OSHOの言葉に
「嫌々ながらの受容性は、到底受容性と言えるシロモノではない」
というのがあった

数年前、ヌーソロジー用語とOSHO用語の違いと共通性みたいのを
何本かここで書いたときに、このことを書いた

受動性と受容性とは一見よく似ている言葉で混同しやすいが
実際には致命的な違いがあり、ほぼ正反対の意味でさえある

「嫌々ながらの受容」とは、受容性ではなく受動性だ

  ・・・それはガマンであり、妥協であり、消極的な相槌(あいづち)だ

「ああ、ハイハイわかりましたよ、(しょ~がね~なあ~)」という意味だ

それは生返事であり、相手への密かな侮辱だ

 相手の言うことを納得したフリをすることは
  複雑で注意力を必要とする作業現場などでの
  打ち合わせにおいては
  大事故すらも起こしかねない危険な態度だ

我が国には永らく
「ガマンは美徳」という道徳心が尊ばれる時代があった
かと思えば高度経済成長時代の様な
「消費が美徳」というバブルな浮かれた時代もあった
・・・これらの〝美徳〟は両極端な違いではあるが
   どちらも農耕民族的な情緒に支配された受動性だとおもう

それに対し、
ホンモノの受容性とは状況への愛情深さ、注意深さであり
   「受動性」と言うよりもむしろ「静的な能動性」だ

「我慢」も「忍耐」も英語では「patience(ペイシェンス)」だが
   我慢は奴隷根性の受動性で、
     心の目も耳も塞がっているが
    忍耐強さは王者の風格がある受容性で、
     全身全霊が心の目として、耳としてゆったりと開いている

それは霊感ですらある
霊感とはチャネリングやら占いやらと言うことだけではない
愛情深い受容性とは、ありとあらゆる日常的な営みにさえ
神秘と神聖さをもたらす霊感ともなる

だれもがガマンしている社会、妥協している社会は
  殺伐として、潤いがなくなり、あるいは暴力性さえ帯びてくる
  そうなったとしたら
   それはロボット的な受動性が人々の心に蔓延しているからだと思う

31.Acceptance   受け容れること


「受容的な状態」とはつまり、
極めて瞑想的な状態だと言えるし
また愛情深い状態だとも言える

つまり、自我意識に分断された顕在意識が静まった、
真我意識、潜在意識に導かれた状態だ、とも言えるのだろう