幸せを感じている人は
人生の意味を問うことはまずない
エクスタシーの真っ最中で深刻に問うべきことがあるだろうか?

不幸を感じている人
孤独を、不安を、退屈を感じている人は
人生の意味を問う、深刻な哲学者になる
 そしていつも、何か「意義深い目的、理由」を探している・・・

   ・・・健康に良いとか、
      社会的生産性とか、貢献とか、
      宇宙の進化とか、神の意志とか・・・

ひとは
今の人生が決して無意味では無いのだと言い聞かせる支えが欲しい
今の自分よりも、より偉大な、自分を肯定してくれるものが欲しい
  ・・・そしたら、きっと人生に納得出来る、充実できる

でも、いまここに歓びを感じている人に、
それ以上の何が必要だろうか?

たとえ私がそう問うても
きっとすぐに私は叱られてしまうだろう

「確かに今はハッピーかも知れない」
「でも今こそ、時間を無駄にせずに
 〝ちゃんとして〟おかなければ、
  きっと明日は困ることになるんだよ!」 っと

  ・・・そんな風に警告する人も多いだろう
   ・・・他人の心配をするのが好きな人達
      確かに彼らの心配は
     「それみたことか!」と
      的中することもある
      だからそういう人達は、
      もちろん、ますます、四六時中、何かを心配している

そこでもし、
「人生の究極的な意味など、ない」と私がちゃちゃを入れれば
そんな人達から私は袋だたきに遭うだろう
彼らは自分の心配に、根拠がある、確信がある
だから私は容赦なく攻撃されるだろう

でも私も彼らに疑問がある
いったい彼らはいつになれば、どうなればハッピーになれるのだろうか?
彼らが高々と掲げる「人生の究極の意味」「究極の価値」・・・
・・・でもかれらに(よせばいいのに)私はまたちゃちゃを入れるだろう

   「で、それの意味は?」っと
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   「己を失う者は、おのれを得る」
          ・・・という言葉がある

人生は何て単純明快で、複雑怪奇なのだろうか?

 この言葉は、
  クリスチャンにとっては
  「自己犠牲による魂の救済」を言っている様に見えるだろう

  OSHOのサニヤシンにとっては
  「恍惚の至福の中で起きる神秘」を語っていると見えるはずだ

私はきっとこの正反対の解釈のあいだをずっとさまよい歩いてきたに違いない