日本やドイツなど、いわゆる独裁国家が敗北したWW2の後、
現在もありとあらゆる形で
アメリカ(アシュケナージユダヤ)によって執拗にコマシャールされているのが
「民主主義バンザイ」だ

そして絶対悪こそが「独裁政治」だ

しかし、それが恐るべき欺瞞であることは日常を見渡すだけで分かる

どんな小さなワークグループであれ、
「議論による多数決」など待っていては
何事も決定出来ずに空転しいたずらに時間を浪費するだけだ

ユダヤ・プロトコールは言う
「ゴイムどもに議会制民主主義を信じ込ませれば私たちの勝利だ」
「議会など何一つ決定出来ない」
「わたしたちは〝専門知識を持った責任ある個人〟こそが
 常に物事を迅速に正しく決定出来ることを知っている・・・・」

「精通している」ものだけに決定権を与える・・・
それは極めて専制君主的な、独裁的なやり方だが
ものごとが、よりスムーズに、正しく決定出来るのは
「三人が寄り合って出した文殊の知恵」ではない

独裁が絶対悪だという決めつけこそが宗教なのだ
「みんなで決める」という民主主義とは「責任の曖昧な社会」しか産み出さない
    ・・・それは「赤信号、みんなで渡れば恐くない」社会だ

そもそも
絶対悪や絶対善といった信念体系を大前提にしている時点で、もはやそれは宗教だ
もしその判断基準を振りかざすならば、その人は「神の代弁者」であることを意味する
「わたしは神の言葉、神の意志を知っている」
「わたしはそれゆえ絶対的な善、絶対的な悪を知っている」という傲慢・・・
それこそがカルト・キリスト宗教が蔓延したアメリカという国家の本質なのだ

在るのは唯一、相対善と相対悪だけだ
なぜなら、「議論出来ることがら」というのは
常にカテゴリーがはっきりした「有限なこと」に関してだけであり、
アタマも尻尾もない、始まりも終わりもない「無限なこと」について
いったいどんな論理的な、具体的な議論が可能だろうか?
・・・限定的な事柄に関してのみ、善悪や正誤、真偽について議論が可能だ

そして
限定された分野には
常に専門的な知識や経験が存在し、「その道の権威」が存在する
それゆえ
それらを無視して議論されることは、
常に「赤提灯での酔っ払いの政治談義」で終わる

独断や独善とは、
専門的な知識と経験を前提とするなら
相対的には悪に陥る危険こそあれ、けっして絶対悪ではない
それは、あらゆる決定事項に関するタテ軸の父性原理であり
そして、民主的なコンセンサスの重要性とはヨコ軸の母性原理だ

アウシュビッツ神話に支配されたWW2後から、
民主主義という母性原理、相対主義こそが、今現在も全世界を覆っている
                それは父性原理が去勢された世界観だ

それはグローバル経済至上主義の世界でもある
この「責任者(父性原理)不在の世界」が破滅に向かっていることに
             いったいどんな不思議があるだろうか?

そしてこの世界はいずれAIが支配するだろう
父~責任者、決定者が不在ならば
あらゆる過去データーが詰め込まれたAIの方が
「誰もが納得出来る、もっとも〝民主的な〟意思決定が成される」
                     という結論になる

でも実際には、その母性原理の神を背後で支配するのは闇の政府だ

大西つねきさんは「民主主義のために皆が政治に関心を持とう」と言う
それもまた大切かも知れないが、
もしすでに「暴力を背景にした偽善的民主主義~実質的AI独裁社会」が
完成しているとしたら、「清き一票」にどれ程の意味があるだろうか?

私たち一人一人にとっての本当の〝責任〟とはなんだろうか?
それは政治的啓蒙、シュプレッヒコールだろうか?

いや、もし私たちが「学習した過去データー」を脳内で反復して
「政治的な多数派になろう」、「制度を改善しよう」としても
たぶん民主的な仮面を付けたAI独裁権力には従属することになるだろう

問題なのは「システムを変えること」「制度を改善すること」という
取って付けた、場渡り的解決ではない

私たち一人一人が、まずは自分の人生の責任者になることなのだ
「借り物ではない、自分自身の生を全うしよう」という決意こそが第一歩なのだ

そしてその第一歩が、最後の一歩になる
自分自身の人生の責任者になる、ことこそが全存在に対する責任への覚醒だからだ