どれ程・・・、
どれ程、ちっぽけな権力でも、
爪の垢ほどの権力でも全人格、全人生を奪うほどの中毒性がある。
何故そう言えるのかと言えば、私自身が自らの強いコンプレックス故に
なんどもこの愚かさにハマってしまったからだ・・・

だから
爪の垢ほどのコンプレックス、自己否定感が残っていれば
ハナクソほどの権力や権威にでも飲み込まれるものなのだ。

エデンの園の番人であった神でさえ、
アダムとイブに対して無慈悲な暴君だったのだから・・・

だからあらゆる権力闘争に救いはない。

確かに一時的に、表面的には不公平だったり不平等な状況が
改善されたように見えることはあるだろう。

しかし、この世の中には、
「絶対的な善」も「絶対的な正義」も「絶対的な善人」もいない。

特定のTPOにおいて、「より良い」と思えるものがあるだけだ。
もし、「絶対的な善」や「絶対的な正義」が人々に意識されたなら
それこそが宗教となって腐敗し始め、「邪悪」へと変わってしまうだろう。

わたしたち人間とは骨の髄までそういう救済に憧れる生き物なのだ。
そうして醜悪で残酷な「(神の)正義の名の下での闘い」に明け暮れてきた。

「悪VS悪」「利害VS利害」は有り得ても、
「絶対善VS絶対悪」という戦いなど存在しないのだ。



わたしたち人間は「絶対正義VS悪」の闘いに強く憧れてきた。
それはこの巨大な世界の中で、
だれもが自分のちっぽけさ、心細さを感じているからだ。

だからこそ他人を少しでもコントロールできる権力や権威が得られると、
それはあたかも小型のブラックホールであるかのように、
わたしたちは瞬間に飲み込まれてしまうのだ。

単に「権力闘争の先に、救いはない。」というなら、
同意してくれる人も多いかも知れない。

しかし、〝あらゆる〟権力闘争と言った場合、
多くの人は当惑するだろう。
なぜなら、この〝あらゆる〟と言う意味は、
現在の標準的な民主主義的な政治運動も含まれるからだ。

わたしたちにはまだ、
「良い政治家」「正しい立候補者」が「いる!」という期待が若干残っている。
その選択さえ間違わなければ、「世の中は良くなる」と言う期待が・・・

 ・・・その様な期待が「無意味だ」とはどうしても思えない。

しかし今の日本の投票率の低さと、安倍晋三、ムサシによる不正選挙疑惑は、
もはやそんな期待さえ、もう殆ど皆無に近いことを示唆しているように見える。

ところが、この「皆無にかぎりなく近い期待」を完全に失ったとしても、
「その先に何がある?」というのだろうか、
「じゃあどうしたらいい?」というのか・・・

だから私たちは、「完全な政治に対する絶望」をかろうじて回避してきた。
「目を背けてきた」と言うべきかも知れない。

でもあえて私は、
「私たちの完全な絶望にこそ希望が見えてくるのではないか?」
という恐ろしい提案をしたい。

政治も、インターネットでのコミュニティーや多数派の意見にも、
「改善への提案」は満ち溢れていても、その先には救いはない。
なぜなら、
そこには「他者への期待」はあっても「独立個人がいない」からだ。

ひとりの個人が生まれ立つ為には、
「改善への完全な絶望」「他人や社会集団、社会組織への完全な絶望」という、
「泥の池」が必要なのだ。

蓮の華のように深く大地に根差した個人の誕生だけが、新しい希望になる。
その様な人は、正義や善やモラル、制度の改善や権力、権威を破壊する訳ではない。
ただ単にその虚構性、相対性を見抜いている。

そのような洞察力を持った人が、ひとりでも誕生した時、
世界はその分だけ〝確実に〟変化するのだと思う。

占星術においての天体、月は、「エゴの投影」を意味する。
誰でも自分自身に欠落しているものを得てして自動的に他者に求めるもので、
その欠落感の投影:プロジェクションが乱反射した時、
それが集団幻想、集団同意を形成し、権力ピラミッドのヒエラルキーを形成する。

ところがそこにもし、
「他者に何も投影しない人」が現れた時、
その周囲の人々は、
「他者に投影したり、同意や理解を期待すること」の
     自らの幼児性に直面させられることになる。

    それでもなおかつ、人々が「政治的であり続ける」事が可能だろうか?