「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という議論は
ある意味ではバカバカしくて、これは
「生命体と、その生命カプセルと・・・」を比較するならば
生命カプセルとは次世代の為の“手段”に過ぎず
この〝手段〟とは生命体(親)の中で工夫されたシステムのはずだから
「子と親はどちらが先か?」という質問にも言い換えられる
           答えは「ニワトリ~親が先」のはずだ

しかし、
それはこの物質世界からみた場合だ

この解答はひっくり返る・・・
「タマゴ(あの世の生命)からニワトリ(この世の生命体)が生まれた」となる



このブログでの私の持論は
「親と子との垂直関係がメスとオスとの水平関係へと変化していった」ので
ユダヤ教や日本の古事記的な発想、視点とはつまり
「始めに霊(男性原理)ありき、それが地上に降臨して肉体(女性原理)が宿った」
とある

一つの卵子めがけて何億もの精子が突進する受胎の光景とは
まさしく霊が肉体に宿る不可視の瞬間の、
そのまま物理的な図式化なのかもしれない

「タマゴが先か?ニワトリが先か?」
「男が先か?女が先か?」

この問いは煎じ詰めると
「あらゆる可能性に満ちた平行宇宙が、どの時点で確定~局所化するのか?」
という問いに集約出来るのかも知れない

精子が卵子にタッチダウンするドラマチックな瞬間とは
精子(霊界)側から「見る」事も出来るし
卵子(物質界)側から「見る」事も出来る・・・

果たして「精子が卵子を選んだ」のだろうか?
それとも「卵子が精子を選んだ」のだろうか??

結局のところ
  「どちらとも言える」し
  「どちらとも言えない」のだ
一つの卵子に殺到する数億の精子達同士は兄弟姉妹関係でもあり、
それは競争関係でもあり、同時に協力関係でもある



それは一見、一つの精子が卵子を「勝ち取った」様にも見えるが
どの精子が辿り着いたにせよ単にその卵子に「選ばれた」だけかもしれない

そもそも人生のあらゆる瞬間の「選択」そのものが、
一見「自分の意思による確定」のようにも見えるが、
実は、
  「自分で選んだ様に見せかけられている」だけで
本当のところは
  「すべては運命的なお膳立てに操られていた」だけかもしれない

ここには「自由意思による決定」というもののマトリックス性がある

  いつまでもどこまでも
  「自分がやった」という自負心に踊らされている間は
   私たちは「お釈迦様の手の平の上の孫悟空」に過ぎない

「手の平の上での自由」に気が付いた時、視点の転換が起きる・・・

つまりその時、
私たちの視点は「孫悟空~猿の王」から「お釈迦様」へと
ひっくり返るのだ

宗教の多くは
「我」が男性原理で「汝」を女性原理として語る
きっとそれは宗教が私たちを「探求のはじまり」へと導いているからだ

宗教は私たちを探求者、つまり孫悟空にする・・・
しかしこれは「出口の無い袋小路」だ
賽の河原」だ

精子は卵子に閉じ込められ
霊は肉体に閉じ込められる

しかし「瓶から出ようともがく」から、私たちはガチョウになってしまったのだ
出口は、そもそも入り口と同じだ
そもそも探求の入り口、問いかける〝前〟に〝戻る〟ことにこそ解答がある
宗教(問いかけの前提)に捕まる〝前〟にこそ・・・

そもそも私たちは「閉じ込められた」のではなく
「親と子」「男と女」「原因と結果」「人間とテクノロジー」との再会によって
「(不自由の中の)新しい自由」を得たに過ぎないのだ

11