(悟りへの)秘訣は、〝求めない(Do'nt seach)〟ことだ
OSHO

こう修行者、求道者、サニヤシン達が聞いたら、当然、
「よし、そうか!じゃあ求めないぞ!」っと思うだろう

そして、いわゆる日本語で言うところの〝無念無想〟を試みる・・・
額に汗を浮かべて・・・

  考えて見ればこの状況自体が、パラドックスだ

  「よう~し!、求めないぞ!」と、
   意識する時点で、
   もう奮闘が始まってしまうからだ

あるスーフィーのマスターが
求道者の無念無想を実現したいという質問に答えて

  「よし、じゃあ猿について考えるな」
      っというトラップを仕掛ける

その可哀想な求道者は
次の日にはアタマの中がサルだらけになってしまう(笑)

「サルについて考え〝ない〟」という「意識すること自体」が、
               すでにサルの虜になってしまう

   さあ、ガチョウは、瓶の中に捕まった!!

私たちの頭の中のカラクリとは、かならず
「何かを求め」そして「何かを得る」という構造式になっている
だから決して「いまここ」を捉えることが出来ない

ある健康オタクのダイヤモンド屋の社長さんは
自身の主催する講演会でこう言っていた

  「私は無念無想を試みると、
   逆に雑念だらけになってしまうから
   私には瞑想は合わないみたいだ・・・   」

  「私の人生にOSHOは要らないんだ・・・  」

(まあ確かにOSHOは〝万人の必需品〟だとは思わないけれど)
この社長のダイヤモンド屋さんの展示場の中には
マイケルジャクソンやシャーリーマクレーン、ダライ・ラマなどとの
マブダチ・ツーショット写真が、
商品であるダイヤモンドと共に誇らしげに並んでいるが、
この社長さんの〝必需品〟は、きっとこういったものなのだろう・・・

彼の
「スピリチュアルや健康理論と合体したダイヤモンド商法」とは
                   一体何だろうか・・・?

 ・・・彼には失礼だが、彼のコレクションは
    瓶の中に捕まったガチョウが
    瓶の中の生活を楽しむための装飾品にしか、わたしには見えない

  健康と長寿を享受したい、金持ちになりたい
  有名人とマブダチになり、有名になりたい、栄光が欲しい
           ・・・そして究極的な悟りも得たい

私たちはステップバイ・ステップで、あれもこれもそれもゲットしたい
・・・それこそが人生の価値だと思っている

それを前提に、「求めないこと」といわれれば
「よし、じゃあ求めなければ悟れるんだな!、よおぉ~し!」
とハリキリはじめる

このおかしな堂々巡りの「コトの全体」に気が付くべきだ

「求めない~無欲」→そしたら→「悟りへゴォ~~ル!」
      ・・・・なのじゃ<ない>のかもしれない

 求めて〝いない〟状態、それが即、すなわち無為自然、(=悟った状態)
                  ・・・なのじゃないだろうか?

  でもこう書いたとしても、
  多くの人にきっと突っ込まれるだろう

  「え?わたしは24時間、四六時中、何かを求めているわけじゃない」
  「つまり〝無欲な状態〟なんて、しょっちゅうあるよ?」

  「それがもし、
   あんたのいう様な〝即、悟った状態〟なら、
        なんで悟りの至福を感じないの?」


でも私はこう反論したい

 わたしたちはそもそも〝悟った状態〟がどの様なものか?
              「知っている」
                    のだろうか?

  わたしは自問自答した  ・・・「知らない」っと

  つまりこの記事の結論はこうだ

   エックハルト・トールやOSHOなど
   様々な「悟りの神秘体験談」さえも、
     私たちの〝障害〟になっていないか? ・・・っということだ

そこでわたしたちは、「悟ったらきっとこんな神秘的な至福の体験をする」
という勝手なイメージを想起し、次の瞬間にはそれに憧れ、追いかけはじめた

   ・・・それがあらゆる修行者、求道者に
       起きていることなのじゃないだろうか?

 そしてそれゆえに、それこそが、私たちを「欲望の盲目」に
               しているのじゃないだろうか?

私たちは、確かに四六時中何かを求めては居ない様に見える
でも、必ずなにがしかのイメージを持っている
そして無意識に、そのイメージに縛られている
「悟ったら、きっとこんな風に、あんな風になるに違いない!」という様に・・・

 ・・・この時すでに私たちはイメージを、・・・・
    つまり「知っている」「こうであるべき」「ああなるに違いない」
    という幻想を追いかけ、その幻想に捕まって居るのじゃないだろうか?

        そいうった様々、諸々のイメージ・・・・、
          「私は知っている」という幻想こそが眠りなのだ、
               っと覚者達は言いたいのかも知れない

何かに対するイメージ、想起、概念は、もうすでに〝欲望〟であり
そして欲望とは、スタティック(静的、不活性)ではあっても
「探求なのだ」と言えないだろうか?
そのもっとも典型的なわかりやすい例が
「エロティックな」イメージだろう
「イメージすること」則、
欲望であり、
欲望が見せる夢であり、
欲望のエンベローブ(延長)であり
私たちは自覚しなくても、
すでに「追いかけっこ」をしていることになる
               ・・・四六時中

ひょっとしたら、
  〝無欲さ〟をまだ、私たちは知らないのかも知れない
  〝無欲さ〟にさえ、私たちは勝手なイメージ付けをしているのかも知れない
 そして
  〝無欲さ〟とは、私たちの想像を絶する奇跡なのかも知れない!!


クリシュナムルティーは
「知っていることではなく知らないことが自由」といったが
これは森羅万象に対する「イメージ付け」こそがまさに該当するかも知れない

誰もが「私は知らない」と思いたくない
だから人は無垢に、無邪気には戻れない・・・

人物に対するイメージ
企業に対するイメージ
様々な光景に対するイメージ
特定の言葉、フレーズに対するイメージ
自分自身に対するイメージ・・・

・・・あらゆるイメージは過去からのものであるのにかかわらず
   それに私たちは囚われて生活している

確かに私たちは過去のイメージ付け無しでは社会的には生活出来ない
イメージ付け、レッテル付け、カテゴリー分けは
過去の経験値を根拠としたもので、
それ無しでは私たちは買い物ひとつ出来ないだろう

わたしたちはドップリと自分自身でイメージした情報の世界の中で生きている
でも、その「イメージの海の中を泳ぐ魚」に
自分自身を同一化しすぎないことじゃないだろうか?

「求めている」状態と「求めていない」状態・・・
一体どちらの方が、「本来の自分自身」だろうか?