知ってる事を知ってると言い、
知らない事は知らないと言え。
これが知るということだ。

之を知るを知ると為し、
知らざるを知らざると為せ。
是れ知れるなり。

OSHOは論語否定派だけれど、
私はこの言葉が好きだ。

なぜならばこれを徹底させることによって
ソクラテスの「無知の知」に近づいていくことが出来るからだ。

ナザレのイエスは「明日を煩うな」といって野のユリを指さした。
でもこれは「ではそうしましょう」といって出来ることではない。

人間は得てして傲慢で、
マスゴミに吹き込まれた洗脳情報をすぐに鵜呑みにして
「私は知っている」と頑なに思い込む。

・・・しかしこの「知っている」とは全て過去についてのことであり
   この「知っている」という不自由さ(思い込み)
   こそが、諸悪の根源だ。

聖書とは大昔に書かれたが、
この洗脳テキストによって人類の歴史が呪縛されている。
あなたは
「もしこの世界に聖書がなかったなら?」とイメージできるだろうか?
・・・それはかなり難しい。

つまり
「過去に、
 強くアピールする存在」
とは、同時に

「未来にも、
 強制介入して、影響している存在」
でもある。

心理学には「逆効果の法則」というのがあって
要するに人は不安になる様な暗示を受けると、
その暗示を自らの手によって実現してしまう、
(墓穴を掘ってしまう)という法則だ。

たとえば自転車で道を走っていて、
遠くの前方に、ふと、石ころが転がっているのが気になったとする。
すると常識で考えれば充分回避できる様な、その石ころに引き寄せられ
激突してしまう・・・っという様な心理学的呪縛のことだ。

人々の世界最終戦争への不安や、
カルト的あこがれ(イエスの復活や、空中携挙や)とは
   まさしく壮大な「逆効果の法則」ではないだろうか?。

「私は知っている」という傲慢自体が
「明日への煩い(そして憧れ)」となり、
そして自らの運命を自縄自縛していく・・・。

もし神が人間の親であり、
そしてその自由意思を尊重してくれているならば
「知恵の実を食うなよ!」と、
 ダチョウ倶楽部的な意味では「喰え!」という暗示を与えたり、
ヨハネに禍々しい予知夢を見せたり、とか、
大きなお世話はしなかっただろう。

 聖書とはたぶん、悪魔が残した「人間の奴隷化プログラム」だ。

もし、神が人間の自由意思を尊重し、
純粋に愛していてくれていたならば、
決して聖書などを残さずに、
「純粋に空白の未来」を人類に与えてくれただろう。
日本の神道がドグマを持たぬ様に・・・ である。

   「私以外を神と崇めてはならぬ」

旧約聖書の神とは「嫉妬の神」でもある。
神、自らを崇めさせる為に、
私たちの眼前に数多くの「躓きの石」を
あらかじめばらまいておいたのだ。

それこそが「モーセの十戒」であり、「聖書の預言」だ。
神が全知全能であるならば、
全人類には自由意思など存在せず、
全ての責任は
「全てを見通した上でデザインした」神に起因する。

なぜ人類ひとりひとりの自由意思を神は尊重できなかったのか?
もしそれらが「崇高な試練を、神は愛によって与えた」というならば、
神は地球の大自然の中にアダムとイブを残して沈黙して去るべきだったのだ。

・・・たとえそれによってアダムとイブが餓え死にしたとしても、だ。

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わたしは聖書に語られた神よりも
ソクラテスの残した「無知の知」にこそ、人類愛を感じるのだ。


13.Dropping Knowledge   知歳を落とす