2018-09-01



このブログで私は
スピリチュアルでよく言われる
「無条件の愛」という言葉を何度か批判してきた

ひとりの人間が生きていく上で、完全に無条件と言うことはあり得ない
そして「人としてちゃんと生きて行ける躾(しつけ)をされない」こと程
残酷な、愛のない状況は
私にはちょっと他に考えつかない

もし世界中の子供の親たち、教育者達が
文字通りの〝無条件な〟愛を〝無分別に〟信じ込んでしまったなら
この世界のだれひとり子供を躾けることは出来ないだろう
なぜなら躾というのは、まさしく「社会的な条件付け」に他ならないからだ・・・

       ・・・・そして世の中はすでにそうなりつつある
           親も教育者も自信を失いつつある・・・

           「無条件な愛」という言葉の美しさに
           抵抗できないでいるからじゃないだろうか?

わたしは「条件付けられた愛」だなんて、到底「愛」と呼べはしないと思う

「約束を守ればケーキをあげる」
 ・・・そんなのは愛じゃなく〝調教〟だ

「年収一千万以上の人なら夫として愛せます」
 ・・・そんなのは愛じゃなく単なる〝就職〟だ

  「条件付けられた愛なんて愛じゃない」・・・

    でもそれではすなわち

         「愛とは無条件」なのか???

     論理的にはそれは一見正しい様に見える
 しかしそれは「逆も叉、真なり」が成立する場合のみに言えることだ

   「風邪を引いていては健康ではない」だろう
では
   「風邪を引いていなければ健康だ」といえるか?

あくまでも「愛から行動する人」が
「愛の為なら
  ・・・・手段を選ばず無条件に何でも為すことが出来る」というだけの話だ

恍惚として「全ては愛だ!」と宣言する人もいるだろう

    〝非常に広く深い意味で〟
    ・・・っという条件付きならば、
     わたしもまた、「森羅万象はすべて愛」なのだと思う

一見極めてエゴイスティックな人の行動ですら、そのあらゆる根底には
何かや誰かに対する強い愛着が動機になっているのじゃないかと思う・・・

その対象が、
「難病の孫娘の為」なのか?あるいは「国家の為(つまり愛国心)」なのか?
あるいは「自分自身が生き残る為」なのか??

 その「愛の対象が何なのか?」「誰なのか?」は千差万別だろうが・・・
  それら「愛の対象が何か?」を問わず
  複数の存在が、相互に結び付き合い、生かし合う・・・
  それが愛という現象だろう

しかし、愛には盲目的な要素がつきものだ
ゴキブリの交尾だってある意味では愛の行為だけれど
そのシーンを見ても私たち人間の多くは「全ては愛だね」とは言い難い

家族の為に、だとか民族の解放の為に、とかで
明日の自爆テロの準備をしている人もいるかも知れない

愛が「誰かと誰かとの特別な関係」である以上は
愛とエゴイズムとは不可分な要素があるのだ

愛とは常にこの世界の局所的な結びつきであり続ける以上
「全てが愛」だと宣言はしても、それは極めて
広範囲で特別に深い意味を込めての話であり
そんな普遍的な人類愛や高邁な博愛を語るならば
それと平行して局所的な男女の恋愛や、偏在的な愛国心を語ることは
不可能なはずだ

・・・では「全てが愛だ」と高らかに宣言することに
   きれいごと以上の、一体どんな意味があるだろうか?

人間は「きれいごと」だけでは生きていけない
博愛といった高邁な精神は絵に描いた餅に過ぎず
実際には条件の違いによる〝えこひいき〟のことを
私たちは日常で「愛情」と呼んでいる

「誰かを」愛する、「何かを」愛するとは
すなわち「身内だから」とか「趣味が合うから」「フィーリングが合うから」とか
条件次第で「右だ」「左だ」だのといった、モロに偏愛であり、
極めて選択的な「えこひいき」なのだ

にもかかわらず、スピリチュアルでは「愛」ということばを
神殿のてっぺんに飾り立てている

いっそのこと、
愛とはえこひいきだと、条件次第なのだと
    率直に認めてみてはどうだろうか?

そしてその中心にどっかりと腰を据えているのはジブン・・・
愛する特定の対象を選ぶのもジブン・・・
愛する条件を要求するのもジブン・・・
・・・つまり、愛の中心には常に自分があってのことなのだ

その率直な理解がなければ、ジブンの子供の躾けすら出来ずに
わたしたちはきれいごとの甘い幻想の中にさまよい続けるのじゃないだろうか?