前投稿で書き切れなかったことを続けて追記。

岡田斗司夫氏は言う。
「笑いの本質は〝いじめ〟にある・・・」
「いじめる側が笑い、いじめられる側が(強制的に)笑わされる」

彼の指摘にはハッとした。
なるほど、ドリフのいかりや長介は「意地悪な上司」役が多いし、
そのシゴキをどうボケてかわすかがドリフの笑いそのものだ。

タモリやたけしも、ブラックなアイロニーの毒があってこその笑いだ。

確かに笑いの中核には嗜虐的な「毒」がある。
この毒の分量を間違えると、笑いは一転、人々の怒りを買うことがある。

でも
必ずしも〝いじめ〟が笑いの本質なのだいう言い方に素直に全面同意は出来ない。

OSHOは、サニヤシンからひとつの質問を受けた。
「あなたがエンライトメントした時、最初にしたことは何ですか?」

OSHOはこう答えている・・・「笑ったよ!」



なぜ?笑ったのか?その笑いはどこから来たのか?

・・・それは、絶対に失い様がない永遠の真実を、
   自分が必死に探していたが故に見つけられなかったことだ。

そのコメディー劇は、
「自分自身への〝いじめ〟だった」という言い方も出来るかも知れない。

しかし、
「ジョーカー」の物語はシリアスすぎる。
そしてシリアスのまま終わる。

チャンドラ・モハン(OSHOの幼名)は
決して自分自身を〝いじめ〟る目的で探求していた訳では無い。
彼は人一倍真剣で徹底していただろう。
その探求心の背後は「自己虐待」ではなく「自分自身への愛」だったはずだ。

それゆえの「大いなる遠回り」は、
必ずしも「遠回り」なのではなく、
やはり「最短コース」だったのでは無いだろうか?

でも同時に「決して自分自身を急かさない」という大事な要素も見える。
「エンライトメント」というゴールに一直線に猛ダッシュすることが、
必ずしも「最短、最速コース」なのではない。

ここにはイソップ童話の「ウサギとカメの競争」のような逆説が効いている。
つまり「急がば回れ」だ。

笑いには常に「逆説」的な要素、「意外性」が含まれている。
それが私たちをちょこちょこっ、とくすぐる。

一方向に対しての強いプレッシャー。
それが弾けて逆噴射した時、笑いが飛び出すのだ。

この「圧力」と「爆発」とが笑いという現象の要素なのじゃないだろうか?
〝いじめ〟というのは様々な「圧力」のなかの1種類に過ぎない。

でもいずれにしてもとても深刻な「闇」の要素が眩い「光」へと転じた時、
それこそが笑いの本質なのだとおもう。

   その時、私たちは清々しい。

    鬱々とした「闇」が「光」へと転じた時・・・

     そしてそれこそが「JOKER」→「浄化(じょうか)」となる。