泥の中に沈んでまだ芽を出さない蓮の様に、
人々は泥と自己同一化している。

この深いアイデンティティーを打ち壊すことこそが
「真の救済」であり、それをもたらすのが「最良の友」だ。

弥勒=マイトレーヤとは私たちの「最良の友」と言う意味だ。
弥勒が私たちの「友」である為にはまず
弥勒自体が泥の中から開花した存在でなければならない。

聖書に登場するような、
「泥に染まった経験」のない天使や精霊や、
生身の交わりなくイエスを生んだマリア様では
弥勒の役割を果たせない。

処女の母から生まれたり、
水の上を歩いたりという奇跡のエピソードは
神のひとり子、特別な救世主であることを
人々に信じ込ませるには都合良いが
でも仏教的な伝説として救世主と言われている弥勒とは、
「全知全能の神から使わされた救世主」とは全く性質が異なる。

私たちは「キリスト教的な救世主」ならば知的に理解しやすいが
「真の友情」が、「真の救済」であることを理解することは出来ない。
なぜならば、私たちは真の救済など求めていないからだ。

マイトレーヤこそが、「真の友人」と呼ぶにふさわしい。
しかし私たちは真の友情とは何かを理解しようとすることはほとんどない。




如来とは「女の口(女陰)から来たもの」
つまり泥の中から生まれて来た普通の人、っという意味だ。

誰もが・・・、
 ホームレスのおじさんも、
 今、話題の「悪魔崇拝者達」さえもが、
         ・・・本質的には如来だ。
その存在だけで、
「悪役」「通行人」役も含め、
 聖なる自分だけのお役目を生きている。

だれもが泥の中に沈んだ蓮のように
悟性を宿している以上、仏であり、如来なのだが
ただし、
あえて「如来」と呼び得るのは「泥の中から開花した蓮」だけだ。
いまだ開花していない蓮たちは「泥のお役目」しか果たせない。

西欧のキリスト教とは、旧約聖書と仏教とが合流して
弥勒信仰が救世主信仰へと、劣化コピーした「泥沼」宗教だ。


仏教全体を象徴している蓮の華=LOTUSは、
「泥池」という障害物を力強くはね除けて開花した
      「強さ」「勝利者」の様にも見えるが、

でも、泥の池は蓮に開花の為の最高の・・・、
       〝最高の〟
       環境を蓮に与えている。

蓮は決して泥と「闘って」開花したのではない。
むしろ
「泥池の水分と養分に育まれて」開花したと言って良いはずだ。

仏や如来、弥勒が、
得てして女性的な優雅な姿で描かれているのは、
この「泥池で闘ったのではなく、むしろ育まれた」神秘を物語っている。

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妙敬さんが動画で言われる「強さ」「弱さ」「美しさ」とは
「泥沼と闘う」意志的な強さから
「泥沼は自分を育んでくれた母体だった」っという視点へと
 転換(ピポット)する聖(静)なる強さとの対比を言っているのだと思う。


内側から湧き出る「怒りの感情」でさえも
本当は「内側-わたしの本質-」ではないのだ。

静寂の中で「怒り」をもゲスト=外来者として受容した時、
何世の輪廻転生の努力で、どれほど格闘しても
決して押さえつけられなかった「怒り」は
自己同一化のリンクが「カチッ」っと切れて、
       楽しみ、味わい、爆笑の対象へと相対化される。

渦中にあって、
「それ」を「それ」、「あれ」を「あれ」だと見た時、
私たちは泥池と自分自身とをもはや混同していないのだ。

  指させる「それ」や「あれ」を
  一体どうして自分自身だと呼び得るだろう??

この瞬間に立ち会った時、マスターの真の友情が理解出来る。
        マスターを「おお!!友よ」と呼べるのだ。

フリーメイソンでも良く使う「33」は弥勒信仰を暗示している。
    「真の友人、弥勒=あなたは私の鏡です」という意味だ。

        3+3=6、3x3=9→369

その時、「怒り」さえもが美しい

34・Anger 怒り
コメント 2020-05-16 205022