マイクロソフトが、
政府による「顔認識技術の規制」を求めて動き始めた理由


たぶん、マイクロソフトとしては
「中国みたいになってしまっては困る」
       っと判断したのだろう

中国に続き米国も監視社会…
アマゾン「顔認証システム」、政府・警察が瞬時に…



人々の内面におけるリアリティーが、外面~表層社会へと現実化してゆくのだ

私たちは何故、家畜のように管理されつつあるのか?
それはきっと、自分で自分自身の内面をも、家畜のように
   「管理しよう」「飼い慣らそう」としているからだ

外界とは、私たちの内面世界の投影、鏡に過ぎない

フリーメイソンが「自由・平等・博愛」をスローガンに
世界中の王族をギロチンに掛けて民主化革命していった

「民主化」の本質とは、
「自由・平等・博愛」を人々が共同現実、表層社会に求めはじめるということだ

ところが
他者や社会に対して、意識的に自由を要求すればする程、
その代償としての責任や義務がのしかかってくる

人生で「食べる量」「呼吸できる量」は
あらかじめ決まっている、というセオリーがある・・・

つまり
食べ過ぎたり、呼吸を荒げる程、その定量は急速に消耗し、健康を損ね
結果として早死にするのではないか?っというわけだ

同じ事が「自由」にも言えそうだ
人生のあらゆる場面が、選択の連続だ
そしてその「選択の自由」とは、
私たちが自覚しているよりも遙かに多くの
「自由の消耗」をしているのではないだろうか?

そう仮説すると、
スティーブ・ジョブズや、マーク・ザッカーバーグが
いつも同じ服装をしている理由
も分かってくる

私たちはいつも「どうでも良い、非本質的な事」に
選択の自由を行使しているが故に、奴隷の一生なのだ

「誰もが奴隷」の社会ならば、家畜のように管理されるのもやむを得ないし
確かに家畜であるならば、誰もが平等だろう

博愛、つまりチャリーティーの世界とは「偽善」そのものだ
私たちはそれで「愛を施した」という満足感を得る

no title

「私たちは医療の分野以外で『人を助けたい』と考えるのは不適切なのだ」
By クリシュナムルティー

「自由・平等・博愛」とは、本当は内面的な探求者のみに許されるべき言葉だ

 それを外面世界(政治など)に追求した時・・・ 
 つまり、民主主義の完全実現とは、
 実際には「万人の万人による闘争」を煽る

 そして、その秩序の崩壊を食い止める為に
 「AI (スカイネット)による完全管理社会もやむを得ない」と誰もが妥協する

「真・善・美」もまた、内面的な探求者の為の言葉だ

 それを外面世界に探求した時・・・
 私たちは自らの欲望の3D投影しか見つけられない

 真実とは内面的な完全自由、つまり自己受容を通してしか知り得ない
 自分自身の完全な開花、解放のみが「嘘偽りの無い真実」の発見であり
 つまりそれ以外とは、すべてがもっともらしい「偽善」だ

 自分自身を偽って
 道徳家ぶっても、慈善家を気取っていても
 「この花は美しいですね」と言うぐらいは出来るだろう

 しかし、あるがままのものを、真にあるがまま見ることが出来るのは
 内面に一切の「前提」を持たない無垢な人だけだ
 「花は美しい」という概念だけで生きていて、
  自分自身との率直なコンセントが途切れている人には、
  花の美しさも、またダイレクトに感じることは出来ないだろう

  ありのままの姿、を美しいと感じるか?醜いと感じるか?
  それは「味」の世界と同じく主観に依存する・・・、
  そういう意味で「美」とは議論が不能な世界だ

   ただし、私たちは真実を内面に見いだせなければ
   善と偽善との違いを見分けることも出来ず
   ありのままの美しさを感じることも出来ないだろう


  真の悪、真に危険で厄介な「悪」とは、「偽善」だ

「日月神示」を擁する大本教であれ、「妙法蓮華経」であれ
言葉として顕された教えというものは、必ず政治的に解釈され
メーソンの「自由・平等・博愛」と同じく戦争へのスローガンに
転用可能だ

  皇軍の阿呆アイドル・石原南無妙法蓮華経莞爾

  大本と軍とのつながり

肉体の目玉が外向きにくっついている以上
私たちが有史以前より今日まで、
  「自由・平等・博愛」を、
     「真・善・美」を
   まずは「外側」に探求してきたのはやむを得ないことだった

しかし、何世代にもわたり、70億以上の人口で地表をくまなく探しても、
わたしたちはそれを発見できなかったし、だから当然、実現も出来なかった
つまり、「はじめからなかった」からだ
「見つかった!」と思ったのは常に相対的な、普遍性も無いものばかりだった
そして絶対性も普遍性も無い、場渡り的な「自由・平等・博愛」は
結果として、ますます酷い「不自由・不平等・冷酷な」事態を招いてきた

それがわたしたちの「手にした」ものだった
「鏡に映った真理」とは、「真理そのもの」ではなかった

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  「自由・平等・博愛」、
     「真・善・美」・・・なんて素晴らしい言葉だ!

しかしその「素晴らしさ」に目がくらんで、
わたしたちは間違ったところをずっと探してきていたのではないか?

わたしたちが、ぼんやりと凡庸なままに留まるとは、
実質的には
  「AIによる世界管理を受け入れます」という
---受動的な受容(というより需要?)---を意味する

「意識的な進化の停滞」とは実質的には「退化」に他ならない