昨日、誰かが読みかけの経済誌を職場のテーブルに見かけた

 見開かれたページの記事のタイトルには
  「激変する高所得職業」
  「あなたの子供は実は優良株!?」
         と大きく書いてあった

それを見て
「ああ、まだこんなレベルの親たちが多いのかな?」と溜息をついた
私は今、誰の子供でも誰の親でもないが
もし、こんな記事を喜んで読んでいる様な親の子供であれば
金属バットでフルスイングして親をブチ殺すことだろう

だから自分の子供を「優良株」だの「不良株」だのと分類している
こんな親たちに育てられている子供たちが、いまもいるならば
不憫で成らない

よくスピ系の間では「無条件の愛」という言葉がもてはやされるが
これ程誤解を招きやすい、無責任な言葉は無いと思う

「優良株の子供なら愛する」
「不良株の子供ならガッカリ」
   という親には親としての資格などない

---そういう文脈で「条件付きの愛など愛ではない」というなら分かる
  スピ系で言うところの「無条件の愛」とはきっとそれを言いたいのだろう
  で、簡略化してそのことを示すために「無条件の愛」と言っているのだろう
しかし
  「条件付きの愛など愛ではない」イコール
  「愛は無条件」ということではない

 愛は相手の幸せを願う祈りだ
だから「あなたの子供は高所得者になり得る優良株かも知れませんよ?」
っと言われてご満悦な親たちとは
「子供にお金で苦労して欲しくない」と祈ることが親心・・・
・・・つまり「愛」だと思っているのだろう

でもそれは「お金で苦労したくない」という親本人の投影だ

これは「自由」という言葉にも言える
私たちは「不自由さ」ならばウンザリする程体験している・・・
だからその対極に「自由」があり、
つまり自分達は「自由とはなにか?」当然知っている感覚を持っている

しかし、私たちの知っている自由とは
不自由な状態から「解放された」瞬間の自由のことしか知らない
その「開放感」がのど元過ぎて三歩歩けば、もうその感覚は無い

だから「自由」という言葉と「解放」という言葉とにほとんど差が無い

「愛」にせよ「自由」にせよ「平等」にせよ「幸福」にせよ「健康」にせよ・・・
これらの言葉には全部同じようなことが言える

それらは日常の瞬間瞬間の中に埋もれているが
思い出すのはそれらが
〝欠乏している〟〝欠落している〟と、切迫して感じる時だけだ

愚かな親は自分の子供を失った時だけ
子供を「優良株」だとかそうでないとか見なすことの愚かさから目覚めるだろう
そんなことが愛でも親心でも無いと自覚できるのは失った時だけだ

「無条件の愛」などという言葉の「いわんとすること」が
正確に誤解無く理解出来るのは「いまここにすべてがある」ことを
すでに悟っている者だけなのだ・・・

  ・・・しかし、そんな「悟った者」には
     もはや「無条件の愛」などという言葉は無用なのだけれど