キリスト教徒なら
「神はあなたを愛しておられるのです」っというだろう

OSHOは
「人生に微笑んでごらん、人生が微笑み返してくれるだろう」といった

かつて運命学を研究していた私は
「運命から愛されているという確信がなければ人生は始まらない」
っと、表現したい

          ・・・どれも基本的に同じ事を言わんとしている

今日まで大病も大怪我もせずに
55歳の今日まで大過なく生きてこられたのはまったくもって奇跡だ

もちろんいろんな試練(テスト)は数限りなくあったが、
その試練も、成功も、失敗も・・・、
それら全部ひっくるめて運命からの愛のアメと鞭だったと確信する
そして
「運命からの愛」を信頼することが
「運命を愛する」事でもあると思う

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しかし、「生きてこられた」だけで人生に感謝することは難しい
〝生き生きと〟「生きて」こそ、それが生の実感だ

先日、NVC(ノン・ヴァイオレンス・コミュニケーション)の
「私たちは、本質的に〝お願い〟と〝感謝〟しかしていない」
     という言葉に出会った  ・・・鋭い洞察だと思う
「お金」や「原発賛成、反対」といった方法論に目を奪われてしまうと
   考え方や立場の違いのみが浮き立ち、人と人は衝突してしまうが
   「(お金や電力で)心安らぐ豊かな生活がしたい」ということには
    誰もが共感(エンパシー)出来る

    自らの切実なNEEDSの核に気がつけた時、
    他者のNEEDSにも気がついていける

   相互の切実なNEEDSに気がついていくと
   そこには対立も、議論もない豊かな静寂がある

  ・・・でもそれを逆に言えば
    日常の中で、かなり切実なNEEDSでさえ、
    私たちは無意識の中に押し込め
    犠牲にしてしまっていると言うことだ

そうなると水が与えられない植物の様に
私たちの人生はみるみる萎れてゆく



しかしこのNVC用語で言うところの「NEEDS」というのは
         わたしたち日本人にはイマイチピンとこない

でもこれを「欲」のことだと言い換えると分かりやすい
このブログで何度か書いたことだけれど
「(いまここの)欲」と「(いつかどこかの)望」とが癒着してしまい
「欲望」となった時、人々は狂気に陥るのだ

例えば〝食欲〟を充たすことは決して難しいことではない
「おなかが空くことのつらさ」は誰でも簡単にエンパシー:共感出来る
しかし、「アレが心配コレが心配」といって
個々人が無限に食糧を備蓄し始めた時、地球は一気に定員オーバーとなる

 いわゆる「地球人口削減計画」というのはここに基づくわけだ・・・
 「アレが心配コレが心配」を掻き立て、人々を狂気に陥れる・・・
  そして人々に常に枯渇感を与え続け、争いを掻き立てる・・・

現代の少子化問題もそうだ
「アレが心配コレが心配」だから、子供を産めない
結婚していても恐くて産めない
っというよりも結婚や、恋愛すらも〝贅沢品〟に見えてしまう・・・

  ・・・それらの〝心配〟は確かに「目に見える事実」に基づいている
     それらは確かに「いまここにある危機」であることは否定出来ない

しかし、NEEDSを諦めることは、
突き詰めれば「生きることを諦める」こととなる

「生きる」ことには合理的な理由などない、論理的な目的や必然性などない
「生」そのものがとてもゴージャスな現象なのだ

だから狂った欲望に掻き立てられてはいけないが
「望」と分別された「大欲」に生きることが肝要なのだ

「望」が癒着してしまうと地球はひとたまりも無いが
「欲」は無限に成長しても構わないのだ、いや、そうするべきなのだ

その時初めてわたしたちは、
「We are the world !!」
「We are the children !!」
っと高らかに屈託無く唄うことが出来る・・・

 ゴージャス~贅沢な人生を自らに許すと言うことは
 「ダメ、ダメ、ダメ」「エゴはダメ」「エコが絶対」に育てられ
  その制限文化にすっかり慣れ、洗脳されてしまった私たちにとって
    もはや生理的に、非常に高いハードルだ
それは、「運命からの無制限の愛」「人生の微笑み」を信じられるか?否か?
 そこにかかっている

しかし、これはまさしくシェイクスピアの有名な
「生きるべきか?死ぬべきか?」という言葉を引用しても全く大げさな話ではない

もし私たちが「運命に愛されていない」なら?
これほどの人生のタイトロープを渡っていけただろうか???

    その問いに「あり得ない」と迷わず答えられるなら、
    私たちはその信頼感から莫大なエネルギーを得られるだろう

私に言わせれば、
それがバシャヤンが言うところの「ワクワク:エキサイトメント」だ

しかしバシャール自身も「私はアメリカが担当だ」と言うように
わたしたち日本人にはこの「ウキウキワクワク」というのは
馴染まない感覚なのだ

特に克己心が強く、
「他人に迷惑を掛けるぐらいなら自殺を選ぶ」タイプが多い私たち日本人には
こういったイケイケ・タイプのキーワードはピンとこない

私たち日本人はすっかりデフレ・マインドに染まってしまい
今まさに集団自殺せんとしている・・・

そんな私たち日本人には
バシャールの必殺技「エキサイトメント」を直輸入しても遠すぎるのだ

わたしならば、そんなアメリカ~~ンな「エキサイトメント」をこう訳す

      ・・・「生き甲斐」「ハリのある人生」っと

私の父は2009年、まさしく「生き甲斐」を人生のどこにも見出せなくなって
自殺同然の意気消沈の中で癌になって死んだ

あの時の父に私が「ワクワクしよ~ぜ!」と言っても到底無理だっただろう
父は自ら科した制限、人生の「ワク」の中で窒息死したのだ
父は「ワクワク」なんて言う言葉は〝見たくもなかった〟ことだろう

しかし、
もっと〝静かな〟言葉だったら受け止められたはずだ
「自分の人生が生まれてから今日まで、すべて祝福だった」ことを
もし、納得出来たなら、もう少し自分の人生をゴージャスに塗り替えることを
          父は自分自身に許すことが出来たのじゃないだろうか?

思えば、青年期に敗戦を体験した父は
我慢につぐガマンだった、それがあまりにも父の人生のトーンそのものだった

ずっと自由を渇望していた父・・・
しかし「渇望」して、それゆえに必死に大学に行き、必死に仕事に行ったが
自分自身に「自由を許す」ことはとうとう出来なかったのだ

父はもっと「自分自身を生みだした運命に身を委ね」て
自分のやりたいこと、・・・つまり自由を
単に「探す」というよりは「許す」ベキだったと思う

「ハリのある人生」を得るために「お金が必要」「時間が必要」なのではなく
「ハリのある人生」を生きることが「お金」や「時間」の必要性を
          充たしてくれるのではないだろうか?

え? 「もしそうじゃなかったら?」だって???
確かに運命の女神は私たちに保証書を発行してくれるわけではない
しかし、「生物学的に生き延びる」ことに一体どんな意義があるだろうか?

実際の処、それは「安全な死」に過ぎない
たしかに「死んだような人生」ならば危険は無いかも知れないが
果たしてそれが我らが運命の女神の望み、であろうか?

私たちが運命の女神の愛すべき子供であるのか?否か?
そこにすべてがかかっている様に思う