「あなたの肉体は、〝あなた〟ですか?」
と問われたならば、あなたはなんと答えるだろうか?

  この問いには「イエス」とも、「ノー」とも答えられる。



すべてのものごとは「その様に見る」ならば、その様に見えるものなのだ。

「三角形の中のひとつ目が全てを見ている」
      と言われれば、全てがそう見える。

「数字が全てを支配している」
「ユダヤが世界を支配している」
      と言われれば、全てがそう見える。



わたしが「そう見える」と言った時、
それは、からかって、バカにして言っているのではない。
「そういう見方も間違ってはいない」「その様な説明も可能だ」と言いたいのだ。

すべてを「造物主」と「被造物」とに分離して見ようと思えば、そう見えるだろうし、
そしてその仮説を証明する為の証拠を、あなたはあちこちに見出すだろう。

その逆に、「神の存在などまったく証明されていないじゃないか?」と言われれば
これを論破することもまた、不可能なのだ。

「私は60兆の細胞の総和に過ぎない」と言われれば、
それ以上のものを提示出来ない以上、私達は肯くしか無い。
しかし60兆の細胞の足し算がイコール「私」なのか?
と言われれば、それもまた違う。

「見方」「見え方」によって真実が全く別のものであった場合、
果たして私達は「客観的な真実」なるものに、一体たどり着けるものなのか???

  ・・・それは絶望的と言っても良いだろう。

しかしこの「絶望」こそは、おおいなる「希望」でもある。
なぜならば「全面的な否定」は「すべての肯定」へと通じるからだ。

OSHOが、
「あなたが私からの全面的な肯定を得られるのは〝沈黙〟だけだ」
  ・・・っと言っている。  ・・・その真意はそこにあると思う。


わたしはなにひとつ断言出来ない。
でも「なにひとつ断言出来ない。」ということを、
   ためらうこと無く、全面的に「断言出来る」だ。

あらゆる説明を「無駄だ!」と吐き捨てるわけでは無い。
しかしあらゆる「説明への努力」は、
最終的には<絶対性に触れる>ことは出来ない。

それは私達に大いなる救済をもたらす。
全てを「説明しよう」、「意味づけしよう」とする無限の努力からの救済だ。