開運の伝道師・斉藤ひとり氏は、
嫌な時、辛い時ほど、一呼吸して
「しあわせだなぁ~」というそうだ・・・

クリシュナムルティーは
「知っていると言うことでは無く
 知らないと言うことが自由なのだ」という言葉を残している

バシャールは
「起きていることは全て中立(ニュートラル)であり
 それをあなた達は『良い』とか『悪い』とか解釈している」とよく言う

ソクラテスのトレードマークは
「私は知らないと言うことを知っている」だ

誰が見ても「嫌だ」「辛い」っとしか思えないようなことでさえ
「観念による解釈」に過ぎず、ひょっとしたら「良いこと」なのかも知れない

   「本当は何が良いことなのか?悪いことなのか?
           私は知らない、私には解らない!」

       これ程までの、存在に対する最大限に謙虚な、
       大いなる自覚はあり得ないのじゃないだろうか?

なぜならその時、
自らの死との直面さえをも祝うことが出来るからだ
起きてくる、ありとあらゆることに対して
私たちが条件反射的にしてきた解釈に対し
「自分自身 (の身勝手な解釈) からの自由」が得られるからだ・・・

「それが悪いことだと誰が断言できる?」
「それが良いことだと誰が断言できる?」

だとすれば、起きていること全てに対して笑うしかない

「知性の究極的な進化のステージでは
  『知る事』と『知らないこと』とが表裏一体だ」

っとOSHOは言っているが、それはまさしくこのことじゃないだろうか?

ただし、ここで注意すべきは
  これぞ〝究極的〟自由・・・
  されど〝究極的〟自由・・・ に過ぎない、ということだ

究極奥義というものは、やたらめったら乱発するべきものではない
               ・・・っということだ

関係ない人にスペシウム当ててしまい謝ったらまたスペった


達磨大師の弟子が
 「森羅万象はなぜ存在するのですか?」
  と言った〝究極的〟質問に対して
  達磨大師が、いろいろな仏教的解釈によって解答しているやりとりを
  OSHOは紹介した上で

   「私がこの様な〝究極的〟質問を受けたならば、
    『知らない』『解らない』っと答える」
    ・・・と言っている

だから私は
吉田統合研究所の所長さんに対して
「OSHOって凄く謙虚なんですよね~」と言ったことがある
 ...この私の言葉に対して所長さんがビックリしていたのを覚えている

  カルト・キリスト教が根深いアメリカにおいてのCNNインタビューでさえ
  あらゆる信念体系に対して丁々発止のやり取りをしてきたOSHOを
  「謙虚だ」と称賛するならば、所長さんならずとも驚く人が多いだろう

しかし上記の様に、OSHOは究極的にはとても謙虚な人だった
すべての人々の究極的な自由性に関して
OSHOほど絶対的な肯定をしてきたマスターはいない

しかし、それはあくまでも〝究極的には〟である

私たちに「究極的な断定」が出来る日は来ないだろう

  「何が正気で、何が狂気なのか?」
    「何が善で、何が悪なのか?」

・・・ごく日常の感覚の中では、私たちはそれらを「知って」いる

 でも、このごく日常的な
 正気や狂気、善や悪、正邪の定義でさえ
     〝究極的には〟定義不能なのだ

そんな私たち人間如きが神を定義出来るわけが無いのだ
そして神の存在を断言出来るわけも無い
それが可能なのは、神以上の存在だけだ

で、あるなら
「神というのは、人間のエゴの投影~ビッグ・ミーに過ぎない」
             というOSHOの言葉も明瞭だと思う

だから、「全知全能たる神」への憧れを捨てたあと
  私たちはずっと、間違え続ける
   私たちはずっと未完成だろう

しかしそれさえをもを全面肯定してしまった時
一体何か、否定すべきものがこの世に残っているだろうか?

私とあなたの唯一のちがいは、
あなたは自分自身に
オーケーを言っていないが、
私は自分自身に絶対的に
オーケーと言ってしまったということだ。
  それが唯一の違いだ。