占星術で太陽を表すマークがこれだ。
中心の点は局所性を意味して周辺の円は普遍性を表す。
ではこの〝周辺〟に点は何個あるのか?
・・・もちろんそれは〝無限〟だ。
体積も質量も無いことを一般的に「無(ム)」の状態だというが
では無とはあらゆる不在なのか?といえばそうではない。
わたしたちは「無の状態とはなにか?」と説明する為に、
「円」あるいは「球」を描かざるを得ない。
そしてその中心の点を指さしてこれを「無の状態だよ」と説明する訳であるが、
つまり「体積も質量も無い見えない点」を説明する為に
多くの無限の線や面を描かざるを得ないのだ。
つまり「無」を説明する為に「無限」を必要とする。
そして〝説明を試みない〟ならばこの両者は生じない。
説明や照明を試みた瞬間に、「無と無限」とは同時に姿を現す。
しかしそれは純粋に抽象的なイデア上の概念に過ぎない。
体積も質量も無い「点」を説明する為に、
これまた体積も質量も無い「円」や「球」が私たちのメンタルの上に
同時に存在することになる。
つまり「有と無」とは対立する概念でも、二者択一的な状況でも無く
相互依存的な概念だ。
「有る」という背後には「無い」状態が想定できなければいけないし、
「無い」という背後には「有る」状態が想定できなければいけない。
そして「無」と「無限」とも相補的な概念だ。
ひとつの「無の点」という局所から世界を見渡せば
距離が確定出来ない無限の空間が広がるが、そのどの方向に向かっても
「無」が「在る」
そしてその新たな「無の点」を中心にして周囲を見回しても、
またしても「無限の広がり」がある。
メビウスの輪の正体とは単純に「無限のマーク」として捉えただけでは、
曖昧な理解に留まる。
つまり正確には「無と無限とは相補的である」という象徴が
メビウスの輪の示すところなのだろう。
「いまここ:局所性」とは
「いつかどこか:普遍性」の小さな一部として属していながら、
しかしすべての「いつかどこか」はたったひとつの「いまここ」の中に
スッポリ収まっている。
親子の関係というのも局所的に見れば揺るがない絶対的なタテ関係に見えるが、
普遍的な視点から見ればヨコの関係、つまり相対的な関係に過ぎない。
つまり子供という存在が親を産みだしたとも言える。
子供が存在しない親を、はたして「親」と呼べるだろうか?
ここに「死者」というものも見かけ上の消滅に過ぎないという証明がある。
親が死んでも、あるいは子供が早死にしたとしても、
あくまでも親は親であり続け、子供は子供であり続ける。
でもその「役割の名称」はヨコの相互関係に過ぎない。
「肉体が死んでもその存在は消えない」とは、
むしろ具象の姿こそが仮初めの姿であり
抽象の無限性に消えた時こそ、絶対的存在へ帰還したと言える。
「無と無限」とが相補的であると理解出来た時、
「無限と有限」とも相補的であり、同時に存在していることが連鎖的に理解出来る。
その結果として私たちは不生不滅であることが理解出来る。
わたしたちは
何ひとつも失うことはないし、
何ひとつ得ることもないのだ。
中心の点は局所性を意味して周辺の円は普遍性を表す。
ではこの〝周辺〟に点は何個あるのか?
・・・もちろんそれは〝無限〟だ。
体積も質量も無いことを一般的に「無(ム)」の状態だというが
では無とはあらゆる不在なのか?といえばそうではない。
わたしたちは「無の状態とはなにか?」と説明する為に、
「円」あるいは「球」を描かざるを得ない。
そしてその中心の点を指さしてこれを「無の状態だよ」と説明する訳であるが、
つまり「体積も質量も無い見えない点」を説明する為に
多くの無限の線や面を描かざるを得ないのだ。
つまり「無」を説明する為に「無限」を必要とする。
そして〝説明を試みない〟ならばこの両者は生じない。
説明や照明を試みた瞬間に、「無と無限」とは同時に姿を現す。
しかしそれは純粋に抽象的なイデア上の概念に過ぎない。
体積も質量も無い「点」を説明する為に、
これまた体積も質量も無い「円」や「球」が私たちのメンタルの上に
同時に存在することになる。
つまり「有と無」とは対立する概念でも、二者択一的な状況でも無く
相互依存的な概念だ。
「有る」という背後には「無い」状態が想定できなければいけないし、
「無い」という背後には「有る」状態が想定できなければいけない。
そして「無」と「無限」とも相補的な概念だ。
ひとつの「無の点」という局所から世界を見渡せば
距離が確定出来ない無限の空間が広がるが、そのどの方向に向かっても
「無」が「在る」
そしてその新たな「無の点」を中心にして周囲を見回しても、
またしても「無限の広がり」がある。
メビウスの輪の正体とは単純に「無限のマーク」として捉えただけでは、
曖昧な理解に留まる。
つまり正確には「無と無限とは相補的である」という象徴が
メビウスの輪の示すところなのだろう。
「いまここ:局所性」とは
「いつかどこか:普遍性」の小さな一部として属していながら、
しかしすべての「いつかどこか」はたったひとつの「いまここ」の中に
スッポリ収まっている。
親子の関係というのも局所的に見れば揺るがない絶対的なタテ関係に見えるが、
普遍的な視点から見ればヨコの関係、つまり相対的な関係に過ぎない。
つまり子供という存在が親を産みだしたとも言える。
子供が存在しない親を、はたして「親」と呼べるだろうか?
ここに「死者」というものも見かけ上の消滅に過ぎないという証明がある。
親が死んでも、あるいは子供が早死にしたとしても、
あくまでも親は親であり続け、子供は子供であり続ける。
でもその「役割の名称」はヨコの相互関係に過ぎない。
「肉体が死んでもその存在は消えない」とは、
むしろ具象の姿こそが仮初めの姿であり
抽象の無限性に消えた時こそ、絶対的存在へ帰還したと言える。
「無と無限」とが相補的であると理解出来た時、
「無限と有限」とも相補的であり、同時に存在していることが連鎖的に理解出来る。
その結果として私たちは不生不滅であることが理解出来る。
わたしたちは
何ひとつも失うことはないし、
何ひとつ得ることもないのだ。
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