昨日、2018/12/15は、渋谷の茶道教室を見学に行った

珍しく長時間正座などして神妙にティーセレモニーに立ち会ってみると
やはり「一合一会」という言葉を、強く意識した

なぜ、茶道は人の心を惹きつけるのか?
main-2-700x467


本格的な茶道に限らず、
最近はいろんなお茶会、交流会に精力的に出席している

今日、
日曜日も日本橋まで
少人数のお茶会に出席したが
男性ばかりだったのに、なかなか楽しかった

きっと、「何も期待しない」ことこそ「楽しさ」のツボだと思う
私は今まで「息の長い人間関係」というものを期待しすぎていたのだ
でも、実際にいままでの人生を振り返ると
「息長く続いたなあぁ~」という人間関係は
その出会いの当初においては、そんな期待を全くしていなかった

すべては「結果としてそうなった」だけだ
わたしはどうも、あまり人を追いかけるのは苦手な様だ
もし追いかけるにしても、それは「起きる」ことであり
自然な理由があって追いかけた場合だけだった
それは「関係性そのものの持続の為」ではなかったなぁ~と
振り返って気が付いた

人との出会い、人とのおつき合いとは不思議なものだ
つまりはそれらすべては「頂き物」であり「恩寵」だった

気取っているんじゃ無い・・・
人と人とのご縁は結局のところ
焦っても、ガッツイても、埒が明かないのだ・・・

これからも、
「長いおつき合い」「一瞬の出会い」・・・様々だろう
でもそれら様々な、多種多様な関わりが、オーケストラの様に
自分の前を流れてゆく・・・・

  それらのハーモニー全体を貫く背後には常に「静寂」がある
  「わたしはひとりだ」という沈黙のベースラインがある

きっといままで、私はその「沈黙」を恐れていた
「自分は家族と縁が薄い」という自分の運命に対する解釈だ
でもそれは必ず「幸せそうな」他人との比較を通して起きる感傷だった

  皆が幸せそうに笑っていても、
  それが「私より幸せな証拠だ」と言えるだろうか?
       ・・・それは、とんでもない錯覚だった

長い付き合いだから「良いご縁」
短い付き合いは「無価値な出会い」だと、一体なぜ断言出来るだろうか?

そんな解釈自体が、
「全ての人とは〝一合一会〟なのだ」という
強烈な自覚を遠ざけてきていた・・・

・・・そうした自覚の回避とは、
   事実上は「自分自身からの回避」だった
       「自分自身の運命からの回避」でもあった

    そしてその背後にある静寂とは「死」だった
    「全てが一合一会」であると言う自覚からの回避とは
    「死という運命からの逃亡」だったのだ

 そんなことは、
  どれ程多くの友人に、久しく長く暖かく囲まれても
  「回避出来るあろうワケが無い」・・・虚しい努力だったのだ

たしかに良き友と長いおつき合いとは、良いものだ
しかしそれは、「貪ることは叶わぬ」ことだ

今日まで
 何が、そこにあったにせよ、
 誰が、そこにいたにせよ
  それらはすべて「恩寵」だった