宮井陸朗・シャンタン氏本人から聞いた話だが
彼は小学生の時、遠距離の家出をして、
周囲の大人たちをうろたえさせたことがあったそうだ

   ・・・その体験を彼は、痛快だったと私に語っていた

    幼少時の
    印象的な体験したことに対する
    本人が下した〝解釈〟〝意味づけ〟は、
    その後の人生の価値観を大きく決定づける

2018年12月26日 「人は皆、お月様の餌だ」

シャンタン氏にとってその価値観とは
「型破りであること」なのじゃないだろうか?

「悟り」とは、ある意味では
「あらゆる〝型(タイプ)〟に囚われない自由への解放」であるとも言える・・・
いや、むしろシャンタン氏にとっては
「自由への開放を求めた、その究極が悟りの探求」だったのかもしれない

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しかし、
 「型に囚われない」という生き甲斐、人生への解釈・・・
      それ自体もまた一種の「型」だと言える

多くの人が「悟り」を求めているのだろうが
その求める誰もが「悟りとは何か?」知らずに求めている
        いや、知らない「からこそ」求めている

あらゆる「型(パターン)」に囚われていない状態が
        「無」「空」「悟り」であるならば、

私たちは”それ”に対して如何なるイメージを持ち得るだろう?
「イメージする」そのこと自体からしてパターン化なのに???

 「型に入る」ことなく、「型を出る」ことは不可能だ
  なにひとつ創造することなく、破壊することも不可能だ
 ・・・「故きを温ねて」こそ、「新しきを知る」事が出来る

わたし自身、シャンタン氏と同じく「権威主義」は嫌いではあるが
人生のはじめから「型破りであること」に魅入られたシャンタン氏に
   私はいささか「つんのめり気味」な人生観を感じてしまうのだ

 「型破り」で得られる爽快感・・・、
  それ自体が
  「型へのこだわり(中毒)」の一種なのではあるまいか?

 ・・・それが、シャンタニズムとも言える異臭を放っている様に思う

 「型に入って、型を出る」のは
 「型破りであること」と似ているようで、
  微妙ながら大きな違いがある? ・・・様に思えるのだ

OSHOを語っても、バガヴァンを語っても、出口王仁三郎を語っても
つまるところ、すべては「シャンタニズム」という
独特なドグマの為の駒に過ぎない・・・
そう感じさせてしまうのは、
シャンタン本人が
 「既成、既存の型を破りつづけたいという願望故に
  〝自分独自な〟新しい型を性急な思いで形成してきていた・・・」
                 ということではないか?

シャンタン氏は
「ゆるゆる瞑想」という「自分独自の〝必殺技〟」をひっさげている
きっと彼は「ゆるゆる」という言葉自体にラディカルな爽快さを感じたのだ

しかし、「ゆるむ」というのはあくまでも「自然な結果」であり
それ自体は、直接的に〝目指す目的地〟として明文化してしまうことで
むしろ「いい加減さ」「節操の無さ」「グダグダ」な結果になってはいないか?

   ・・・わたしは彼の活動の跡を眺めると、失礼ながらそんな感想が漏れる


日本の禅が、
公家的な優雅さよりも、
武家社会のぴりりとした
「シャープな空気」の中にその理解の土壌を得られたのは
当然ではないか?と思う・・・

・・・いやむしろ、
   釈尊こそが武家(クシャトリア)の出身者であったが故に
   得られた大悟だったのでは無いだろうか?

「シャープさ」
---男性原理が〝先手〟をとってこそ、
   結果として「全面的なリラックス」は起きる・・・のでは?

これは
OSHO自身も繰り返し語っていた「道理」のはずだが、
しかしそう突き詰めて考えてみると、シャンタンを通り越し、
そもそもOSHOのサニヤシン達が
全体的に醸し出している女性的な雰囲気も
結果として「グダグダな迷路」しか生まなかったのでは無いだろうか?

いまから振り返ってみると、
その「女性原理がやや過剰な雰囲気」が
結果としてシーラという、
「女性側近トップのイケイケがマシンガンで武装したラジニーシ・プーラム」
          っという図式を現出させたのではあるまいか???

この
「ソフトさを中核とした女性原理過剰なオショーワールド」が
    オレゴンから米国政府によって強制退去されて暫く後、
     彼の日本人第一世代の弟子、シャンタンが活躍しはじめる・・・

「白いおひげを蓄えた、柔和でエッチな妖精おじいちゃんが
 自らのシャンタンシスターズという〝歓び組〟を・・・」形成しはじめた

それはあまりにも〝自然な成り行き〟に、今となっては見えるのだ、私には

たしかに現代とは、
安倍政権・日本会議や、「オウム事件」という時代のキーワードは
「過剰な男性原理」が主人公になっている

しかしそれを可能にしているのは、
「愛、平和、自由、ゆるゆる」といった女性原理の
   〝不足〟ではなく〝過剰さ〟ではあるまいか?

つまり、
左翼的(弱者の権利主張)思想の縮小では無く、過剰さが
右翼的(既得権益ファースト)思想の暴走を許しているのでは?っと、私はいいたい

・・・これに本能的に気が付いている日本人が多いからこそ
   多数が安易に「シールズによる国会包囲」を支持しないのだと思う