「苦から逃れようとするならば、もがくことなく苦を受け入れる・・・」

これは妙敬さんが、なまじ「仏教のプロ」=つまり僧侶で
ある立場だから言い易いことで、それを「プロでは無い」私が
自主的に(頼まれもせずに)受けて解説しているこの
ページにとってはちょっと立場が違ってくる。
・・・わたしは
   「ではそのプロの説法をどの様に咀嚼するか?」
       というシロウトの立ち位置だ。

悟りの中に生きるマスター本人にとっては
「関係性」という分離は存在しないが
マスターを聞く弟子達にとっては、
常に「関係性」の文脈で理解しようとする。
  いかにも仏の手の平と孫悟空の状態だ。



   釈迦族の滅亡 ~ テロに思う

自らが「生老病死」を超越したブッダとなっても、
やはり「血は水よりも濃い」と釈尊は感じた。
   それゆえに釈迦族を滅ぼそうとした
   ヴィドゥーダバ王の前に二度も向かい合った。

このエピソードは
自らの生母を「女よ」と呼び捨てたイエスと対照的に、
「何処にも所属しない」ニュートラリティー(中道)を
具現しつつも生身の人間として有限な姿のまま存在する
如来としての姿がある。

人間は本来皆、
この「無限と有限とのハイブリッド」・・・
つまり「心身一如」な存在であるから、
怒りと共に進撃してきたヴィドゥーダバ王も、
釈尊を他の釈迦族もろとも踏みつける事なくなく尊拝し、
2度も釈尊の心情に免じて怒りを収めたのだ。

しかしその釈尊ですら、3度目は
自分の出自である釈迦族の滅亡を食い止められなかったし、
そのカルマの反作用を受けて7日後に全滅する
ヴィドゥーダバ王の軍団の運命もまた同時に
釈尊は食い止められなかったことになる。

釈尊には、多分
「自分の出自である一族の気位の高さ」と
「傲慢な王である父に運命を翻弄されたヴィドゥーダバ王」との中間に
   身分制度差別というインド全体の慣習を巡る
  加害者と被害者との痛みの連鎖が見えていただろう。

ヴィドゥーダバ王の「復讐を遂げる」
というポイントが成就することで
「-復讐するは我にあり-」
「-そして誰も居なくなった-」

  まさしく
  「祇園精舎の鐘の音
   諸行無常の響きあり」だ。

でももしそこに、
    たとえば生き残りの釈迦族が
    ヴィドゥーダバ王に復讐を誓う、
  ・・・みたいなドラマの続きがあったら、
     まだまだこの悲劇は延々と連鎖したことだろう。

人を呪わば穴二つ・・・
果たしてヴィドゥーダバ王は「自らもまた滅びる」という
復讐の代償をもし事前に知っても、その代償を覚悟してでも、
釈迦族に復讐を遂げただろうか?
王もきっと尊拝する釈尊から
この予言を聞かされたならば
それを信じてあるいは思いとどまったかも知れないが、
ではなぜ釈尊はその因果応報を解き明かして
ヴィドゥーダバ王を諫めなかったのか?

そんなことをしたなら
釈迦族の一員でもある釈尊は
みずからの超能力的な預言能力で
ヴィドゥーダバ王を「脅して」止めたことになるだろう。

「脅迫」とは、カルト宗教が良く使う
もっとも安易な手っ取り早い洗脳、改宗手段だ。

そんな手法を使うことは、
無限大のブッダの視座から見る釈尊にとって
 「運命への過度な干渉」だったに違いない。

「自発的、内発的な気づき」は
例え釈尊本人の一族の興亡が掛かっていても、
それを上回る、最上位の重要性があったからこそ
          釈尊はヴィドゥーダバ王を
    「脅して止める」ことはしなかったのだ。

静かな水面に対して細い足で
垂直に立ち尽くすフラミンゴのように
中立バランスの瞑想性に生きる姿というのは、
得てして「冷たく」みえるものだ。

有限世界と無限世界、
愛と覚醒(=中立性)
 この両極間のタイトロープを生きるとは
 究極かつ微妙な選択の連続なのでは無いだろうか?

「おまえは賛成か?」「反対か?」
「おまえは味方なのか?」「敵なのか?」

常に社会は個々人に選択を強いる。
だから
中立で在ることは常に難しいし、シビアな代償を伴う。
反面
「右か?」「左か?」を選んでしまうこと
どこかに「所属してしまう」のは容易い。
 あちこちの人々が「新規メンバー募集中」だからだ

「人々と共にある」「社会のまっただ中にある」
「愛の関係性の中で生きる」ことを意識的に選択しつつ、
同時にどこにも〝所属しない〟〝妥協しない〟
そして瞑想の中に〝自らの中心に留まる〟事はとても困難だ。
それは時として釈迦族を救えなかった釈尊のように
大きな痛みを伴う。

何を為すのでなくても
ただ「いまここにある」というだけで
それは愛であり瞑想であり世界への大きな貢献だ。

生身の人間として生きること・・・
 それは時として
 大きな悲しみを味わうことでもあり、
 でも、
 大きな喜びや達成感ともなる。

愛と瞑想とが分離していたならば、そんな可能性は無い。
 人々の関係性の中に飲み込まれて流されているだけでも
  どこかの聖地に引き籠もって超然としているだけでも
    本質的な意味では人々に貢献することは出来ない。

OSHOがスローガンにしていた
「ゾルバ・ザ・ブッダ」という生き方は、
      単なるブッダなのでは無く
マイトレーヤ:弥勒菩薩としての在り方であり、
「人々の最良の友」として生きることを意味している。

日本には
この二つの生き方が宗教として千年以上共存している。
   神道が「愛」、  仏教が「瞑想」

共同体社会の存続、繁栄を願うなら神道が必要だし、
でも、ブッダを生み出せない社会や血族には存在価値はない。
そういう意味で日本とは
とてもスピリチュアルな風土としては完成度が高く恵まれている。

33.Rebirth/Moment-to-Moment   再誕生/瞬間から瞬間へ