全く抵抗要因が何も無い、
対抗者も居ない「無」の空間に投げ込まれたならば
 たぶん私たちは自由を感じるチャンスも
      創造性を発揮するチャンスも
    状況を突破する革命のチャンスも失うだろう

私たちが眠りの中で見る夢の世界や、
生まれてくる前にいて、死んだあとに帰って行く、いわゆる霊界とは
まさしくそういう「チャンスがない」世界かも知れない

よく世間では霊界とは、
先祖達やその他死者達の魂が待っている世界だと言うが
わたしは霊界とは
いわゆるその「死者達」にせよ、その他あらゆる生物種の霊魂も
究極的には全く分離がない、「渾然一体」の世界かも知れない
と思っているので、〝向こう〟に還ったならば
〝わたし〟の外側に誰も居ない世界が・・・
いや、〝わたし〟の外側が存在しない世界が、
永遠に続くのだろうと思っている

〝そこ〟には動物、植物も含め誰も居ないだろう
でも、だから〝わたし〟もいない・・・・
〝あなた〟が居ないなら〝わたし〟という概念もあり得ないのだから・・・

無限の世界において唯一存在しないもの、それは〝壁〟だ

〝わたし〟と〝あなた〟とのATフィールド、絶対境界線だけが存在しない
どこまでもどこまでも壁も柵も、境界線も、定義による区切りもない世界が
広がっているからこそ、それは〝無限の〟世界だと言える

つまり無限の世界というのは、
〝自由過ぎて〟しまって自由が自覚出来ない世界だ

〝肉体〟という局所的体験が出来なければ
〝悟る〟という事もあり得ない

「神である自覚を忘れた神」こそが
「私たちの内なる神」「眠れる神」と言うことではないだろうか?

絶対的自由とは、不自由な相対的要因との共存共栄によってのみ存在する
そしてその共存が実現可能なのは、
私〝たち〟が共同でひしめき合い、ど突き合いながら暮らす、
雑多なこの日常なのだ

他者との境界が全くない〝向こう〟の世界に
夢の中で「里帰り」している純粋意識の状態から見れば
物理的な制限と分離、区切りだらけに見える〝こっち〟の日常は
悪夢でしかないかも知れない・・・
オマケに肉体は重いし、腰は痛い、腹は減るし、カネが必要だ

〝こっち〟のニンゲン生活は、終始一貫性が他者から要求される
昨日までの自分の態度を、今日も明日も期待されるし
自分自身も他人にそう要求する

もし、言うことや態度に終始一貫性がなく、支離滅裂であれば
「お前はキチガイか?」と言われ社会的に抹殺される

怪我や病気は、一瞬で治ることはないから
昨日の傷口は、朝ベッドで目覚めると同時にうずき始める

だからその過去から未来への継続性こそが制限性の本質であり
その継続と制限性こそが、紛れもない〝こっちのリアル〟~現実性だ。

友人がロバの姿で現れたり、それが唐突に消え去って別の場面になっても
不思議に思わない夢の中を〝アン・リアル〟だと、私たちは日常で確信している

   ・・・でも本当にそうなのか?
      それは定義上の違いに過ぎないのではないか?

要は、睡眠中であれ、三次元的日常生活でであれ、
「いま」体験している「ここ」がリアルであり、
          「あっち」がアン・リアルな訳だ

        ・・・そうして夢と現実は区別されている

しかし、
主観的な夢の中での絶対的自由と
客観的な他者の視線がある日常での相対的自由とが相互依存関係にあるのなら
眠りと覚醒との境界線、
リアルとアン・リアルとの区別は、だんだん溶けてゆくのかも知れない

映画「神様メール」より
2018-06-10