「チャーリーは言った
  『手は手でなければ洗えない』
  『得ようと思ったらまず与えよ』
 ってことは〝(ギャンブルを)やれ!〟ってお告げじゃないか?」

              By ジェット・ブラック

「呼吸とは、吸うことに意識するのでは無く
      吐くことを意識するべきだ」
「豊かさを得る秘訣というのも同じだ」
「溜め込もう、得よう、着飾ろうとすることでは無く
 常に無であることに意識することに豊かさがある」

              By 宇野正美




この2人の言っていることはよく似ているが、実は全く違う
ジェットが言っているのは
「勝ち取る為には投資が必要だ」
  重心はあくまでも「勝ち=価値」つまりギャンブルだ

宇野氏が言っているのは
「経済的な成功とは、施す為の手段に過ぎない」
・・・その〝施し〟に重点がある・・・と言っている

宇野氏の講演会は
通常は「世界を牛耳る金融マフィア、ユダヤの悪巧み」の指摘だが
この講演では少し視点が違い、
「彼らなりの崇高な目的意識~施し先、献身先、大義がある」と
 指摘している

その彼らに
「個人的に富を溜め込もうとしている烏合の衆」が対抗しても
勝ち目はないことを宇野氏は言いたいのだ


OSHOは「存在の詩」の中で、
「無から与える」ことの素晴らしさを語っている

もし、〝無〟が、単に「何も無いこと」を意味しているならば
「無から与える」という言葉の意味は単純に「何も与えない」とイコールだ
          しかしOSHOが言いたいのは勿論そんな事では無い

「無から与える」とは「無限性から与える」という意味で
つまり「無(ム)」とは「限定や限界や定義が存在しないこと」なのだ
      ・・・・「〝ム〟の人」と書いて「仏(ほとけ)」である

だから「無」とは単純な「一切の不在」ではなく
あえて例えるならば「無」とは「曇りの無い鏡」だ



「私とは何か?」「シンプルに何ものでも無い」



「〝あなた〟とは何か?」
「あなたがしているその質問、そのものが〝あなた〟です」



つまるところOSHOも、クリシュナムルティーも、バガヴァンも
「私とは無である」と答え
そしてその〝無〟とは
「鏡の様なものだ」と異口同音に答えている

葉隠れの「武士道とは死ぬことと見つけたり」・・・
ここでいう「死」もまた、単純な肉体的「死」というより
「おのれを無にチューニングせよ」という方が本意だと思う

これはエンライトメントした人の特権なのでは無く
全ての人の本質なのだ

いや、人だけでは無い、全ての存在事物が「無」であり
定義を超えている・・・全宇宙を映す鏡なのだ

人間が・・・
自ら産み出したAIを超えた存在で在り得るのはこのポイントにある
そして欧米の人達がシンギュラリティーを恐れているのはこの一点にある
つまり「人はすでに皆、仏性を宿している」というコンセプトが、
「人間は皆罪人」というキリスト教文明には無いのだ

欧米の物質文明、機械文明は
欠落感、欠乏感、生き残る為には略奪、搾取が不可欠という
強迫観念によって急激に成長した戦争依存型文明だとも言える

しかし、アインシュタインは予言した・・・
「第三次世界大戦が有り得るかどうかは予言できない」
「でも第四次世界大戦は絶対にあり得ない」
「なぜならその時世界は滅んでいるだろうから・・・・」

この警告を込めた予言の的確性によって
もはや戦争型文明の発展は行き詰まり、
人々の奴隷化・・・
 借金をバックグラウンドにした金融システムは、いま限界を迎えている

AIが人々の仕事を次々と奪い始めた現代
「人間は・・・」これから「何を」するべきか?
  「わたしは、・・・」これから「どこに」行くべきか?

        自己探求には大別して二種類ある
        「外側」の探求と「内側」の探求だ・・・

 そして
 この二種類が混同されがちなのが
  「成功法則」や「自己実現」のセミナーだろう

AIや占いは、「あなたがどんなタイプの人間か?」
といったマス(大多数)的な分類(カテゴライズ)、
分析なら手際よくしてくれるだろう

あなたが単に、
「社会の中での自分のハマる場所」を探しているだけならそれで充分だ

しかし、命があるものにとってはすべて、自分自身こそは唯一無二なものであって
これは生命の最もシンプルな根源的な「痛み」と「至福」だ
それはマス(数学)的なカテゴライズで満たされる欲求ではない



たとえ人々が
キリスト教的な、あるいは社会不適合的な自己否定感で苦しんでいても
その苦しみそのものが、
本当は自分自身の存在に対して
「無限の尊厳」を欲している〝ウラ返し〟なのだ・・・と私は思う

そしてこの「無限の尊厳」とは、内奥の本質である「無(ム)」に対するものだ
何とも比較できない、どこへもカテゴライズできない、それが「無(ム)」であり
私たちの生命の本質だ

あなたには、何かあるだろうか?何か持っているのだろうか?
「ある」と主張できる何かがあるとして、
それはこの世に生まれてくる前から
所持していたものだろうか?

確かに自分の肉体や才能はある程度、自分の意思で自由に動くが借り物に過ぎない
だから死と共にこの世界に返却せざるを得ない、私たちの永久の専有物では無い

私たちの本質とはいわば「鏡」であり、「光そのもの(発光源)」ではない
それゆえに他者に光を求めるが、他者もまた鏡なのだ

その時、自分の内面も、他人との関係も底なしの闇の様に感じる

これを「虚しさ」と捉えた時、私たちは自分自身の空虚感に耐えられず
何かを学習してスキルや資格を得ようと努力を始めたり
財力や権力を追いかけ始める・・・・「自己肯定感」という武装をするためだ

しかし、
「我は言葉なり(梵天)」ではなく
「我は光なり(光明天)」でもなく
「我は鏡なり(浄居天)」という世界観に向かった時
   もうそこには人工的な自己肯定も自己否定もなく、
          ただただ静かな自己受容だけがある 

  そしてその時、同時に、
   私たちは他者に対する否定や肯定も無く
   あるがままのものを、あるがまま受容出来る様になる
   そこにはもう「自己に対して」とか「他者に対して」という境界はない

野のユリは何故、栄光栄華を極めたソロモンの王より美しいのか?
そこには全く作為がなく、「あるがまま」だからなのだ・・・ それが「無」だ
文字通りの天衣無縫な美しさ、輝き、天真爛漫さには、
あらゆる栄光栄華も叶わない・・・


地球上の70億以上の人間が、自己肯定感を求めて何かをし続ける以上
それは莫大なガラクタしか生まない、それは環境を破壊するだけだ
そのガラクタのことを私たちは「豊かさ」だと誤解してきた・・・

しかしこの世に鏡の様な受容性で柔軟な輝きに満ちた人々が増えていく程
人々の営みは「する」ことから「在る」ことへと自然にシフトしてくる

その時、
本当に切実な必要性だけがハッキリ見えてくるだろう・・・
人々が貧困や飢餓、環境破壊と、より真剣に向かい合う様になる

その時、
自己否定や自己肯定と言ったアップダウンも
闇の世界政府が胴元のカジノとしての金融システム支配も消える

なぜならば、
いびつな慰めや作為的な癒し、施し、気休め、気晴らし、同情が
そういった賭博場を支えてきたからだ

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