OSHO 祈るように愛を交わし、それを目撃し続けなさい from Katal Maneel on Vimeo.


セックスであれ、仕事であれ、日常の家事や、
    ・・・・何を、どんな活動をしている時であれ

  全く涼やかに、コトの全体を目撃している「わたし」がいる

  それは、交通事故で自動車に跳ね上げられた死の瞬間であれ、
  まったく微動だにしないで、
  克明に、静かに物事を見守っている・・・「私」だ

 その「私」でずっと居続けることが
 きっと瞑想状態ということなのだと思う

「私は何をしたくて生まれて来たのだろうか?」
若い時はそればかりを考えあぐねていた
そしてその答えは
「なるべく何もしたくない」であった

でもそれは、文字通りの意味ではない
おしっこをしたければ「トイレに行く」ことが何もしないことだった
つまり「無為自然」であることこそが、真の意味での「無為」であって
それは物理的にジッとしていることではなかった

私たちにとって、
なぜ瞑想を「する=Doing」「行為」という感覚になるのかと言えば
そこに死の匂いがあるからだと思う
そこに死への恐怖があるからだと思う

「何もしない」ということには、死の予感がある
それは私たちにとって退屈が死ぬ程嫌な感じであることと同じだ
 自分が静止して、
 なんの進展もない、進化もしていない、生産活動にも関わらない
 何て時間の無駄なんだろう! 時間こそが人生なのに!
 死は刻々と近づいているのに!

   私たちは退屈を感じている時それを痛感する

でも、同時にそれが最も「人生でやりたい」ことではないだろうか?
誰もが一度で良いから、
「死の淵をさまよう程」深く、静かにくつろいでみたくはないだろうか?

ところが、いざそこに近づくと私たちは退屈してしまい、そわそわし、
死の恐怖を感じる前に自分の意識を閉ざし、眠ってしまう

だから折角自分の身体がくつろいでいても
私たちはそこに居合わせることは無い

ぐっすり眠れる夜もあるだろう、
それで身体は回復するが、
でも本当にくつろいだというわけではない
その時、私たちは「退避」してしまっている
くつろぎの中に留まり、居合わせ、その状態を目撃しては居ない

・・・だから、私たちは本当に心底くつろいでは居ないのだ
   何か常に気がかりを抱えて、それに自分からしがみついている

  私たちは、明日を手放してぐっすり眠ったことはない
 そんな、「手放し」をしたら、もう明日は目覚めないかも知れない
 真っ暗な闇と静寂の中、何時間でも無制限にそこに居ることなど出来ない

それはもっとも恐ろしいこと、退屈なこと・・・でも本当の望みでもある