神による生物の自然な進化は「土曜日」で終わった
土曜日~サタデイとは「サターン・デイ」のことであり
つまり「ヘビの誘惑による失楽園~大脳の発達」こそが
神による自然な人類進化への〝介入の終わり〟を告げたのだ・・・

映画「オーゴット」では、ジョン・デンバー演じる主人公は
神に向かって懇願する、「僕たちはあなたを必要としているのに!」
すると神は答える「君達は複数いるじゃないか?助け合えよ!」
そして映画の最後では、「わしは動物たちが好きなんだ」といって
サファリ・ジャケットを着込んで、神は動物たちの世界に去って行く・・・

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人間が神と共に暮らしていた時代とは
人間が野生動物と、何ら変わらない時代だったと言うことを意味している

人間は、物事の因果律を解明しようとし始めたことにより
人間は、老化というタイムリミットに追いかけられるようになった

肉体的な老化なら、野生動物にもあるし
肉体的な苦痛なら、野生動物も感じる・・・
しかしマインドが3歳児程度に留まる野生動物は、生老病死で苦悩することは無い

本当は、
マインドを超えたならば、人間もその苦悩からは自由になれる・・・
            ・・・いつだって

無垢と無知との違いとは、
個性と人格との違いに、大いに関連している

個性とは、無垢で無邪気で、天真爛漫であることによって発揮される
それがナザレのイエスが言うところの「子供のようであれ」という状態だ

しかし、
あくまでも「子供の〝様な〟」であって、
単なる無知で無責任な子供に戻れ、っと言うことでは無い
・・・それはもう不可能だ、
私たちは再び無垢に「なる」事は出来ても、無知に「戻る」ことは出来ない
私たち人間は、とっくの昔にエデンの園から旅立ってしまったからだ

OSHOが言う様に、
無垢であることにも、無知であることにも
生き方としては大きな代償を伴うであろう事は同じだ

しかし
子供のような無邪気さを取り戻した大人は、
美しい個性(インディビデュアリティー、ユニークネス)を輝かせる・・・
そして自己責任の尊厳において「被害者意識」に自らを貶めることはもう無い

自らの天真爛漫さ、自己信頼の中に生きている人は
如何に大きな損失を覚悟してでも、自分自身のあり方を
無邪気に信頼し続けるのだ・・・  そこに妥協なき生き方の無限の美がある

ところが
単に幼稚な我が儘や自己主張に生きる大人は醜悪で、危険でしか無い
「人格(ペルソナ)」という仮面に自己同一化した人は、
「子供っぽい」狡猾さで人々や社会や、そして何よりも自分自身を欺く


人類は遅かれ早かれ、
野生動物だった時のようなワイルドさ、純真さを取り戻すだろう
しかしそれは退化によってではない
それは人類自身の意識的な進化、「新エデンの園」への帰還によってだ

わたしたちの「幸せ探しの堂々巡り(ロンド)」は、そこで終わる