2018年12月12日
「妥協しないことの美しさ」
の続編として・・・



政治は「どうしようか?」
「何をどう変えようか?」を問題にする

でも、人々の在り方が変わらない以上
「やり方」なんていくらでもインチキが効く

ユダヤの金融支配はアンフェアだと言う
すると「では、どうしたらいいのか?」誰もが問う
・・・誰もがシステムを改善しようとするが、そこに解答はない

人々は、ありとあらゆる方法で
結局は搾取されることを免れない

つまるところ
「搾取したい」ひととシンクロしている人が
常に
「搾取されて」いる・・・ワケだ

これは昔も今も、これからも変わらないだろう・・・
この世界には
加害者と被害者しかいない
しかし同時に
加害者も被害者もいないのだ

とはいえ
「どうやるか?」から
「どうあるか?」へのシフトとは
なかなか思考によっては理解出来ない
なぜなら
「在り方」は時間的プロセスを超えているからだ

「在り方」とは何か?・・・
それはOSHOがいう「妥協しない」ということに深く根ざしている

それは単に「頑固になれ」ということではなく
瞬間瞬間の自分が変化している事に対して
克明にフォローしていく心の動体視力を養うことであり、
その目撃結果に率直に、受容的であり続けることだと思う

エンライトメントはよく
「我が家に帰ること」に喩えられる・・・・

「我が家」と聞くと、私たちは
「継続的に安定して存在している場所、建築物」をイメージする

ところが、唯物的に見ればそれは
「いつかどこかに存在している」様に見える

だから私たちは、「安らぎの我が家」を
「何か(社会システム、哲学や宗教の主義、万能のメソッド、財力や権力)」や
「誰か(永遠の恋人や友人、メンター、マスター、ツインソウル)」を
                      探し始める・・・

しかしその旅の果てに
「外側には何も無いという結論に辿り着く探求者は希(まれ)だ」
By OSHO

そこで・・・
とりとめも無く変化していく、
知れば知る程、
瞬間瞬間、脈絡も無く、気が狂っている様な「いまここ」「自分自身」に
探求先をシフトさせていく「探求者は・・・」希だ

しかし、
政治や宗教、あらゆる信念システムの黄昏から、本当の宗教性は始まる

その入り口は、
胎児だった私たちが
母親の産道をもがき這い出した時と同じような、
絶望的な孤独と苦痛、そして狂気とエクスタシーに満ちている

・・・それは「他には選択肢が無い」と強く自覚した(観念した)者だけに
   可能な選択だろう

  逃げ帰りたくても、「いつかどこか」には我が家は見つからないのだから

その時、「妥協しない」という言葉の意味は、全く変化してしまう
それは、単に他者の忠告やら意見に対して「妥協しない」のではない

「他には選択肢が無い」という絶対的な、手放しの選択なのだ

この通過儀礼の先に・・・
「瞬間瞬間の私」にしか「永遠の我が家」はない、
というパラドックスが、矛盾ではなくなる ・・・という安らぎがある

その時、
私たちは、どこにも、誰にも
永遠の保証や安らぎを欲しなくなるだろう