真理は人物ではないし、
真理はどこか外にあるものではない。
それは客体として 見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。



知的に知りうることは99.9%正しいかも知れない
しかし100%はあり得ない

物理的には完全に正しいことであっても
それは単なる〝事実〟に過ぎず
真理とは、単なる事実の羅列のことではない

たとえば
「隣の奥さんは不倫していた」だとか・・・
「OSHOが斯く語った」だとか・・・

  ・・・「それが何?」で終わりだ

事実を記述した紙を月の距離まで積み上げたとしても
それによって真実が導き出されることはない
ここにAIがシンギュラリティを向かえ、
認識主体である意識が目芽生えるか?否か?の鍵がある

真理とはシンプルに、自明のことに過ぎないかも知れない
しかし真理は、それを悟った者達を圧倒する、ノックアウトする
ひとの意識を変化させ、生き様をひっくり返す・・・それが真理だ
真理にはそれだけの大きな力がある
そうでなければ単なる知的に事実を知ったと言うだけのことだ

事実というのはひとつひとつの事象の記録でしかないけれど
それを如何に観るのかによって人々に全く違った解釈や実感を与える

たとえばひとつの事件や事故を観ても
それは観る人によって色んな教訓や感想を抱かせる・・・

・・・それによって「私はそのことを知っている」と各人が思う
   しかし「たったひとつの事件」に対して
   各人が持ち帰った教訓や感想を照らし合わせてみると
   あきれかえる程違っていたりする

そのどれかが〝正解〟であったり〝誤解〟であったりすることは
真理とは無関係なのだと思う
「真理とは何か?」と考えた場合、
それらさまざまな視点や解釈は皆、
人間的な〝何か〟に過ぎない、相対的な意見や解釈に過ぎない
と言うことが重要なのだ

ある人の意見は斬新で鋭いかもしれないし
ある人の感想は的外れなものかもしれない

・・・しかしそれらはすべて〝人間的な解釈〟の範疇を出ない

精神病院の中の百人の患者が、
「余はナポレオンじゃ」と宣言したにせよ
その中の一人は、本当に前世がナポレオン・ボナパルトなのかも知れない
あるいはナポレオンの魂が100人に呼びかけているのかも知れない
誰かが何かを宣言したとして、私たちはそれについて何と言い得るだろうか?

人々の目に映った事実とは、たったひとつの単純なことに関しても十人十色だ
だからそれは相対的でどれかひとつが絶対的と言うことは無い

「あれに関すること」を指さしたとしても
「これに関すること」を指さしたとしても
「それに関すること」を指さしたとしても絶対的な知などありえない

私たちが断言し得ることとは、常に「いまここ」に関してのみだ
あなたの「いまここ」に関する絶対的な知、絶対的な権威はあなただけが持つ
わたしの「いまここ」に関する絶対的な知、絶対的な権威はわたしだけが持つ

それは、周囲の誰の同意も得られない
誰かの同意を得たとしても、その同意には何の絶対性もない

たとえ今まであらゆるパラレルワールドがあったにせよ
たとえこれからあらゆる平行宇宙の選択肢があるにせよ
それら無数の線を束ねる「いまここ」というキングピンは、たったひとつしかない
それは「解釈」「感想」といった曖昧な余地を一切持っていない

 ・・・OSHOはその認識主体を〝真理〟と呼んでいるわけだ