とうしん氏がいう「二つのワンネス」というのは
私なりの理解でざっくりまとめちゃえば
「水平的ワンネス」と「垂直的ワンネス」だ

水平的なワンネスというのは「みんな同じ」を〝前提にして〟語られる
垂直的なワンネスというのは「みんな違う」を〝先手として〟語られる

水平性とは〝前提条件〟~つまり勝手な〝憶測〟からスタートする
まずは何か証明したい神なり真理なりがあり、
そこから様々な実証例やら経験律、方程式やらが展開され
結果としては当初の命題が、「ほら!証明出来たでしょ?」っというわけだ

  これらの中には本当の〝発見~ディスカバリー〟は存在しない
       そのかわり〝発明~インベンション〟があるだけだ

   物事の正当化、意味づけ、説明であるならば
             無限に山程、可能だろう
          ああもいえる、こうもいえる・・・

  こうして学問でも、宗教的な教義でも教典でも、どんどん増えてゆく
  私たち人間がやってきたのは、有史以来、ずっとこればっかりだ
  科学は確かに発見という事実を前提に発展してきた
  しかしこれも理論体系化し、ある程度の再現性を持ち
  それをもって「客観性がある」として
 「真理としてこの理論は証明された」とくる

   「最大公約数的に人々が肯くこと」
     ・・・それが〝水平的である〟と言うことの意味だ

だから水平的なワンネスとは、信者数の獲得が重要であり
よく言えば民主的、
悪く言えば多数決的な、均一化した信念体系の崇めるワンネスだ

対して、垂直的なワンネスとは
個々人の独自の感性、視点の違い、多様性を優先する
そしてそこから目をそらさない、一歩も動かない、
つまりはじめから「どこかを共通目標として」歩き出さない
   はじめから「人々を束ねる」という動機を持たないのだ

何かの動機、前提条件を持ってしまったならば
もうそこには本当の意味での発見はあり得ないからだ

よく「世界は自分の鏡だ」とスピリチュアルでは言う
でもそれが本当ならば私たちひとりひとりは、
みな鏡の世界の中に閉じ込められていることを意味する
もし「類は友を呼ぶ」というならば
わたしたちは本当は
一度も新鮮な〝外部〟の空気を吸ったことがないことになる
限りない自己中毒の中で窒息しかかっていることになる

ジャズが好きな人はジャズばかり聴いて
ロックが好きな人はロックばかりを自分の世界の中で聞き続ける

ショパンが好きな人は、ショパンを神だと思い込んで
ショパンが好きな人達だけと付き合うかも知れないが
その狭苦しい、むさ苦しい「好みの世界」の中では
ショパンこそが〝水平的な神〟であろうし
自分自身も、周囲の人々を見回しても
ショパン教の信者だらけではあるだろう・・・
「ショパンって神だよね?」と尋ねれば、目に映る人々は肯くのだろうが
そこでは何一つ証明されたわけでも、新鮮な発見がなされた訳でもない

むしろ、
そのショパン教というミラールームから脱出したところにこそ
真実はある

ヌーソロジーが言うところの〝外〟とは
どおやらそんなニュアンスの様だ

あらゆる
  思い込み、前提、憶測、観念、
   動機、期待、欲望の〝外側〟にこそ真実がある

あらゆる個性とは構造を持ち、
構造を持ったものとは特定の体験、運命を呼び寄せる
   シャベルとして作られたならば、
   土を掘ったり、という様なシャベルの仕事にしか縁が無いだろう

しかし、シャベルがシャベルという個性から脱出するためには
シャベルとしての役割に専念し、
シャベルの役割、シャベルの運命を全面的に全うする以外にはないのだ
そしてそれが「シャベルの世界」からの最短の卒業経路であろう・・・

シャベルでも、のこぎりでも、鉛筆でも、消しゴムではないもの・・・
そのそれぞれの個性を全うし、使い切り、役割を卒業したその先に
個性を超えた全体性がある ・・・それが〝垂直性のワンネス〟だ