本当に頑固な人というのは
〝柔軟で柔和〟だとおもう



よく言えば「不動心がある人」なのだろう
そしてその不動心は
確たる信念や、他者への〝期待の無さ〟〝無関心〟が
支えている場合が多いのではないだろうか?

そんな、「押しても引いてもビクともしない」
・・・そういう人はある意味で
   「人格的に完成された人」と見えなくもない

飄々として、悟った老賢者のようだ
だから尊敬や人望を集めることも多々あるだろう

でもそんな「のれんに腕押し」「馬耳東風」なひとが
本当に悟った人なのか?どうかはまた別である気もする

確たる柔軟さ、柔和さというのは
他者と争わないだろうし、確かに余計なエネルギーも使わない
そしてブレない・・・・

でもそれは、ある種の感覚麻痺によっても、そう振る舞うことが出来る

・・・要は
   「誰が来ようが、何が起きようが、もう方針を決めている」
    という点で、鈍感なのだ



 つまり、柔軟さや柔和さ、他人への無関心さというのは
 訓練によっても実現可能だ

わたし自身も、余計な他人との摩擦、軋轢をスルーするために
そういった〝訓練〟をしてきた人間だった

それは確かに処世術としては、そこそこ優れてはいる、が、
しかし、この「柔和さという名の鎧(よろい)」もまた、
しょせんは〝鎧〟の一種に過ぎないと思う

この便利な鎧からすら脱皮しなければ
人生にじかに触れているとは言えないように思う

他者と激しく戦うにせよ、和解するにせよ
その方針をあらかじめ用意しておいた〝出来合〟で対処していたのでは
どっちにせよそれは鎧だ

拳法などでは〝カタ〟を何度も繰り返して訓練し
あらゆる事態に素早く対応出来るように準備する
そしてそれが〝強くなること〟だ

そしてそういうブルースリーのような「電光石火の動き」に
私たちは憧れる

それで、
  表面的に「勝つ」事は出来るだろう
  状況を「コントロール」することは出来るだろう

  日々訓練したように、反射的に対応すれば良いだけだ
  そうすれば気が付けば相手を組み伏せることは出来る

でもそんな「便利な戦闘マシーン」になることが
本当に人生を生きることなのだろうか?

単に〝柔軟で柔和であること〟だけというのは、
     武術と何も変わらないのかもしれない