとりの素行や性格、成績を
すべて前任の担任教師から〝学習〟してきていたので、私たちクラスと
初対面の時から先入観をもっていて、
彼女の頭の中では
生徒ひとりひとりのプロファイルがインプット済みだった。

わたしはそのことに非常に反発を覚えて、
その女性教師に一年中ずっと反抗していたのを思い出す。

これは「知る」と言うことが如何に「魂の殺人」に匹敵するか?
格好の例だった・・・。

誰にも過去はあるし、
過去は簡単に消せることではないことは知っている。
しかしやはり、
レッテルを貼られることによって「今の自分」を新鮮に見てもらえない。
それは、誰にとっても悲しいことだ。

その反対の作用として、
私たちは「輝かしい蓄積」を得ることによって
他者からの「良いラベリング」を得ようと必死になる事もある。

札付きのワルになることとは即ち「不自由」。
そして他者からの
「良い評価」「良い成績」が
「良い地位」「社会的信頼」であり
私たちが望む自由とは、
それら他者(社会)からの「良いラベル獲得」に他ならない。

だから
OSHOやクリシュナムルティーが言う「自由」とは、
私たちがイメージする「自由」とは全く相容れない。
私たちは無意識のレベルで、彼らの言う「自由」には
拒絶反応を起こしてしまっているのだ。

わたしたちは
自分たち自身がレッテルを貼られるのが
窮屈で悲しいことなのを分かっているのにもかかわらず
わたしたちは同時に
「良きラベルのコレクター」でもある、
   という矛盾の中に生きている。

実際の処、
「良きラベル」であろうが「札付きのワル」であろうが
どちらも本当は自由とは正反対なのだけれど・・・・

「貴方たちは花を見ても、花を見ていない」
「貴方たちはマインドを通してしか花を見ていない」
    とはこのことを言っている。

「決めつけ」「観念」のフィルターを通過してしまった段階で
もう「それ自体を見ていない」のだ。

私たちは「知らない」とは言えない。
実物にもっとも妥当と思えるラベルを記憶の中から見つけ出し、
「知っている」と宣言しないと気持ちが悪いのだ。

未知を未知であると、無知を無知であると
素直に見つめられたなら、そこに純粋な喜びがある。

・・・そしてその喜びのことを
   彼らは「自由」と、呼んでいるのだ。

しかしわたしたちはその喜びを知る為には、
「知らない」
「ラベリングできない」気持ち悪さを
     乗り越えなければいけない。

私たちのリバレーション(解放)、
私たちの真のレボリューション(革命)は
社会に対してではなく、この自由への喜びに至ることで起きる。