先日、見知らぬ人達 という記事を書いたら、
まるでそのシリーズのようにニュースが入ってきて興味深い。




「全くカルト教祖の発言は無責任極まりないなあ~」っと思っていたら、
昨日あたりから関係者による返答として動画がアップされていた。

まずは大川隆法のご長男ユーチューバーより緊急コメント
(かれは父親の邪教っぷりをずっと見てきたアンチの立場である)



そしていよいよベビーフェイスの良識派?幸福実現党幹部である及川氏より。
謝罪の動画がアップされる。



わたしにとって及川氏のコメントは
「スピリチュアルな視点での弁明」であったので、
非常に興味を持ってこの動画を見た。

クールな良識派に見える及川氏自身が、
なぜクソカルトの信者になったのかという動機が面白かった。

なるほど、及川氏は「潜在意識の影響、活用法」と
大川隆法が語る「守護霊」とが重なったワケなのだ。

バシャールのチャネリングと大川氏が語る霊験とは何が違うのか?
その一番大きな違いは「何々さんの守護霊はこう言っている」という
卑怯で無責任な「権威の拝借」にある。

「守護霊の霊言」という発言スタイルそのものが、
言っている内容が正しかろうが間違っていようが
責任者不在の根無し草なのだ。

先日わたしがアップした、見知らぬ人達 において言いたかったことは、
潜在意識がわたしたちの人生を左右する〝大きさ〟を
単に強調したいだけなのでは無く、
その潜在意識なり、不可視な影響、霊的な影響なりを
「顕在化」「可視化」する必要が「本当にあるの?」っということだ。

及川氏はそれをすることによって「活用することが出来る」というところに
力点がある。そしてそれが「自己実現なのだ」と言いたい訳だ。

でも彼の言うところの「自己実現」への貪欲さこそが、
無責任な霊言をまきちらす大川隆法氏を「神と崇める」判断を
させているように思う。

「アグネス・チョウ女氏の〝守護霊が〟という文言が、
 中国の唯物思想故にちゃんと伝わっていなかった。」
と、及川氏は弁解していたが、
この問題の本質はそこなのでは無く、
他人の名前の権威を借りて、
他人のまわしを使って相撲を取ろうとする、
「自己実現しちゃおう」という、狡猾さ、軽薄さ、貪欲さが
幸福の科学という宗教の(その教祖と信者の双方に)本質があるということだ。

「顕在化していない、言語化されていない、
 表層的な私たちの現実感の
  遙かに膨大な
 〝見知らぬ存在の部分〟に
  私たちの本質があるのでは無いか?」
そうわたしが仮設したからと言って、それは即ち
「顕在化するべきだ」「そして活用するべきだ」と直結するわけではない。

むしろその逆で、
潜在的に存在している世界を性急に顕在化させようとする、
・・・それは非常に浅はかで他者に対しても配慮に欠けた結果を招くと言いたい。

覚者達が言うところの「覚醒」「エンライトメント」とは、
「全宇宙の秘密を暴く」「全知全能になる」ことなのか?
・・・一見その様に思えることもあるだろうが、
   私はそうではないと思う。

言語化、数値化、論理体系化することで、わたしたちは多くのものを得た。
文明、文化とはそれらの蓄積であり、集大成であり、便利さの実現だ。

人々や社会の背後に渦巻く様々な不可視なエネルギーを、
「守護霊の言葉」として顕在化させようとする試みを
「幸福の為の科学なのだ」と言いたいのは判らなくは無い。

  幸せになりたくて、
  科学的な権威に頼りたい。
  霊的な不思議な力に頼りたい。
  偉人達の守護霊の言葉にすがりたい。
  自分の前世を知って自分の魂のルーツを確信したい。
   ・・・そういう心理的弱さや不安感は誰にでもあるだろう。

そうすることによって、
「まだ見ぬ自分自身の潜在力」を
可能な限りほじくり返したいという動機も当然生じては来る。

・・・「それこそがスピリチュアルな真理の探究なのだ」
    と誰だって考える様になるのも当然だろう。

でもなぜ?、わたしたちは
 「不可視なるもの」を
 「不可視なまま」に
 しておくことが出来ないのだろうか?


その最初の動機の中にこそ、私たちの最初の「愚かさ」「貪欲さ」がある。
そしてそれこそが私たちを開きメクラにしている最大の要因なのでは無いだろうか?

「自己実現」だとか「真我の探求」というカッコイイ動機そのものが
わたしたちを暗い森の中に深く深く彷徨わせている様に思えるのだ。