AIの中に自分の知識と経験を移植?コピー?して、
「それが可能になるから人間は不老不死になるのだ」という考えがあるようだ。

もし近未来にそんなことが可能になるのだと仮定するならば
「生命とは何か?意識とは何か?」ということを考察する上での
面白いシュミレーションとなる。

私が蓄積してきた人生経験のすべてを再現できるAIがもし目の前にあったなら?

〝彼〟は確かに私と様々な判断力が私とソックリなのかも知れない。
何から何まで私を上手に〝マネ〟できるのかもしれない。

たとえば私が優秀な建築家であったなら?
〝彼〟はまるで私がデザインしたかのようなデザインが出来るのかも知れない。

いや、それだけではない
人間の脳は多くのことを忘れていくが
デジタル記憶は決して過去を忘れることはなく
鮮明に過去の一つ一つを再現するだろう・・・・

だから結果として
「私の知識と経験をすべてバックアップした」時点から、
そのもうひとりの私は全くボケないだけではなく、
今までの記憶をフル活躍させて、きっと私よりもより高速に正確無比に
私の代行を務め始めるだろう・・・・

そしてその時点で「社会的機能」としてのわたしは単なる不老長寿以上の存在となり
それらがデーターである以上は何人でもレプリケートが可能になるだろう。

・・・肉体の私は置き去りにされ、お払い箱になる。

そうなった時、きっとわたしは「寂しい」と感じるだろう。

ひとのモチベーションの多くは他者からの「承認願望」による。
もしそういった動機がないならば、私はどの様な人生だっただろうか?

しかし私自身の能力がデジタル化によって大幅にアップグレードされた時、
取り残された私は「何も出来ない私」というもぬけの空になる。

そしてその時、わたしはたぶん問うだろう・・・「私とは何だったのか?」

でも人々には、その時に私のつぶやきは聞こえない。
社会には、私の疑問は響かないだろう。

たしかに人間よりも高く飛び、
人間よりも重たいものを持ち上げるものが発明されても、
だからといってオリンピックに意味がないわけでは無かった。

では、本当にオリンピックが「人間の真価を問う祭典」なのか?
100mを世界いち早く走れるのは誰か?何秒で?
人間はフォークリフトに頼らず何キロまで持ち上げられるのか?

「人間という存在にどんな意味があるのか?」
オリンピックとは、その問いに対して順位やその他の数字のみを
何百年も解答し続けてきた。

生産性の向上だとかデザイン性、芸術性に関してでさえも
いま、AIのディープラーニングは人間の聖域を侵し始めている。
そして人々はそのことに危機意識を感じ始めている。

コピー可能なあらゆるものは、
人間の聖域と思われていたところからブルドーザーで山肌を切り崩すように
いま、急速に持ち去られている。

そしてあらゆる〝機能〟の要素は、
いずれデジタルコピーが可能になるのかも知れない。

もしそうだとしたら、あらゆる〝機能〟とはわたしからはぎ取られて
そして私自身さえよりも遙かにアップグレードされてしまうだろう。

・・・じゃあ、のこされた〝わたし〟とは一体何か?

   あらゆる〝機能〟とは無関係な〝わたし〟は存在するのだろうか?

あらゆる機能、あらゆる記憶がコピーされた
「もうひとりのAIの私」と向き会った時、でもその〝対面〟そのものが、
 死すべき肉体に取り残されている私が、
  未だ残っていることを誰よりも自覚しているだろう。

だからその時宣言できる! 「これらすべてが私ではなかった!」ということを!!

・・・その瞬間というのは一種の〝死〟の瞬間なのかも知れない。

たしかにコピーされたからと言って私たちは即死するわけではないが、
しかし肉体にはアナログな肉体機能とアナログで不確かな記憶と機能のみが残される。
だからその時、私たち人間は「死すべき宿命」を痛感するに違いない。

でも、同時に私はこの瞬間をイメージしてみて、ひとつ不思議な感覚に襲われた。
「老いない永遠に聞き続けるデジタルコピーされた自分」こそが
                すべて「死んだ過去」なのだ!

「コピー可能な機能、記憶」とは、そもそも「終わっているもの」つまり過去だ。
しかし、この様なサイエンス・フィクションに我が身を置いて見なければ、
わたしたちはずっとそれら「終わっている過去」に
アイデンティティーを持ち続た(引きずり続けた)のではないだろうか?

人間のアイデンティティーとしてきた機能を、
これからはぎ取り続ける「進撃の巨人」はますます加速していくだろう。

それはある意味では、たしかに不気味な時代ではあるのだが、
でも同時に「人々の覚醒」という点においては、
素晴らしい時代の到来であるとも言える。

なぜならば、「私とは何か?」という永遠の問いに対して、
人々がガケップチまで追い詰められる時代だからだ。